空に焦がれた魔法使い(5)

 釘を打たれたはずの窓の輪郭が解(ほど)け、その向こうから、光が降りそそぐ。真っ白な、それでいて熱を帯びた光だ。パトリックは固くまぶたを閉じて、暴力的なまでの光が和らぐのを待った。

 彼が再び目を開くと、室内の様子は、まるで変わってしまっていた。ぶちまけられた塗料も、散らばっていたアルバムや手紙も、窓を塞いでいた板もない。代わりに、かわいらしいシーツがかけられたベッドが二つ、仲良く並んでいた。

 それだけではない。窓枠を経(へ)、床に落ちる光も、布張りの空が降らせる薄暗いものとは違っていた。パトリックは輝いている床に触れ、その温かさに驚いた。そして、温かさのもとを探ろうとするかのように、窓を仰ぐ。


 窓の向こう、はるか頭上に広がっていたのは、青だった。それも、一面の青だ。誰にも触れられないだろう高さに、澄んだ、抜けるような水面が浮かんでいるのだ。……いいや、違う。あそこには何もない。おかしな言い様だが、パトリックは、あの青は透明の色をしていると思った。

 こんな空は見たことがないのに、不思議と、パトリックの心はそれが空だと知っていた。「きれいだったよ。青くて、高いんだ」――パトリックは、脳裏をよぎったジュアンの言葉を噛みしめる。きれいだなんて言葉では、とうてい足りない空に見惚れながら。

 分厚い布を剥がされた、『鯨』の影さえ見当たらない、果てのない水を湛えた、空。青く透き通り、どこまでも高くに広がる――【ジョシュア】が焦がれた、空。


 パトリックは、吸い込まれそうな空から視線を外し、背後を振り返る。そこには、ファーシーが立っていた。ファーシーは、パトリックの視線を受けるなり身を翻し、廊下へと滑り出る。パトリックが空を見る間、待っていてくれたのだ。

 パトリックは、一度だけ窓の方を振り返った。

 何が起きたのかは分からない。だが、ファーシーがパトリックをここに呼んだ以上、どこかに【ジョシュア】を救う手がかりが落ちているはずだ。パトリックはファーシーの後を追い、薄明るい廊下へと踏み出す。


 歩いてみれば、廊下も、一階も、パトリックが知っているのとは、少し違う様子をしていた。キッチンに掛けられたカレンダーの日付はにじんで読み取れず、【ジョシュア】が普段使っているすり鉢やノートはそのままなのに、玄関に転がる靴は小さく、食卓には四つもイスが並んでいる。なんだか、妙にちぐはぐだ――そう思ったかたわら、パトリックは、自らの足が床に浅く埋もれるのを感じた。板張りの床がこんなに柔らかいはずがないのに。ファーシーは、そんな違和感の中を、重くも確かな足取りで抜けていく。

 ファーシーが玄関の扉を開くと、その先には、パトリックが知る街の景色ではなく、鮮やかな草原が広がっていた。草の隙間に流れる光の帯は、どうやら星の群れであるらしい。星の川を足元に並ぶ、二つの人影を見つけたパトリックは足を止める。

 夢中で青空を見上げる小さな二人は、写真で見た、幼いころの【ジュアン】と【ジョシュア】の姿をしていたのだ。

 パトリックは、数歩先で足を止めたファーシーの肩に追いつき、その顔を覗き込む。【彼】のフードの奥は、今や、虚ではなくなっていた。


「……ジュアン」


 パトリックの呼びかけに、ファーシー――【ジュアン】は、いたずらっぽく微笑んだ。彼の顔の右半分は闇に蝕まれ、人ならざる形をしていたが、その笑みは清々しい。


「僕たちの問題に巻き込んでしまって、すまないね。けど、ジョシュアのそばに君がいてくれて、本当に良かったよ。僕ひとりでは、どうすることもできなかった」


 その声は、【ジョシュア】のそれよりも、ほんの少しだけ甘かった。

 パトリックには、彼の言葉の意味も、そこに込められた思いも理解できなかった。だが、こんな姿になってまで、彼は【ジョシュア】のそばで、その目覚めを待っていた。兄弟の事情を知らないパトリックにどう誤解されようと、なんと言われようと、青空にとらわれて帰らない自らの片割れが帰ってくるのを、ずっと待っていた――その事実が、彼がどれだけ【ジョシュア】のことを気にかけていたか、語られずともパトリックに伝えてくれていた。


「弟……ジョシュアのことは、君に任せる。あいつの家族になってやってくれ。平気なふりをしてはいても、寂しがり屋だからさ。……それだけ」


 【ジュアン】はそう言いながら、双子のかたわれの手を、そっと握る。その子どもは、【ジュアン】の異形の手にも驚くことなく、嬉しそうに笑った。幼い兄弟の手が、するりと離れる。

 兄の手を追おうとするもう一方の子どもの手のひらを、すかさずパトリックが握った。幼い【ジョシュア】は戸惑うようにパトリックを見上げ、そして、【ジュアン】に連れられていく兄の背中を見つめた。


「にいさん」


 小さな【ジョシュア】の呼びかけに、【ジュアン】が足を止め、振り返る。彼はへらりと微笑んで見せると、一言、こう言った。


「お前はもう、ひとりで一人前だよ」


 【ジュアン】は、【ジョシュア】の返事を待つことなく、幼い姿をした自身の手を引いて、パトリックに背を向ける。

 【ジュアン】の背中は、あの部屋に封じられていたすべての意味を――彼と【ジョシュア】それぞれの願いを、暗黙のうちに物語っていた。


「俺が……俺が、ジュアンの家族になるから! そばにいるからな! だからっ――」


 ――あんたはもう、眠っていいよ。

 【ジュアン】は振り返ることなく、ただひらひらと、空いた方の手を振って応える。遠ざかる兄弟の背中に手を伸ばして泣き出した小さな【ジョシュア】を、パトリックは優しく抱きしめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る