うたかたに焔

うたかたに焔(1)

 【彼】は、長らくそこに在った。空間を占有しないがゆえに、誰にも気づかれることなく、また意味付けされることもないままに。


 神が世界の柱とした十一の神木のうち、物質世界から離された唯一の神木、ダアト。【彼】は、他の神木、ひいては物質世界のすべてを支える核となるべく創られたためか、創造主である神の脅威となるだけの力を秘めていた。こと、【彼】と人間とが接触することをひどく恐れた神は、【彼】から記憶と自我を奪い、静けさと引き換えに外界のすべてを拒むように創られた世界に閉じ込め、物質世界の全てから遠ざけてしまった。以来【彼】は、自分自身以外の何者にも接触することなく、ただそこに在り続けていた。

 そんな【彼】の中に、神の創った檻の隙間をいかにしてかいくぐったのか、一人の人間が迷い込んできた。まだ年若い、黒い髪をした男だった。ここはどこなのか、どうして自分はこんなところにいるのかという青年の問いかけが、【彼】に自我を与えた。加えて、青年が神話を辿って与えたダアトという名は、【彼】の正体に違わないものだった。


 そうして名と同時に言葉を得た【彼】は、青年と話がしてみたくなり、水面越しの青年の姿をまねた人形を創り出した。人形を通して青年の名を口にした途端、抑えようのない愛おしさが太い幹を駆け抜け、【彼】を戸惑わせた。豊かな葉をさらに青く輝かせた【彼】の姿はあまりに美しく、青年は手を叩いて喜んだ。

 青年は、昼も夜もないこの場所で、彼の宝物だという楽器を奏で、うたた寝に勤しんで過ごした。【彼】は青年の奏でる音色に耳を傾け、人形をもって彼と言葉を交わし、眠る彼を自らの幹で支えてやった。そんな日常の傍ら、大樹の中に芽生えた感情の欠片は、しだいに形を持ち、心へと成長していった。【彼】が自身の中に認めたばかりの心は、青年の言動ひとつで容易く震え、次々と新たな感情を覚えていった。青年は、そんな【彼】を赤子のように慈しんだ。


 青年とともに過ごした、星の命より長く、火の粉の命より短い時間の中で、【彼】の心はすっかり成熟した。【彼】はいつしか、自分が青年と同じものであると思うようになっていた。けれどもあるとき、青年の肌に触れた【彼】は、青年が自分とはまるで違う存在であることを知ってしまった。青年の肌は、人形の指先を灼くほどに熱かったのだった。


 それからの【彼】は、青年の持つ熱を自身の人形にも与えようと手をつくした。だが、命というものは、【彼】の力を持ってしても扱いきれない事象であるらしかった。青年の手を握れる手を、彼とともに歩める足を創ろうとも、彼と同じ時間を生きるための心臓だけは、どうしても生み出せない――それを理解した【彼】は、青年が物質世界での思い出を語るのを聞くたび、空恐ろしさに襲われるようになった。青年が、そのうちにも向こうの世界に帰りたいと言い出すような気がして、気が気でなかったのだ。

 【彼】の願いも虚しく、間もなくその時はやってきた。

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