幻想短編集

ハシバ柾

時計塔のリリス

時計塔のリリス(1)

 人々の頭上を覆うドーム状の壁――”空の限界”に、かすかな夜の色がにじみはじめる。

 空の限界より内側に生きる人々は、三つの時計塔の示す時間にしたがって生きていた。秒の時計塔は一瞬一瞬を繋ぎ、世界を紡ぐ。日の時計塔は太陽と月を呼び、人に活力と休息を与える。年の時計塔は四つの月の終わりを告げ、新しい季節を連れてくる。

 そうして今日もまた塔が呼んだ夕暮れの中を、一人の少女が行く。

 少女は、名をリリスといった。西日が赤レンガの壁に映し出した彼女のシルエットは、人とは少し違っている。頭を飾る大きなリボン――かと思えば、それは鈍く光る”ぜんまい”だった。ヒトによく似た姿形ではあるものの、関節にはめこまれた球が、彼女がヒトではないことをはっきりと示していた。


「そういや、聞いたか? ……”年の時計塔”が止まったらしい」


「なんてこと! それじゃあ――」


 不穏なささやき声が、町のあちらこちらに澱みたまっている。だが、鈍いざわめきもリリスの足首を掴むことはできない。

 かっかっか。リリスはなおステップを踏み進む。


「ととさまをお待たせしてはいけないものね」


 足音がテンポを上げる。

 そうしてしばらく。リリスは、長い階段を下りた底――暗闇に浮かび上がる古びた扉を、お決まりのリズムでノックした。


「ととさま、ととさま。あけてくださいな」


 少しの沈黙の後、扉はひとりでにぎいと音を立てて開き、リリスを迎え入れた。

 薄暗い部屋の中、壁に向かった作業机に、一人の男が頬杖をついていた。ととさまと呼ばれたその男は、リリスを見やると、呆れたようにため息をもらした。


「出かけるなら私に一声かけるようにといつも言っているのに、また約束を破ったね」


「ごめんなさい、ととさま。でもね、そとがすごくさわがしいの。みんな、『時計塔が黙った』っていってるの。たいへんなんだって。とけいとうのとけいがとまってしまったらどうなるの?」


「時が止まる。――”秒の時計塔”まで止まればね」


 男は何でもなさそうに答えると、ゆったりとイスの背に身体を預ける。

 ”時間”という概念に鈍いリリスは、短く思考を巡らせた。

 ――りんごがおちなくて、みずがながれなくて、おしゃべりができなくなるのね。


「それはいやだわ。ととさまとおはなしできなくなってしまうもの」


「ははっ、そうかい。確かに、時が止まることの弊害はいくつかあるが、私が言おうとしたのはそういうことじゃないんだ」


 優しくもどこか違和感のある男の言葉に、リリスは男を見上げ、不思議そうに目をしばたたく。しかし男は彼女の頭を丁寧に撫でてやったきり真意を教えることなく席を立つと、奥の作業部屋に姿を消してしまった。

 男が去った後、リリスは男が言わんとしたことについて考え続けた。

 大きすぎる木イスに座り、宙で足を揺らすリリスの瞳が、部屋の隅の廃品の山に埋もれた頭部を捉える。

 それは、少女の顔をしていた。柔らかそうな髪に、少女と同じ紫色の瞳――けれど、ヒトガタになりきれなかった、”がらくた”。


「きれいなひとみね」


 リリスは、”少女”に歩み寄り、にっこりと笑んだ。

 リリスの足元に、山積みの本や投げ捨てられた部品が、長く影を伸ばす。もう、夜はそこまで来ていた。

 ――いつもなら、はやくねなさいと、ととさまがいうのに。

 リリスは、男が吸いこまれていった扉をじっと見つめるが、物音もしない。小さな窓、見上げた地上のそのまた遠くの空から、藍色の光がリリスへと降りそそぐ。

 見たことのない夜の世界に誘われるように、リリスはふらりと家を抜け出した。

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