空に焦がれた魔法使い(2)
小気味良い雨音が聞こえる。冷えた空気が、じわじわと体温を奪っていく。
カーテンの隙間から覗いた街は暗い。ときおり、『鯨』のサーチライトに照らされた家々の屋根が白く浮かび上がるだけだ。『鯨』に見つめられた窓たちは、息を潜めて、その影が過ぎるのを待っている。
夜、灯火管制下の街は暗闇に没する。明かりを灯すこと、カーテンを開けたままにすること、また外出することも禁止されていた。いつ来るやもしれない空襲に素早く対応するために『鯨』はいるのだと人々は言うが、パトリックは知っていた。『鯨』は、この街の人間を守るためではなく、管理するためにいるのだ。でなければ、カーテンを閉め忘れた家の主を連行したり、カンテラ片手に夜の街を駆ける子供らを撃ち殺したりするはずがない。
雨粒が、窓の裏側ではぜ解ける。路上で暮らしていた時には、体温を奪っていく恐ろしいものだったはずの雨なのに、散っていくさまは、なぜだか妙に物悲しかった。
パトリックが冷えた窓に手を伸ばした、そのとき。
ぎし、ぎし……。
背後、閉ざされた扉の向こうで、廊下が鈍く軋む。一定の間をおいて聞こえるその音は、確かに人の気配を帯びていた。真夜中、眠りの深いジュアンであれば、すっかり眠りこけているはずの時間だ。掛け時計の鳩が鳴く。
「ジュアン……?」
返事はなかった。
足音が近づいてくる。ジュアンのものとはまるで違う、ずっしりとした重たげな足音。ごく近くまできたそれには、喘ぐような呼気が混ざっていた。ジュアンじゃない――パトリックは背中で扉にはりつき、息を殺した。
硬く、妙にゆっくりとした足音は、パトリックの部屋の前で止まった。蝶番の軋む音は、どうやら、向かいのジュアンの部屋の扉のものらしい。扉の閉まる音とともに、誰かの気配は消えた。
パトリックは、廊下が完全に静まったのを確かめてから、窓台に置いてあった手燭のろうそくに火を灯した。もちろん、カーテンを閉めるのも忘れない。カーテンの挙動に煽られて、ろうそくの火が揺れる。
扉の向こう、ろうそくの明かりに照らされた廊下は、じっとりと濡れていた。黒い水に浸かった足で踏んだ痕のようにも見えるが、それにしては水気が多すぎる。一歩進むごとに、小さなバケツにためた水をぶちまけたかのようだ。足跡の形をした黒い染みは、やはり、階段から廊下を経て、ジュアンの部屋へと続いていた。
パトリックは、ジュアンの部屋の扉に向かい立ち、深く息を吸う。橙の光の中、ドアノブの辺りが怪しく輝いた。床と同じように、黒々と濡れているのだった。パトリックはドアノブに手をかけ、おそるおそる扉を押し開ける。
覗きこんだ部屋の中に、人の姿はなかった。パトリックは目を瞬かせ、辺りを警戒しながら、部屋に足を踏み入れる。手燭をかざして部屋中を見回すが、異変はないように見えた。
何かの勘違いだったのだろうか? パトリックは頭を振ったが、やはり、廊下は黒く濡れていた。【何か】が、ジュアンの部屋に入ったことは確かなのに――。パトリックは薄気味悪く思いながらも、ジュアンの安らかな寝息に背を向けた。
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