空に焦がれた魔法使い(4)

 パトリックの不安は現実になった。次の日、そのまた次の日を越えても、ジュアンは一度も目を覚まさなかったのだ。目覚めを待つこと四日目になる今日に至ってもまだ、パトリックは眠るジュアンのかたわらでうなだれていた。

 彼は、ジュアンがいつでも生活に戻れるよう、家を隅々まで掃除していた。商品の並びを整え、傷んだ食材を捨て、洗濯物を片し、床や窓を念入りにみがいた。何度もジュアンを揺さぶり、日が明けたと声をかけた。だが、相変わらずファーシーはジュアンを見つめている。

 夕、『鯨』が泣き叫ぶ。今日も、サイレンの音が響く中、ファーシーは姿を消した。ファーシーは、ずっとジュアンの部屋にいるわけではなく、決まって夜中に現れ、夕方、『鯨』がサイレンを鳴らす頃にいなくなる。

 パトリックはファーシーの気配が消えたことに安堵しつつ、ジュアンの手をとった。ゆっくりとした呼気が、心拍が、今のパトリックには、あまりに遠く思われた。


「いつまででも、待ってますから」


 パトリックは、ジュアンの手に自らの頬を押しつけた。ジュアンの体温が、じわりとパトリックの頬に広がる。どこの子とも知れない薄汚いパトリックをなでてくれた、大きな手。仕事柄だろうが、かすかに、すんとした薬草の匂いがする手。

 ――パディは僕の家族みたいなもの……いや、僕が勝手にそう思っているだけなんだけどね。嫌かな?

 ふと、ジュアンがかけてくれた言葉がよみがえった。同時に、情けない雫がパトリックの頬を伝い、ジュアンの手を濡らす。泣く子どもは生き残れない――分かっているのに、ジュアンの温度に慣らされた心は、寂しさに震えていた。

 本当に目を覚まさなかったら。ジュアンが、このまま死んでしまったら……。パトリックは、あふれる不安を抑えきれず、ばたばたと階段を駆け下りた。

 ここは薬屋だ。もしかすれば、何か、ジュアンを救う手段があるかもしれない。パトリックは棚に並んだ薬の瓶を次々確かめたが、ラベルに書かれた単語はやはり、どれもパトリックの知らないものだった。

 読めない。瓶の中身が、何ひとつ分からない。ジュアンを救える可能性が目の前にあるのに、それを知ることさえ、今のパトリックにはできないのだ。がしゃん――パトリックの手からこぼれた小瓶が、床に打ち付けられて弾ける。明かりの灯されていない部屋に差す夜の影の中で、瓶の破片が、白く散った粉の川が笑う。

 薬棚を前に、パトリックは膝を抱えた。床に広がった何かの薬も、散らばった小瓶の群れも、ジュアンを救ってはくれない。ファーシーは、今夜もまたジュアンのもとに現れることだろう。それまでに、何ができるだろう。……自分に、何ができるだろう。


「……家族、だって言ってくれたのに」


 孤児であるパトリックは、本当の家族を知らない。だが、ジュアンの手のひらは温かく、パトリックに【家族】というものを思い起こさせた。ジュアンの店は、パトリックが得たはじめての居場所だった。

 失意に沈むパトリックのそばで、二階へとつながる階段が、重く軋む。一瞬期待したが、階段の手前に立っていたのは、あのファーシーだった。サイレンが鳴り、ジュアンの部屋から消えた【それ】が、今ここに現れた――パトリックは、その事実に必然めいたものを感じた。ファーシーが、自分になにか訴えようとしているように感じられたのだ。

 パトリックはファーシーに向かい立ち、そのフードの奥に満ち満ちる闇を見据えた。その恐ろしい暗闇のなかにある【意思】を、探ろうとするかのように。震える指先を、こぶしに握り込んで。


「お前は多分、ジュアンの命が欲しいんだろ? でも、あの人は優しい人だよ。ばかみたいなお人よしなんだよ」


 パトリックの手が、縋るようにファーシーのマントを握る。その向こうにある異形の体は恐ろしかったが、それよりも、ジュアンを失うことの方が恐ろしかった。


「連れて行かないでくれよ。俺はあの人に救われたんだ、あの人だけが俺を家族だって言ってくれたんだ。俺の命で代えられるなら、そうしたってかまわない。だから、ジュアンだけは」


 深々と下げた額が、ファーシーのマントに触れる。

 ジュアンの店のドアを叩くまでは、何よりも、生きていたかった。明日を生きるために、必死でそのときを生きていた。今だって、もちろん死ぬのは恐ろしい。それなのに、命をあげるなどと口にしてしまえたのは。こうするのが間違いじゃないと思えるのは――きっと、パトリックが、ジュアンという居場所を得たからなのだ。

