時計塔のリリス(7)
引き抜かれたぜんまいが転がる重く鈍い音。
少年はただただ呆然と、目の前の少女がくずおれるのを見つめていた。時計塔の歯車のすきまからこぼれた月の光が、ぜんまいをぼんやりと照らし出す。”空の限界”から降り注ぐ藍紫の光がぜんまいに触れてはその影を色濃くし、またふわりと消えていく。
持ち主の身体を離れ、役目を終えた球体関節のついた腕と脚が、薄明かりの中に浮かび上がる。外れ、誰のものでもなくなった手足を、紫色の瞳が映す。
「とと、さま……?」
弱々しい、消えてしまいそうな声。それでも……ぜんまいを失ってなお、少女は生きていた。
自らの手足とぜんまいを見やったリリスの目じりから、つっと涙が頬を伝う。
――いままで、気がつかなかった。心臓の音……ヒトが生きている音。わたしが、生きている音。ずっと、ここにあったのだわ。
ぽろり、ぽろり……涙はとめどなくあふれ出す。
――生きていた。わたしは、ずっと生きていた。ヒトとして、一人の”リリス”という人間として。時計盤を見上げながら、こうして生きていた。
男はリリスの頬を拭ってやると、彼女の身体をそっと抱き上げる。
――リリスにぜんまいを与えたときに、このことは彼女に言うまいと決意した。けれど、時がたつごとに、”言わなかったこと”が”言えなかったこと”になってしまっていた。
幸せそうな笑顔で涙をこぼすリリス――娘の姿が、嘘を吐きつづけた男にとっては最愛の罰であり、報いだった。
「リリス、すまない……すまなかった……!」
リリスは男に向け優しくかぶりを振ってみせると、思い出したようにこう問いかけた。
「ねえ、ととさま。……わたし、温かい?」
――ととさまや、トトの手が温かいように。
男はリリスを抱きしめると、こらえきれなくなったように肩を震わせた。
――温かい。温かいよ。……だって、おまえは、生きているんだから。
「ととさま、ととさまは優しいから、きっと本当のことを言えなかったのね。あのね、これからは、わたしもヒトとして生きていきたい。ううん、ヒトとして生きていくの。ととさま」
――だから、ね。ぜんまいを巻いて。そして、一緒におうちに帰るの。
男はリリスの言葉に、顔を上げることができなかった。
――何もかも、終わると思っていた。リリスが、私の嘘に気づいた瞬間に。もし彼女が、自分が身体の欠けた人間だと、私に騙されていたのだと気付いてしまったら……その時向けられるのは、怒りだろうか。侮蔑や失望かもしれない。どちらにせよ、もう二度と彼女が私に向けて微笑んでくれることなど、ないのだと。
けれど、違ったのだ。
おそるおそる顔を上げた男の目に映ったのは、いつもとなんら変わらない……いや、それどころか、いつもより何倍も優しく、柔らかい笑顔だった。
最も大切なものを失うことに怯える男の心に、少女の笑みは温かく沁みていく。絶対に隠し通すと決意したあの日から、凝り固まっていた嘘が、抱え続けてきた不安が、溶けてゆく。
――私は何も知らなかったんだ。リリスが、こんなに大きくなっていたことも。
男はふっと口元をほころばせ、最愛の娘の頬を再びなでるように拭う。リリスのくすぐったそうな笑い声が、彼の顔に笑みを広げる。
男――『クロッカー』はリリスをトトに預けると、自らはぜんまいを拾い上げた。かつてそれが見せてくれた希望と、リリスの優しい声が、彼の背を押す。
夜明かりに照らされた台座は、床に輪郭のない影を落としていた。クロッカーの震える脚を隠すかのように。
時計盤の裏、幾百もの歯車が、静寂をもって”時計屋”の存在を迎え入れる。彼らはずっと、クロッカーを待っていた。再び、人間の時間を刻み出さんとして。
――嘘を吐きつづけた私を、赦してくれた愛しいリリス。私が奪ってしまった、”人として”のおまえの時間は、きっと戻ることはないだろう。それでも……
(――”だいすきよ”)
――どうか、もう一度やり直したい。
ぜんまいは、”あるべき場所”にしっくりとはまった。
「一緒におうちに帰ろう。リリス――」
少年と少女に見守られ、彼はぜんまいを巻いた。
自分たちの明日を、リリスの未来を、取り戻すために。
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