第4章 国境なき孤児院で
26……国境の野生児
*1*
四方を王家の谷に囲まれ、遮断された西のハピ河。国境領域〝フレヴァ〟である。
「検問だ」先導していたイザークが足を止め、ティティの手を引いた。
「では、俺の商人魂の本領発揮、見てもらいましょうかね」
(商人魂? なんだか嫌な予感がする)
イザークはにっと笑うと、役人に堂々と向かった。千鳥足でふらふらと倒れそうになる。(何やってんのよ)見守る前で、嘔吐の真似をした。
「アテンの王樣、怖いでしょ~? 違反しちまって。もう、やけ酒でさァ。うう、気持ち悪ィ~。いっすかね? このまま、ここで……」
ご丁寧に「ウゥ」とイザークは酔っ払いの真似で役人にのし掛かった。
「汚ねぇな! 寄るな、寄るな。あっちへ行け! 酔っ払いめ!」
「そこを何とかぁ……こっちは身重でさァ」
(わたしに振らないでよ! 身重ってなに! ほら、こっち向いちゃった!)
役人が近寄って来た。ティティは焦りながら下腹をさすって屈み込んだ。(元王女が妊婦詐欺!)しかし効果覿面で、役人たちは面倒はご免だとばかりに門を開け、二人を国境へ追い出して、唾を吐き付けて閉めた。
「ちょろいぜ」と肩をゴキッと鳴らすイザークを見て、背中に汗が垂れた。
「イザーク! 貴方まさか、こんなどうしようもない小芝居であっちこっちの国境を越えてたんじゃないわよね。越境にはお金が……」
イザークがふんぞり返ったが、行為のどこに自慢できる要素があるのかを知りたい。
「よーく分かったな。必要以上の金は払わん! これが商売の鉄則だぜ! しかも、ホレ。金貨の袋、拝借」
唖然とするティティに「でも、出られたろ」とイザークは満足そうに頷いた。
***
複雑な心境で歩いていたティティに「見ろよ」と
イザークが視線を導いた。役人に捕まえられている子供の姿がある。子供は宙づりにされて、肩に担がれていた。
「通行税が払えず、役人を殺してでも越境したい人間はごまんといるさ」
「ああ、それで、あんな〝小芝居〟を」
「行くぞ」と自分をしれっと棚に上げたイザークは踵を返した。
「ねえ、助けてあげましょうよ。見てしまった以上は」
「そんな暇があると思う?」イザークはぐいと左眼を覆った布を指で引き下ろした。
死んだ獣の白い眼。ティティを真珠のように白く浮かび上がらせる。
「呪いが解ける方法と貴女の両親を同時に探さなきゃならねえ。人助けの暇がある? そこまで俺は優しくないぞ」
ティティは唇を噛んで「でも」と振り返った。土壁の前では、子供が役人に服をはぎ取られている。「おまえ、孤児か」役人はゲラゲラ笑い、子供を裸にしようとからかっていた。
(もう、辛抱ならない!)ティティはイザークを涙目で睨み、駆け寄った。
「その子はわたしの家族よ! あ、あたしが産んだの! ほら、よく見て? 目元がお父さんにそっくりでしょ。汚れているところまで」
イザークがピタと足を止めた。(ふーんだ。さっきのお返しよ)としれっと巻き込んでやった。元ファラオの王女に〝妊婦詐欺〟を強要した報復だ。
底意地悪く見ていると、イザークは「ほらよ!」と金貨の袋を役人に叩きつけた。大量の金貨が飛び散り、役人は収集に必死になった。イザークは役人にしゃがみ込み、短剣で頬を叩きながら、充血した眼でにっこり笑った。
「こいつで、俺の妻と、子を見逃してくれるよなァ? 足りない?」
役人たちはイザークの脅しと金貨で、子供をあっさりと解放してくれた。
***
泥だらけの子供の服の下からはいくつもの野菜が出て来た。
「畑荒らしのガキだ。ティティ、構うな」イザークはふいと置き去りにしようとしたが、ティティは子を見下ろし、護符
スカラベ
一つない事実に気付いた。これでは危険だ。
(……ええと、残っていたかな?)
ティティはポケットから小さな石の欠片を取り出した。いくつか使えそうだ。子供に渡すにちょうどいい大きさの石は、欠片ではあるが美しく輝いていた。素早く甲虫を捕まえて、呪術を施した。
「貴女に、幸運が訪れ、マアトの呪いを遠ざけますように。名前は?」
「ルウ」と子供はぼそりと答えた。汚れた顔の眼が大きく開かれている。
「では、ルウ、貴女にマアトの禍が降りかかりませんように――」
念を込めると、石はパ、と赤から綺麗な群青色に変化した。ふわりと子供の前髪を舞い上がらせるほどの強力な護りの光を押し込むと、スカラベは美しい宝玉になった。
「これで、大丈夫。あげるわ。誰も貴女を不幸にはしないから」
泥だらけの頬を拭ってやり、ティティは小さな手に護符
スカラベ
となった石を握らせた。ルウは珠の中に封じられたスカラベを何度も空に翳していたが、ぱっと駆け出そうとして、ピタと足を止めた。
「きれい。ありがとう。綺麗な石のお姉ちゃん! 酔っ払いのお兄ちゃんも!」
手をヒラヒラ振って、ティティは憮然としたイザークと共に国境を離れた。
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