時計塔のリリス(2)

 藍紅の空に、点々と広がる光の粒。街灯の橙に浮かび上がる草の影など、足をとられれば二度と抜け出せなくなってしまいそうだ。光の道を選んで歩くリリスの胸は、自身の靴音が響くたびに高鳴る。

 そうしてややあって……リリスはふと足を止め、辺りを見回した。はじめての夜の町とはいえ、何か変だと妙な胸騒ぎを覚えたからだ。

 夜の町は柔らかい光と静寂に包まれている。だが、決して穏やかではない。誰も表に出ていないのは、なぜ? 至る所に、殺したような息遣い。疑念と、恐怖の色――


(――”年の時計塔”が止まったらしい)


 リリスはぱっと顔を上げる。

 ――みんな、おびえているみたいだわ。……じかんが、とまってしまうから?

 一度そう気が付いてしまうと、あれだけ輝いて見えた夜の町が急にとても恐ろしいもののように映りだし、リリスは後ずさった。 その時だ。柔らかなワンピースをひるがえしたリリスの背に、詰まった足音が迫る。


「きゃっ!」


「わあっ!」


 足音の主はリリスを突き飛ばし、自らも体勢を崩して道に転がった。

 勢いよくリリスに衝突したのは、一人の少年だった。少年は地面にへたり込んだままのリリスを見るや、助け起こすどころか、その両肩を掴んでこう叫んだ。


「おい、おまえ! 『クロッカー』を知らないか!?」


 リリスは驚きに声も出ず、ただただかぶりを振った。リリスの返事を見た少年は心底落胆した様子で、膝をついたまま頭を垂れる。


「そっか……悪かったな。急いでてさ」


 少年はリリスに手を貸しつつ立ち上がると、そう言って彼女に背を向け、駆け出した。

 こんな静かな町の中を、たった一人走る少年。何が彼をそうさせるのか――考えるより先に、リリスは彼を呼び止めていた。


「まって!」


 少年はリリスの言葉に引き戻されるように、さっと振り返った。やはり、その瞳には焦りの色がにじんでいる。


「悪いけど、今は相手してる暇ない……」


「なにをさがしているの? わたしもいっしょにさがすわ」


 少年の口ぶりからすると、彼はどうやら『クロッカー』とやらを探しているようだった。そんなもの、リリスには分からない。

 ――だけど……だからこそ、しりたいんだわ。

 リリスの中に、夜の藍を窓越しに見た時のような気持ちが広がっていく。手を伸ばさずにいられない、踏み出さずにいられない……それは、好奇心というには、あまりに切実な思いだった。

 少年は戸惑いながも、結局はリリスの制止に応じて足を止める。


「……おれが探してるのは、時計屋――『クロッカー』だ。そいつなら、全ての時計塔を直すことができるらしい」


「あなたは?」


「おれはトト。時計塔の番人さ。年の時計塔が止まってからずっと、『クロッカー』を探してるんだ。……けど、まだ見つからない。もう時間がないのに」


 少年――トトはやはり焦ったようにそう言うと、足元の小石を蹴った。


「探してるんだけど、そもそも、『クロッカー』がどんなやつなのかも誰も知らないんだ。どころか、実在するのかさえ分からない。とりあえず町中の時計屋を当たってみたけど、それらしい人物なんてどこにもいなかった」


 トトが泣き出しそうな顔で濃紺の空を見上げると、リリスもつられて眉尻を下げた。

 時計塔が止まる――それが何を意味するのか、この町に生きる者なら誰だって知っている。だが、時計塔がなぜ止まるのか、もともと時計塔とこの世界の時間はどういった仕組みで連動しているのか……詳しいことは誰にも分からなかった。時計塔の番人としてずっと時計塔を見守ってきたトトですら、それは同じだった。

 トトはリリスに隠れて目じりを拭うと、言葉を続ける。


「時計塔が止まるなんて……これまで何百年もそんなことはなかったんだ。だから、こんな時どうしたらいいかなんて、誰も知らない。今縋れるのは、『クロッカー』だけなんだ」


 トトがそう言い終えた瞬間。ずっしりとした鐘の音が町を揺らした。トトは青ざめた顔を空に向け、早口につぶやく。


「……まずい。年の時計塔が止まったことで、それに連動していた日の時計塔まで止まってしまったらしい。このままだと、秒の時計塔が止まるのは、それこそ時間の問題……こうしてる暇はない、探さなくちゃ」


 けど、どうすればいい。もう、心当たりは全て探した。これ以上どこを探せばいい……トトは、諦めたようにリリスに目を向けた。

 リリスはそんなトトの視線をまっすぐに受け止め、口を開いた。


「わからないことがあったらかしこいひとにきけばいいんだよって、ととさまがいってた」


「賢い人だって? いくら賢くたって、こんなこと知ってる人なんてそういない――」


 リリスの何気ない言葉に、どうしようもない現実で応じようとしていたトトの言葉が途切れる。彼は目を見開き、小さな声で言った。


「……いや、いる、かも」

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