28……泣きの月夜と国境なき孤児院

キイィィィィィィン。月の泣き声が響いた。血を注がれたような赤い紐でぐるぐる巻きにされ、地に埋もれた月。掠れた女性のような嘆き声の騒音。


「月が、泣いてる……」


 イザークが眉を寄せた。


「情報が、早ぇな。面倒くさがりのくせに、ラムセスの野郎」


 先ほど超えた国境付近に黒煙が上がっている。兵力は小さいが、軍隊だと分かった。


「ばれたらしいぜ。どうする。戦うか、逃げるか。無論、戦う! でいいな!」


 言うが早く、イザークは背中の剣を抜いた。


「俺の女に近づいて見ろ! てめえらまとめて水源にブチ込んでやるぜ! さあ……」


 怒鳴るだけ怒鳴って、イザークは「あ」とまたスタスタとティティの前に歩いてきた。ひょいと太鼓のように肩に担ぐと「逃げんぞ!」と一目散に走り出した。


「戦うんじゃないの? ちょっと、おしり、太腿触るの止めて!」


「多すぎる。逃げるが勝ちだ! ほれ、暴れんなよ!」


 ぽん、とおしりを叩かれて、ティティもまた拳でイザークをぽかすか殴る。


(ばかばかばか。無鉄砲の考えなし! 絶対離縁してやる! そもそもイザークがいけないんだ。そう、すべてイザークがいけない! 月が泣いてるのも、裁きなんて世界も! 夜が怖いのも、光が少ないのも、この変な気分もぜーんぶイザークのせい!)


 ハチャメチャな悪態を撒き散らかして、ティティは唇を噛んだ。


 やがてイザークは岩場でティティをそっと下ろした。


「静かに。ラムセスの軍、見失ったと判断して、周辺をウロウロし始めやがった」


 ザクザクと兵士が歩き回る音に、月の喚く音が遠く聞こえ。この世界の恐怖を呼び起こそうとしていた。気付かずティティは歯をカチカチ鳴らしていた。不安で見上げると、イザークの眼が僅かに発光していた。


「イザーク、眼が光ってるんだけど」

「ティティ、おまえの眼、輝いてねぇか? ちょっと見せてみろ」


 二人は互いの眼帯をゆっくりと外し合った。ティティの瞳は青く、イザークの瞳は赤く光り始めている。瞬間、イザークの眼がカッと熱を帯びた。


「うああああああああ」声に兵士が気付いた。ティティの前でイザークは片眼を押さえ、立ち上がった。唇を噛み、呪いの籠もった声を発した。


〝呪声ヘカ〟だ。


「俺の妻(予定)を、ティティインカを震え上がらせるんじゃねええええ!」


 キイイイイイ……月が合わせたかのように、狂って回り出し、赤い光を撒き散らした。獣のように唸ったイザークは足をざり、と進めた。


 ラムセス軍兵士の何人かが吹っ飛んだ。「全部、やってやらぁ!」暴風が吹き荒れた中、竜巻が大気を割った。風の道から光が飛び込んで来て、イザークの首に直撃した。


「イザーク!」揺り起こすティティに、優しい手が触れた。


「大丈夫。彼は気絶しているだけ。ちょっと、手荒いわよ。サアラ」

「仕方がない。不可抗力だよ、ネフト」


 赤く滲んだ月が浮かぶ地平線の前で、男女が堂々とした風情で立っていた。子供がぼふんとティティの胸に飛び込んで来た。昼間の、ルウだった。


「綺麗な石の、お姉ちゃん! 昼間はありがとう! みて、首につけられるようにネフトが繋いでくれたの! もう、大丈夫だよ!」


 ネフトと呼ばれた女性は黒髪をチリチリに焼き、広げた上で、ジャラジャラと宝飾をつけている。すとんとした服を麻紐で縛り上げ、体格の良さを見せつけていた。


手首に嵌めた数十本の腕輪がシャラと音を立てる。大層な美女である。


 右の男は髪を中途半端に剃った上で、派手な頭布に、素肌が見えるギリギリの服に長いストール。足に女性と揃いの数十本の環を嵌めている。手には儀式モネ剣を持っているから、神官ソルだろうか。両眼は薄く、冷酷な感じだ。


(この二人が、さっき、イザークを止めたのかしら。でも、どうやって)


 ティティの前で、女性が靜かに頭を下げた。


「ルウを助けてくださったと。その上、護符スカラベまで貰ってしまって。探していました」


 王室の女王を思わせるアルトトーンの柔和で気品ある喋り。ティティは気絶したイザークを気遣いながらも、頭を下げた。


「暴風の後には裁きが来ますわ。どうぞ、ルウを助けてくれたならば貴方たちは味方です。ついていらっしゃい。〝国境なき孤児院〟まで案内します。私たちはネメト・ヴァレル。世界で裁かれ、親を亡くした子を育てている団体ですわ」


 ――国境なき孤児院。そんなものが存在するとは知らなかった。


「ネフト、翅」と男が剣を振りかざし、黒い翅を斬った。男はサアラと名乗った。

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