 ファーシーは、底なしの闇をもってパトリックを見つめていたが、やがて、彼に背を向けた。パトリックは、階段を上っていくファーシーを追いかけ、【そいつ】に取りすがる。


「待って! もうジュアンのところには行くな! どうしてっ……どうして、俺じゃいけない! ジュアンが何をしたっていうんだ!」


 ファーシーは、パトリックの叫びすらかえりみない。階段の末でファーシーに振りほどかれたパトリックは、とうとうへたりこんでしまった。

 ファーシーは、きっと、またジュアンの部屋に行くのだ。『鯨』のサイレンが鳴った後なのに現れたのは、おそらく、今日こそジュアンを連れて行こうとしているから……。

 パトリックの不吉な想像に反して、ファーシーは、ジュアンの部屋を通り過ぎ、さらに廊下の奥へと向かっていく。その先、廊下の突き当たりにある部屋は、ジュアンが、絶対に入らないようパトリックにきつく言いつけてあった部屋だった。ファーシーはためらいなくその部屋のドアを開け、向こうへと消えていく。

 妙に思ったパトリックは、ジュアンの部屋の表、ミニテーブルに置いてあった手燭に明かりを灯して、黒い足跡を踏んだ。一歩踏み出すごとに、パトリックの直感が危険を訴えかけてくる。それでもパトリックは進み、ついには扉を押し開けた。


 覗きこんだ室内は、驚くほど殺風景だった。家具は、ベッドとサイドテーブル、それに、たんすがひとつあるきりだ。カーペットの敷かれていない床は、はられた板がむき出しになっている。

 室内に足を踏み入れ、手燭を胸の高さに掲げたパトリックは、ぎょっとした。大きな窓があっただろう場所が板で塞がれ、その上から水色の塗料がぶちまけられていたのだ。室内にファーシーの姿がないことよりも、それがジュアンの所業によるものであることに、パトリックは衝撃を受けた。あの穏やかなジュアンが、壁に塗料をぶちまけている姿など、まるで想像できなかった。

 呆然とするパトリックの背後で、何かがばさばさと落ちる音がした。振り返れば、開け放たれた扉の手前に、いくつもの紙束が広がっている。

 ファーシーの気配を感じて周囲を確かめるも、やはり、その姿は見つからなかった。パトリックは警戒しつつ、紙束の中身を確かめる。


 いくつかの分厚い束は、アルバムであるらしかった。父親と母親、それに、顔のよく似た双子の兄弟……。仲よさげな家族の写真のはずなのに、双子の兄弟のうち、片方の顔だけが、すべて黒く塗りつぶされている。顔をなくしたその子の正体がジュアンであることを悟ったパトリックは、思わずアルバムを取り落とした。分厚いアルバムは、パトリックの手を離れて床に打たれ、ページをいくつも送る。

 最後に開かれたページには、大きくなった双子が、仲良く映っていた。日付は三年前――ジュアンがパトリックを迎え入れる、少しだけ前だった。そこで、彼ら二人の記録は途切れていた。写真が収められるはずだった空白のページに、一枚の封筒が挟まっていたきりで。

 国軍配達局の印が捺されたその手紙は、戦場から送られたものであるらしかった。消印は二年半ほど前のもので、差出人の名はJoshua――おそらく、ジョシュアと読むのだろう――、そして、受取人の名はJuan――ジュアンだ。


 パトリックは胸がさざめくのを感じながら、封筒の中に収まっていた手紙を開く。その手紙には、パトリックにも読めるような簡単な単語で、たった一行、こう記されていた――『ジョシュアへ。ひとりにしてしまって、すまない。どうか、青空に囚われないで生きてくれ』、と。手紙の右下、書いた主を示すサインは、【ジュアン】だった。

 パトリックは戸惑い、何度も封筒と手紙を見比べた。封筒と手紙とでは、差出人と受取人の名前が入れ替わっているのだ。封筒に書かれた送り先は『ジュアン』であるのに、手紙の中での呼びかけは『ジョシュア』……。

 パトリックの疑問を解いたのは、手紙とともに封筒に収められていた、【ジョシュア】を指して送られた青い一枚紙――前線への召集令状だった。

 前線から離れた『セブンス』において、一般人を対象とした徴兵は行われていない。だが、ほんの一部、特別な技能を持った者たちだけは、早期から戦場に駆り立てられていた。青の令状は、彼ら、まじない師や魔法使いに宛てられたものだった。


「魔法、使い……ジョシュア……」


 戦前までは青かった空。板をはられた窓。壁にぶちまけられた水色の塗料。顔の塗りつぶされた写真。召集令状。封じられた一室。目覚めないジュアンをじっと見つめる存在――何もかもが、双子の片割れに帰結する。

 『青空に囚われないで生きてくれ』。手紙の中のあの言葉が、ジュアンが……いいや、【ジョシュア】が目覚めない理由を、パトリックに教えてくれた。

 パトリックは手燭を拾うことも忘れて立ち上がり、辺りを見回す。


「ファーシー、そこにいるんだろ? 【ジョシュア】を連れ戻したいんだ。力を貸してくれ!」


 瞬間。無風のはずの室内に吹いた鋭い風が、置き去りにされた手燭の火を吹き消した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る