29……孤児院の女神

「ネフト様、サアラ様! みんな、長が戻られたぞ!」

 岩場を直進すると、今度は砂礫。絶壁の真下に辿り着く頃、サアラの肩を借りていたイザークが気を取り戻した。海面すれすれの絶壁。踝

くるぶし

くらいまでを海面に浸らせながら、一行は海の中を進んだ。


 やがて歪曲した白い骨を刳り抜いたような洞穴が見え始めた。


「海樹だ。海に生える貴重な木で、聖なる黄木とも言われている。中を刳り抜いて住まいを作った。ルウに聞く限り、コブラの汝、呪術師とお見受けした」


(コブラの汝……)ティティは肩までの髪の中央を膨らませているから、ちょうど攻撃するコブラのような後姿になる。イザークがまた笑った。


「――あんな市街地でマアトの呪いを発してはならぬよ」


 急激に低い声でサアラは呟き、また人の良さそうな笑みを浮かべ、「そうそう」と足を止めた。


「我が孤児院の家族となったからには、働いて貰うよ。タダ飯は喰わせない」

 ――波乱の予感がした。



*******



「こら、やめなさーい!」ティティは捲られたスカートを押さえ、洞穴を出た平台で物干し竿を持って子供を追いかけ回していた。


 ティティとイザークが〝国境なき孤児院〟に厄介になってから、数日。「仕事をしろ」とサアラに言われ、ティティは洗濯班に、イザークは料理班に加わった。


 ある程度の育った子供たちがせっせと洗い終えた洗濯物を運んでは、張り巡らせたロープに干してゆく。落としたり、喧嘩したり、大層賑やかだ。


「ふふ、賑やかね、ティティインカ。あたしの服、似合っているわ」


「ネフトさま! ……すいません、ご厄介になっちゃって。あの……この子供たちが全員親を裁かれているんですか?」


 ネフトは頷くと、岩場に腰を掛け、遠くを見詰めた。


「ある国が国ごと裁かれてね……。ここにいる子供たちは全員親や兄弟をマアトに奪われた子供。マアトの裁きの後には、必ず子供が残される」


 ティティとネフトの合間を穏やかな光と風が走り抜けた。


「今日の光は穏やかね。よく乾くわ。ティティ、神の手で生きるも死ぬも決まる。こんな世界、どう思うかしら」


 曇りひとつない、澄んだ瞳。穏やかな温かい火のような落ち着いた眼が、優しくティティを見下ろしていた。ネフトはティティより背が高く、王宮で見かけてもおかしくないほどの気品がある。まるで女神だ。


「ごめんなさいね。気まぐれの戯言よ。子供たちを頼むわ。でも、呪術は駄目よ」


 頷きながら、ティティは大きなリネンをばーんと広げた。


(わたしも、あんな素敵な女性になりたい。この世界は嫌いだ。でも、イザークがいる限り、一人じゃない……大切だって言ってくれるイザークが大好き)


〝大好き〟聖刻文字では、心臓

イブ

を現す文字。想い描いてどきんとした。


「落ちたわよ、ティティ」ネフトの声に慌ててかき集めて、水樽に突っ込んだ。「ティティ?」背後の声を構わず、顔を一緒に水樽に突っ込む。


(い、イザークは関係ない! こ、この世界があろうかなかろうが、一人だもの)


 ラムセスを討つ。魂の名前――諱――を知る。それが目的なはずだ。イザークなんか、いざとなれば……。


(違う違う! どうでもいいのよ、イザークは! そうじゃないの!)


 ざばりと顔を上げると、口が苦い。頬が熱いが、水飛沫が滴ってよく分からない。わたしの頬は熱しているのか、冷えているのか。もうわからない。


「ネフトさま」泣き声になった。自分の心が滅茶苦茶になって、どうしようもない。


「世界が酷ければヒドイほど、伴侶の良さを思い知る。当然の話よ。水草が口に飛び込んでも気付かないほど、逢いたいのね」


 ネフトはティティの不安を寸分違わず返して来た。


(すごい。本当に女神さまみたいに、わたしの言いたい事項を答えてくれる)


「お話、聞くわよ? 言いたいことは、吐き出さないと心が死んでしまうわ。ね?」


 ティティはゆっくりと頷いた。バランスを取るなら今しかない。そんな予感だった。

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