最初で最後の嘘
第1話 どうして宇宙(そら)で星は瞬くのか
角度が15度くらいに傾いているアスファルトの上り坂を黒い自転車が爆走する。
急な坂道をものともせず自転車を漕いでいるのは理由不明の涙を流していた少年――遊である。
靴は黒のローファーで少し漕ぎづらそうなのをものともせず爆走する。
目的地は坂の上の遊が通っている
大きな都市の郊外にある国公立学校である。
それでいて随分と個性的な名前の高校である。
ちなみにその高校の名前に地名、人物名、土地名あたりは全く関係ない。
一体なぜこんな名前になったのか。
それが楓華弐凛高校の七不思議のひとつだ。
今朝は自転車なので彼は家から40分位をかけて登校するのだ。
現在の時刻は8時20分であるのだが、道のりはあと三分の一はある。
楓華弍凛高校は夜間学校でも他の学校よりも優遇されている事も非ず、門限は8時45分。
つまり遊は遅刻寸前。
大ピンチも大ピンチなのである。
遊にとってみては人生最大の困難に感じただろう。
さすがにそれは言い過ぎだが。
そのくらい大変なことなのだ。
一見学校は坂の上ですぐ近くのように見えるのだが、実際に走ってみると上り坂はキツいわ、螺旋を描くように坂道が曲がりくねっているからスピードが出ないわ、でキツイったらありゃしない。
(なんでこんな変な地形なんだよ…ここに学校建てるとか嫌がらせも大概にしろよ!)
そんな要因のせいで心身ともに疲労困憊な朝の登校風景だが、遊は朝から感じている違和感に苛まれていた。
掻い摘んでいえば、そう。
楽しくないの一言に尽きる。
(覚えているのは数週間とはいえ登校ってこんなつまらなかったか?)
朝からずっと何かを求めている。
しかし何を求めているのか、何に不足を感じているのかすらこれっぽっちも分からない。
今朝から本当に何がおかしい、と心の中で呟く。
長期的に心の奥に燻っている疑問のような気がするのだが、短絡的な問いに落としこもうとも全く何も進展がない。
浮かび上がってくる問いは一つ二つと浮かんでは消え、ループし始めている。
何が足りないのだろうか。
朝食は置いてあったパンに目玉焼きを焼いて挟んだサンドウィッチを食べたし、課題は昨日のうちに友達に写させてもらった筈だ。
それに行き詰まった課題は友人に相談している。
つまりやるべき事はキチンと終わらせた筈。
考えれば考えるほど『退屈な日常』を送っていて、『刺激的な日々』以外に忘れた物はない。
しかし次第に古痛が疼くかのように理由の分からない不安が押し寄せる。
「…やっぱ学校が鬱なのか。それとも心の病気…はやっぱり学校とかに原因があるじゃん」
遊は別に虐められているわけではない。
学友は頭が良くて気のいい正に優等生ばかりだし、彼の頭の中が残念だからといってわかりきったことをグチグチと何度も詰るような先生もいない。
勉強こそ嫌いなものの、学校自体は行きたいとは思っている。
とすると気づかぬ内にストレスを溜め込んでいて、今朝の涙の一軒から今の違和感までに影響しているのかもしれない。
ストレスの原因として考えられるのはやはり勉強の事だろうか。
(考え直してみれば、成績やばいな。なんで今まで安心仕切ってたんだ?…そういえば誰かに教えてッ!!?)
教えてもらえるかも、と考えた瞬間に
それは脊髄から血管に入り込み、全身を駆け巡って痛みをもたらす。
まるで毒のように、その痛みは遊の全身を喰らい、食み、噛み千切り、舐り、すり潰し、そして終いには痛みごと嚥下する。
その頃には痛みによって全身の感覚は麻痺し、ついさっきまで感じていた痛みさえも忘れさせ、痛みも薄れると同時に呼吸を始める。
僅かな刹那に起きた出来事であったが、遊にとっては何ヶ月も続いたかのような痛みだった。
「ッッッ!!!」
余りに突然な痛みに半端放心して自転車を止める。
目のあたりに手をやればまた涙を流していた。
やはりどこか体調が悪いのだろうか。
一度メンタルケアの専門家の意見でも貰いに行って来るかとも考えたが親に要らない心配をかけたくはない。
まだ大丈夫だ。
「…ほんとに何なんだ」
呻くように呟き、目を拭ってまた遊は自転車を漕ぎだす。
それにしても泣いたのなんて何時ぶりだろうか、とまた思考を巡らせる。
(きっと、今朝より前は…俺が七歳の時に俺の親父が居なくなったあの日だ。俺にとっては悲しい、決意の日。あの日以来俺は泣いた事が無い。無いはずだ。泣いて迷惑をかけることがないようにと転んでも、喧嘩しても、例え誰かが死んでも。ッッッ!頭が痛てぇ。…いや、誰か死んだことがあったか?いや、ない。そんな薄情な奴はもっと母さんは悲しむだろうから。愚直に泣くことだけは辞めた。そう俺は俺に誓ったんだ。決して母さんを悲しませるなって。いやでもじゃあなんで、今泣いている?何故泣くことだけ辞めたんだ?何故泣かない事だけに固執した?俺のこの記憶は正しいのか?)
