空に焦がれた魔法使い(3)

 翌日のことだ。

 その日何度目になるだろうか――パトリックは、焦れる気持ちを抑えて時計を見やった。足元では、窓枠に切り抜かれた光が斜めに歪み、床にはりついている。

 もう、朝の掃除どころか、昼の棚整理も終えてしまった。それなのに、待てども待てども、ジュアンは起きてこない。すでに夕といって差し支えない時間になろうとしているというのに、店の看板は閉店を指したままだ。

 ジュアンはどうしてしまったのだろう。疲れているのだろうか。いつもの【眠り病】だろうか。それにしても、こんなに起きるのが遅かったことはない。不審に思ったパトリックは、ジュアンへの遠慮を拭って、彼の部屋のドアを叩いた。


「パトリックです。もう夜になってしまいますよ」


 返事はない。これではいけないと悟ったパトリックは、ドアを押し開けた。

 部屋に入ってみると、やはり、ジュアンはぐっすりと眠ったままだった。特別やつれた様子もなく、いつもどおり、幸せそうに眠っている。パトリックはジュアンを優しく揺さぶり、声をかけてやった。


「ジュアン、もう夕方ですよ。起きてください」


 だが、ジュアンは一向に目を覚まさなかった。どんなに揺すっても、声をかけても、なぜか意識が戻らないのだ。どうして――焦るパトリックの背後で、何かが動く気配がした。

 振り返ってみれば、部屋の隅に、黒いマントに身を包んだ人影が立っている。体格からすると男なのだろうが、無言で立っているばかりなせいで、正確な判断はつかない。【そいつ】の足元には、昨晩廊下で見た足跡と同じような、黒く、どろりとした水たまりが広がっている。

 いつの間に……。戸惑うパトリックは、深く被されたフードの奥を覗き、さらに顔を白くした。そこには、頭部の代わりに、色のない闇が収まっていたのだ。

 目を覚まさないジュアンの方を向いて立つ【そいつ】の姿に、パトリックは、小さいころに人から聞いたおとぎ話を思い出した。

 ――死に瀕した者の枕元に立ち、その者が死ねば魂をさらっていく妖精がいてね。人間の男によく似た姿をしているんだが、頭がない。彼らは死者を哀れんですすり泣くのだが、目も口もないものだから、その涙は首から溢れ、床をびしょびしょにしてしまうんだ。


「……『ファーシー』」


 パトリックは、【そいつ】――死の妖精・ファーシーを睨んだ。

 ジュアンは昨日まで、あんなに元気だったのだ。昨日まで……そう、あのファーシーが、この部屋に消えていくまでは。となれば、ジュアンが目を覚まさない原因は、きっと、このファーシーにある。


「ジュアンに何をした」


 パトリックの声は、怒りに震えていた。対するファーシーは、変わらず、フードの奥の虚に沈黙を漂わせるだけだ。パトリックはつかつかとファーシーに歩み寄り、その胸ぐらを掴む。人間によく似たシルエットの長身が、ぐらりと傾いだ。


「答えろよ、お前がジュアンを眠らせたんだろ! ジュアンをっ……殺そうと、してんだろ!」


 ファーシーは答えない。代わりに、マントを掴むパトリックの手に、そっと自らの手を重ねた。ざらざらとした鱗に覆われた、異形の手だった。パトリックは息をのみ、弾かれるようにファーシーから手を離す。

 怯えた目で、それでも果敢に睨みつけてくるパトリックを、ファーシーはフードの奥の闇をもって見返した。ただただ静かなその闇は、飢えやけがで、あるいは絶望に自らの手でその命を終えた者たちの、最期のまなざし――パトリックにとっての【死】そのものの色をしていた。魅入られてはいけないと分かっているのに、目をそらせない。背筋が、ぞわりと粟立つ。

 脱力しかけたパトリックを正気に返したのは、街に夜を知らせるサイレンだった。ウウウ、ウウウ……『鯨』の悲鳴に、パトリックとファーシーのあいだにあった視線の糸が途切れる。

 ファーシーは、パトリックからジュアンの方に顔を向け、何を思ったか、身を翻した。そして、呆然とするパトリックをその場に残して、濡れた足跡とともに部屋を出ていってしまった。

 そうして、ファーシーの姿がすっかり見えなくなったころ。ようやく恐怖から解放されたパトリックは、その場に崩れた。緊張に押しつぶされそうだった肺が、酸素を求めて膨らむ。苦しい胸を押さえる手は、まだかすかに震えていた。

 あんな恐ろしいものに、敵うはずがない。パトリックは悲鳴を飲み、力なくジュアンの方を見やった。ジュアンの寝息は変わらず安らかだが、もしこのままジュアンが目を覚まさなかったら――。パトリックは、不安に胸元を掻きむしった。他にどうすることもできなかった。

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