うたかたに焔(2)

 川底に降り注ぐ日差しを思わせる淡い光の中に、一人の少年が横たわっていた。着衣はひどく汚れているが、少年自身は無傷らしい。寝苦しそうにうなった彼のまぶたが、ゆっくりと開かれる。


 嗅ぎ慣れた森の匂いの代わりに少年が感じたのは、頬で押しつぶした草から漂う甘い香りだった。自身が全く知らない場所におかれていることに気がついた彼は、跳ね起きて腰の短剣を抜く。周囲に他者の気配はなく、少年のつま先が土草を擦る音の他には、木の葉らのささやきや、凪いだ水面を時折かき乱す、かすかな風音が聞こえるのみだった。少年は腰を低くしてあたりを警戒していたが、何ごともなさそうだと判断すると、刃を鞘にしまった。


 足元を覆う白い草と、光を浴びて輝く空気中の塵。背後には、背の高く、幹の黒い木々からのみ成る森が、壁のように立ちはだかっている。視界の端まで広がる湖には水平線がなく、水面は湾曲して天へと続いているように見えた。この空間は、奇妙にも球のかたちに閉じられているらしい。球の内側をまんべんなく照らす淡い光が、湖と呼び合うように揺蕩う。光源の目視できない明かりは、少年を妙な気分にさせた。


 頭上高く――ここ湖畔から、空間の上部まで続く湖の中央には、何やら白い塊が見える。その辺りの湖底には、白い塊を中心に、黒い糸が放射状に伸びていた。それらをじっと眺めていた少年は、白い塊が幾万もの葉であり、黒い糸が根であることに気がついた。

 樹は、未知なる訪問者を歓迎するように葉をそよがせる。穏やかな風に警戒心を和らげられた少年は、泥と血、それに火薬でひどく汚れた服を脱ぎ捨て、湖へと飛び込んだ。


 湖中は、あまりに静かだった。綺麗な水だというのに、魚の一匹も見当たらない。水中には、息の詰まるような静寂だけが眠っている。湖の水は川のそれと異なり、流れているというよりは、揺れているようだった。川底に見られるちらつくような光の代わりに、薄絹を思わせる光の帯があちこちに垂れている。少年は、初めての湖中をしばらく泳いだ。


 身を清めて湖畔に戻った少年は、改めて辺りの様子を確かめる。言葉を失うほど美しい水と光、穏やかに凪いだ風、肌に触れる静けさ……。ものの美しさを評価しない少年の目には、すべてが調和しすぎたこの世界の有り様が、ひどくおかしなものであるように映った。自然にあってしかるべき乱雑さが、ここにはないのだ。


 自身の置かれた状況を把握しようと感覚を尖らせていた少年の耳が、ふと、何者かの足音を拾った。少年は身体を硬くし、岸に放(ほう)っていた短剣を引き寄せると、這うような姿勢で刃を構える。裸に武器だけを握ったその姿は傍から見れば滑稽だったろうが、少年の敵愾心は本物だった。


 足音の主は、どうやら少年の方に向かってくるらしい。少しの沈黙を置いて、黒い森の方からがさりと音がした。影かたちから、相手がひとであると察した少年の眼光が鋭くなる。

 対して木々の隙間から投げかけられたのは、春のせせらぎのような、柔らかな声だった。


「――人間?」


 小さな問いとともに現れたその人影は、確かにひとなのだろうが、はっきりとした目鼻立ちに象牙色の肌と、少年がこれまでに見たどの人間とも違う姿をしていた。加え、若者らしく瑞々しい面立ちながらも、その頭髪は虹宝玉のような白色だ。少年が知る限り、白い髪というのは年寄りだけが持っているものであるはずだった。年を取り、神に近づいた彼らへの畏敬と相まって、目の前の青年への疑念は募る。


 青年は、少年が握る短剣に気づいていながらも、動じることなく少年に向かい立った。一歩、少年との距離を詰めようとした彼を、少年の刃が牽制する。


「来るな! それ以上近づいたら、ジャナムの村長(むらおさ)シェロ=キマの名の下にお前を殺す」


青年は、少年の剣幕を見てか、はたと足を止めた。少年を恐れているというよりは、来るなと言われたから近づくのをやめた、という風ではあったが。一方の少年は、青年の無遠慮な視線のために、不快な心地を覚えていた。

 青年の瞳は、少年や、少年を育てた村の者らのそれと異なって、日が昇る前の空の色をしている。黒い眼を見慣れた少年には、青年の紫色の瞳が、いやにぎょろりとして、何か得体のしれないもののように見えていた。青年と視線を交わしていると、巫女が未来を見るのに使う水晶玉を見つめている時のような居心地の悪さに襲われる。


 この相手と関わり合いになるべきではない――そう判断した少年は、短剣を掲げた姿勢のまま、青年から距離をとろうとした。けれども少年のかかとは水に浸かり、これ以上退こうにも背後は湖だ。


「去れ」


 少年は、自らの不利を悟りながらも、強気に警告する。

 弱いところを見せるまいとする少年の内心を図ってか否か、青年はその場で足を止めたまま少年の手元を指差し、こうとだけ言った。


「それをしまって。【彼】が怖がる」


 青年の声色には、まるで抑揚がなかった。青年の言葉をどうとも解釈しかねた少年はさらに警戒を強め、半歩後退する。この時、少年の足首はほとんど水に浸かってしまっていた。水に足を取られれば動きが鈍くなると分かってはいても、少しでも目の前の青年から離れたかったのだ。正体の分からないものに対する恐れが、少年の指先をぴりりと震わせた。


 刃を捨てようとしない少年にしびれを切らしたのか、青年が少年の方に歩み寄る。少年は決死の覚悟で相手に刃を向けたが、それ以上のことはできなかった。恐れから、身体が言うことをきいてくれないのだった。


「来るなと言ったろう、止まれ!」


 少年がそう言うのにも、青年は耳を貸さない。彼はためらいなく少年との距離を詰めると、少年の握っていた刃をひと撫でした。すると、青年が触れた先から、刃が溶けていく。

 少年は、すっかり液体と化してしまった短剣を手から振り払うと、獣のように四つん這いになってうなった。 


「怖がらなくてもいい。何もしないよ」


 青年は、疲れたような声色でそう言うと、少年の傍らをすり抜けて水面へと踏み出す。驚いたことに、彼のつま先は水に沈むことなく、ひたと水面に接した。続けて、彼のかかとが水面を打った瞬間――その身体はひとの形を失い、水に解けて見えなくなってしまった。


 少年は、青年が消えていったあたりの水面を呆然と見つめていた。水中に潜ったわけではなく、身体そのものが溶け消えてしまったのだ。あの青年に対して感じていた薄気味悪さが、ようやく腑に落ちたように思われた。

 ――あれは人間ではない。ひとの姿をした化生だったのだ。

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