空に焦がれた魔法使い
空に焦がれた魔法使い(1)
ガラス瓶の断末魔が耳を突くや、窓枠が落とす影の中に、真珠色の粉が広がった。暗がりに、ちらちらときらめく粉は、まるで星屑だ。写真の中で見た、星空。
少年――パトリックは、不注意で落としてしまった瓶の傍らに屈みこみ、指先でそのかけらをつまみ上げた。かけらから垂れ下がるラベルには、粉の正体なのだろう、パトリックの知らない単語が記されている。この真珠色の粉が何なのかはまるで分からないが、少なくとも、この店の大事な商品のひとつであることだけは確かだった。
瓶のかけらが床を転がる音に気づいたのか、棚越しに、心配そうな声が降ってくる。
「パディ?」
「すいません、ジュアン。すぐに片します」
「そうか。指を切らないようにね。中身ならまた作ればいいから。ラベルだけ剥がして、後でこっちのボードに貼っておいてくれ。……珍しいな、パディがミスをするなんて。心配ごとがあるなら、ちゃんと言うんだよ」
「ありがとうございます。大丈夫ですから」
パトリックは、カウンターで薬剤を調合しているであろう店主――ジュアンに向かって返事を投げるかたわら、足元に広がる星空を、ちりとりの中に追いやった。
パトリックがジュアンの薬屋の雑用係として働きはじめてから、もう二年になる。
上っ面だけの平和を共有しようと、大陸の国々が国境をなくしたのは、もういつのことだったか。旧国境から離れたこの街――『セブンス』にも、資源の利権を巡って起きた内戦の余波は届いていた。
身寄りのない戦災孤児だったパトリックは、同じような境遇の子らと共に、ひっそりと生きてきた。パンのかけらひとつも分けてくれない、自分のことだけに必死な大人たちを憎みながら。
そんなパトリックを拾ったのが、働き手に困っていたジュアンだった。まじないを扱う薬師を、人は避ける。それでもいいならと、ジュアンはパトリックを店に招き入れ、温かいミルクを出してくれた。寝る部屋や食事を与えてくれた。感謝の言葉では足らず、深く頭を下げたパトリックに、ジュアンはこう言った――すまないね、僕たちのせいだよね、と。穏やかな彼に似つかわしくない、ひどく冷えたまなざしで。
パトリックは、ガラスの破片で薄く切れた指先を見つめ、小さくため息をもらした。
この店の商品の主たるものは、小瓶に収められ、棚に陳列された色とりどりの粉や液体だ。ジュアン曰く、「薬じゃないものもあるが、ほとんどは薬」とのことだった。難しい単語を知らないパトリックには、それらが何なのか分からなかったし、薬というのはたいてい高価で手の届かないものだった。だが、カラフルという点で言えば、どこかのショーウィンドウに見た、甘い匂いのするおいしそうなものによく似て見える。ジュアンは、パトリックがそうしてぼうっとしていても、殴ったりはしなかった。「気に入ってくれて嬉しいよ」と微笑むだけで。
パトリックが自分のことを考えているとは思いもしないらしいジュアンは、大きなあくびとともに、間の抜けた声でパトリックを呼んだ。
「パディ、そろそろ休憩にしようか。疲れたろう。ミルクでいいかい?」
ジュアンの声は、きれいな服を着て薬を買いに来た子供に向けられたそれと、少しも変わらない。パトリックはほうきを傍らに立てかけ、ジュアンの呼びかけに応じた。
二階へと続く階段のわきにあるカウンターは、もともとは食卓の意味を兼ねていたのだろうが、今はもっぱらジュアンの作業台として使われている。パトリックが丸椅子を引きずってきて向かい側に座ると、ジュアンは使っていた道具をどけて、カップを差し出した。パトリックは、コーヒーを淹れるジュアンの背中から、カップの中身へと視線を移す。
砂糖を溶いた温かいミルク。働き場所を探して家々のドアを叩いて回ったあの日、出してもらったのと同じ、甘くて優しい匂い。
パトリックは、ジュアンの横顔を見つめる。神様なんて信じていないのに、気づかぬ間に、両手が祈りを形作っていた。
「今日はいっそう空が暗いな。少し息苦しいね」
ジュアンの言葉につられて、パトリックは窓の方に視線を投げる。窓越しに見えるのは、染め布を張ったような、暗い空だった。監視艇『鯨』が、布すれすれを音もなく滑っていく。
今に続く内戦が始まる少し前までは、空は青かったらしい。パトリックには、青い空など想像することもできなかった。物心ついた頃から、空は重く垂れ込め、ぶどう酒色、でなければ泥色をしているものだったから。
けれども、戦前の空を知るジュアンは、今の空を見て、時々寂しそうな顔をする。何かに焦がれるような彼のまなざしを追いかけて、暗い空に目を凝らしても、彼と同じものを見ることはできないのだった。
「昔の空って、本当に青かったんですよね」
答えはなかった。
パトリックが視線を戻すと、ジュアンは、カップを片手に舟をこいでいた。ほんのすこしの間黙っていただけなのに、すでに浅いまどろみの中に片足を突っ込んでしまっている。
パトリックは机を指先で叩きながら、ジュアンの意識を引き戻す。
「ジュアン」
「……あ、ああ。またやってしまった。すまない、最近ひどく眠たくて……。あの頃の空、か。きれいだったよ」
パトリックは、ジュアンの取り繕うような笑みに、一抹の不安を覚えた。
ジュアンは、夜早く床につくわりに、いつも昼を過ぎてから起きてくる。十分寝ているはずなのに、日中、こうしてうたた寝をしてしまうことがよくあった。心なしか、パトリックがここにやって来た直後よりも、眠っている時間が長くなっているようにも思われる。医者を勧めても、本人は「どこか悪いわけじゃないから」と言ってきかないのだが。
ジュアン自身は、たびたび襲ってくる眠気など気にしてもいないようだ。かつてみた空を思い浮かべているのか、夢見るようなまなざしで言葉を続ける。
「青くて、高いんだ。一年中見ていても飽きなかった。日ごと時間ごとに、表情がまったく違っていて……。写真をたくさん撮っていたんだけど、ほとんど色あせてしまうか、押収されてしまったよ。残っているのは、君に見せた星空の写真だけ」
とろりとしたミルクと共に、ジュアンの言葉が、舌の上に優しく広がる。
窓の外では、布張りの空の下、『鯨』がサイレンを響かせていた。その横腹に並んだライトが点滅し、人々を威圧する。時計を見たジュアンが、そっとカーテンを閉めた。
夜が、近づいてくる。パトリックは冷えたミルクを飲み干し、見えずともそこにあるだろう『鯨』を睨みつけた。
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