空に焦がれた魔法使い(6)

「――ディ、パディ!」


 身体が揺さぶられる感覚に、パトリックは目を覚ました。座った姿勢で眠っていたせいか、腰にかすかな痛みが走る。だが、そんな痛みなど、耳をなでる聞き慣れた声にかき消されてしまった。この数日、聞きたくて仕方がなかった声だ。

 飛び起きたパトリックは、きょとんとした様子のジュアンの顔に安堵し、再びその場に崩れてしまった。


「ジュアン? ああ、ジュアン……! 良かった……!」


「パディったら、僕の部屋で寝てしまうなんて。そんなに寂しかったのかい? 一声掛けてくれれば……なんだ、死人がよみがえったみたいな顔をして」


 一方のジュアンは、長い眠りから目覚めたとは思えないほどに普段どおりだった。むしろ、取り乱しているパトリックの姿に、戸惑っているようだ。パトリックは、ジュアンのこの態度に、彼自身、長らく眠っていた自覚がないことを悟った。

 パトリックから、この数日眠ったままだったと聞かされたジュアンは、たいそう驚いていた。だが、眠りの理由にも、やはり心当たりはないらしい。彼は不思議そうに、「妙なこともあるものだ」と言っただけだ。

 彼の態度を見ているうち、パトリックは、なんともいえない心地になった。まなうらに焼きついた、彼によく似た人の姿が、草原と青空のはざまに消えていく。


「すまないね。心配をかけてしまって。けど、不思議な話だね。どこも悪くないのに、何日も目を覚まさないなんて。長い夢を見ていたような気はするんだけど……」


「夢?」


「空の夢、だったような気がする。ぼんやりとしか思い出せない。ただ、空が青くて、高かったことくらいしか。僕は多分、ずっとそれを見上げていた、と、思う。……きれいだったなあ。そう、夢の中でも確か、僕はそんなことを言ったんだ。ひとりごとじゃなく、誰かに。誰にだろう……?」


 あの草原で空を見上げていた、幼い兄弟――。パトリックは、ジュアンが見た【夢】の正体を知っていたが、曖昧な記憶を辿ろうとするジュアンには、あえて手を貸さなかった。


「思い出せないこともありますよ。夢ですから。……少し待っていてください、何か飲み物でも入れてきます。もう何日も、何も食べていないでしょう」


「ああ、うん。頼むよ。おかしいな、すごく印象的な夢だと思ったのに……」


 頭を悩ませるジュアンに、パトリックは背を向ける。教えてやることもできたのだが、彼の兄弟が、それを望まないだろうと思ったから。ジュアンを眠りにつかせたのが、空に――もう帰らない兄弟に焦がれた彼自身の心だったとすれば、何もかも、思い出さないほうがいいのだ。彼がもう、遠い日の夢にとらわれてしまわないためにも。

 ジュアンの部屋を出たパトリックは、ふと、廊下の突き当たり――ジュアンの苦しみが隠されていた、あの部屋を覗き込む。

 不思議なことに、部屋の中には、何もなくなっていた。ジュアンが思いをぶちまけた痕跡だけでなく、家具やら、アルバムやらも消え、すっかり空っぽになってしまっていたのだ。

 ――誰かに。誰にだろう……?

 ジュアンのあのつぶやきの理由に気づいたパトリックは、小さく笑んだ。幼い自身を連れていなくなった【ジュアン】の背中が、パトリックの脳裏を過ぎる。

 パトリックは、そっと部屋を出た。今はともかく、ジュアンに温かいミルクでもいれてあげたかった。

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