混乱しすぎて次第に支離滅裂な思考になっていく。
既に自分の荒い息遣いも、全身を襲う倦怠感すらも思考の外に追いやってあの日を回想する。
――彼が七歳の時にはしばしば夜に遊の父親――
遊は昔から星や空など、自分の手では決して届かない物を見ることが好きだった。
そこで目に映した景色に思いを馳せて、まだ見ぬ世界への憧憬を抱いたり、未知への想像を膨らませる事が何よりも楽しかった。
それこそ、小さい頃に男の子が一度はやる空想ごっこに則って自分が何かになったつもりで自分の役になりきるように、自分がその未知の先にいる生命体で、自分の思い通りの世界で自由に暮らすのだ。
それは時にSFチックで、時に素敵な出逢いもすれば、悲劇的なドラマを描いたりもする。
それが夜寝る前などの遊の楽しみの一つだった。
それを夢代わりに見て、それを翌日人に語り部のように聞かせるのが何より楽しかった。
伝える言葉こそ拙いが、吟遊詩人の物語のような胸踊る展開と子供特有の発想の豊かさで誰かが喜んでくれるのがとてもとても嬉しかった。
だいたいはそれを眠る前に観たものに影響されるが彼の理想のひとつだと言えた。
その日も遊は父親ワゴン車に乗り、父親の運転している方向とは反対の星空を見ていた。
まるで虹を描くかのように散りばめられた宝石が、紺色の
そしてそれを押しのけるようにして、真ん中に鎮座しているのはほんのり紅色に染まった衛星であった。
遊は普段から疑問に思っていた問いかけをした。
「お父さん、どうしておほしさまは色んな色があって、ピカピカひかっているの?」
隣に座り、運転している黒縁メガネをした優男がその問いに答える。
「んー?それはね、遊。お空のもっとずっと向こう側にはね、宇宙という大きなお部屋があるんだよ。そのお部屋は真っ暗なんなだけど、恒星っていうお星様は自分で光ってる…言わば電灯みたいなものなんだ。宇宙は本当に真っ暗だから遠いのに弱い光もある程度ハッキリ見えるんだよ」
「うちゅう…?よくわかんないけど僕も行きたいな。どんな所なの?」
「うーん…父さんもこの惑星では詳しく知らないなぁ。でも地球っていう惑星ではね、宇宙から見た地球はそれはもう見事な青だったんだ。そしてその地球がくっきり青と分かるほど周りの宇宙は暗かったんだって」
「どうやって行ったの?」
「んー、ロケットっていう乗り物かな」
「ろけっと…僕も大きくなったら欲しい!」
「ハッハッハっ!そうかそうか…なら、沢山勉強しないとな?」
「うっ…がんばる」
そのうち、急に車が減速し始め、慣性の法則に従ってGを体に感じながらも、目的の場所に着いたようだった。
和気藹々とした父との会話に知識欲を刺激されながらも、遊は疑問を感じたことがある。
(あれ?もう着いたの?)
いつも来ているあの星が見える小高い丘はもう少し時間が掛かっていた気がする。
それとも父親との話に夢中で時間が早くすぎてしまったのだろうか。
しかし遊の身長では、あまり外の景色が見て取れない。
残念なことに座椅子は卒業したばかりだ。
空はいつもと変わりないが、どことなくその場の雰囲気が違う気がした。
肌が泡立つような錯覚に陥る。
なんと表現すればいいのか、まるで夢の世界に迷い込んだかのような不思議な高揚感や早く外に出なければ行けないという正体不明の焦燥感が津波となって押し寄せてくる。
感情が嵐に吹かれ荒れ狂ってのたうち回っている。
「よし、着いたぞ」
「うん」
父親の鶴の一声を切っ掛けに、遊もシートベルトを外して外に出る。
夏場だと言うのに、体を包み込むようなむさ苦しい暑さはなく、ただ心地よい風が吹いていた。
そして、正面を見据えると。
空が、二重に広がっていた。
空に煌めく美しい星々や星々の渡り鳥は鏡のような水面に反射して、まるで地上にも空が広がっているかのように錯覚させる。
空に落ちてきたような感覚さえする。
優美な自然というものをマジマジと肌で感じて、改めて自然とは雄大なものだなと感想を抱く。
その美しい景色に見蕩れていたら、近くに父親の気配がないことに気づいた。
先に下に行ったのだろう。
遊も下に降りて、父親の後を追う。
夢逢は星の海に足を付けて、本物の空を見上げていた。
その瞳は郷愁めいた感情や諦念、無気力さ、後悔、憎悪などの
何を考えているのだろう。
今日の父は何となく、失恋した乙女のような、そして自分に対する憤りを感じている青年のような儚さと脆さを秘めている気がする。
目を離した隙にフッと消えてしまいそうな希薄さ。
いつもの父親を構成する要素を無理やり希釈して他のもので継ぎ接ぎしたような不気味さ。
そこにはいつもの活発な父とはどこか違う父の姿があった。
夢逢は遊が立てる水音に徐ろに振り返ると、遊の方へ歩き出した。
そして遊の目線に自分の目線を重ねると、深呼吸して息を吐き出すように静かに言った。
「遊、ここで父さんと、いくつか約束をして欲しいんだ」
「やく、そく?」
「あぁ。遊は父さんとそれを約束して、必ずそれを守り通してくれ。できるか?」
「…?…うん!まかせて!」
「よし!いい子だ…本当に。…じゃあまず、一つ目の約束な。一つ目は例え何があっても――」
そう言って約束を交わす
そこからは遊の記憶は曖昧で何があったかは分からない。
しかし、父の忘れ形見である約束を果たそうと努力したのは事実だ。
今となってはどのような約束を、幾つ約束したかは覚えていないが、父親を裏切るようなことはしていないだろう。
思い出せないというのは、昔に済ませてしまったことなのかもしれない。
そう遊は片付けた。
片付けてしまった。
臭いものに蓋をするかの如く。
それでも、まだ何も知らないまま夢のような
まるで
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