第58話58
どさ。
僕は家に帰って来るなりベッドに倒れ込んだ。今日はいろんな事があった。いろんなといっても、最終的に一つのことを起こした。それで大量の出来事が芋ずる式に起きて、そして大量の労力が消費された。
だるい。今日は本気で疲れた。寝るか。
真の意味で正当化のある労働をしたので、僕はその睡魔にあらがうことはなく眠る予定だった。
だが、一つの音がそれを妨げる。
しゃりりりん、しゃりりりん。
それは携帯の音だった。発信元は美春からだ。僕はその電話を取る。
「はい。美春か?何の用だ」
『あ、うん、一樹。別にたいした用事じゃないよ。ただ、今日は大変だったね、といいたくて電話したの』
何故かわからないが、その一言で一気に意識が覚醒(かくせい)して、蒼(あお)のドライブ状態に移った。
「うん。大変だったね。でも、やらなければならないことだった。違うかな?」
『…………………多分それが正しいと思う。一樹のやったことは正しいと思う。………………でもさ、なんか納得できない部分もあるんだよね………………』
「…………………納得できない部分?」
自分のやっていたことが何か間違えた部分があるのか?
だが、そういった瞬間。電話越しで静電気のさざ波が起きた。
「あ、ごめん。美春を責めている訳じゃないんだ。ただ、ちょっと自分のやっていたことが正しいのかな?って思っただけで、責めてる訳じゃないから。………………よかったら美春の考えを聞かせてくれないか?」
さざ波は一瞬(いっしゅん)で消え、美春はおずおずとした様子で話し始めた。
『あ、うん。………………わたしもさ、一樹のしたことが正しいと思った。思ってた。でもさ、実際にあんなマスコミの猛取材を受けてさ、ちょっと疑問が起きた。
本当に衝撃という言葉が軽くなるほど、すさまじいというものだった。白が自分とは関係ないほどの猛攻で押しつぶして、自分の思いを全く斟酌(しんしゃく)しない暴力性で自分を蹂躙(じゅうりん)していくような感じよ。
あんなマスコミの暴力を受けるとね。なんか、単純によいことだからといってやってはいけないような気がする。なんか簡単に言えないけど、よいことだからといって無条件で何も斟酌(しんしゃく)を出さずにしてはいけない気がするんだ』
「………………………」
それは衝撃の言葉だった。その衝撃は海のような深い海底にまで届き、僕を貫いた。
『一樹?』
僕が長い間黙っていたことに心配して美春が心配げな声で尋ねてきた。
「あ、いや。なんでもない。ただ、美春の話に気づかされた部分があるからさ。その気付きの衝撃にいくらか言葉を奪われていたんだ」
それに美春は、うん、と綿の言葉で肯いた。
『じゃあ、そろそろおいとまするね。一樹も思ったより大丈夫そうだったし、安心したよ。じゃあね』
「ははは、何だよ、大丈夫そうって。うん。それじゃあな」
それで僕達の通話は終わった。確かに二つのつながりがいったん切れたはずだが、僕の横に黄色い綿毛(わたげ)がふんわり横たわっているような気がした。
また朝が訪れた。
ただの朝ではない。昨日のような激流の朝から、今日の朝はまたいつもの朝に戻った。あれほどいたマスコミの関係者は今日ではまばらで人を取材をしている。
だが、僕達の感覚はまた日常の朝が取り戻せたとは思えない。突然激流の朝が起きて、それが不自然なほど急激に戻されたので、まるで百年後の世界に送られ一日を過ごし、そしてまた元の世界に急激に戻されたのような、強烈の時空のギャップがあった。
そんななかで僕達はまだ、事の本質に戸惑ったまま登校をしていた。
「なんか、拍子抜けだね。まるで、昨日の世界がなかったような感じがする」
また、僕達はマスコミを警戒して4人で固まって登校したが、あまりにいないマスコミに隣にいた美春がぽつりと言った。
「ああ、そうだな。全くだ。新しい流行を追いかけるのが現在のマスコミだと認識しても………………実際に目のあたりにしたら、やはりあからさまな現実に目を奪われるな」
それにみんなが肯いた。
それ以降無言なまま僕らは歩き、下駄箱で上書きを変え、教室に向かっていた。
そして、まさに上履きを履き替えようとする所で僕は一人の人を見つけた。
「村田!おはよう」
だが、その人は僕を一瞥(いちべつ)した直後、すぐに顔を背け去っていった。
「はは、完全に無視されたね」
完全に無視された僕に、美春はパンパンと背中を叩いた。
「まあ、この事がわかれば彼女に憎まれるのはわかっていたことだ。気長にやるさ」
この話は簡単に終えて、そして教室に向かうはずだった。だが、僕の一言にスズメバチが飛び立った。
「気長に?気長にとはどう言うことなんだ?一樹?自分たちは正義を果たした。それが究極的な目的だったはずだ。それで、まだ彼女に関わる必要はあるのか?」
………………。
だが、飛んだスズメバチもそれほど攻撃的ではなかった。ちょっと不満があったので飛んで様子を見てみようという口調だった。それがわかっていたので僕は歩きながら話すことにした。
「いや、僕は村田には波田(はた)さん両親に謝らせることを目標にしている。謝らないと波田(はた)さん両親の苦しみが終わらないし、この事件は終局的に解決しないと考える。
彼らは心から和解させる必要性はないと思うけど、村田が波田(はた)さんの両親に謝ることで、波田(はた)さん達も加害者は悪いと言うことを認識してくれたと思うし、村田も本当に自分のしたことが悪かったと思って、真の反省が心に芽生えるかも知れない。いや、芽生えさせるために謝らないといけないんだ」
僕の言葉にこくりとあごを壊れた人形のように肯いた。
「まあ、それだけ考えているのなら俺は何も言うことはないが。ただ、俺が言いたいのはあまり加害者側に感情移入をして被害者側の方に立たないことを俺は懸念(けねん)している。それはだいじょうぶなのか?」
それに僕は光の目をまっすぐ見ていった。
「…………………確かに、そんな危険性もあると思う。しかし、村田に接しなければ謝ることができないし、こっちから関与せずに村田を自由に操ることは不可能だ。
それにやはり、関与をし続けることで村田の心に変化が起きるかも知れないから、そういう真の悔いを起こすために関与する必要があると思わないか?」
僕の言葉に光は息を大きく吸って、はいて。もう着いた教室の扉に手をつけた。
「そこまで考えているなら、何も言うことはない。ただ、気をつけろよ、という言葉を贈ろう」
それで光は教室に入っていった。それに呆然(ぼうぜん)と立っているぼくに狸(たぬき)も声を掛けて光の後に続いた。
「ガンバ、一樹。わたしは応援してるよ」
光たちも自分のクラスに入ったようだし、僕達もB組に向かった。ふと、何の考えもなしにキャサリンの方を見ると、キャサリンも僕をアイスティーの目でこちらを見ていた。
「自分の信じる道を行えばいいわ。そんな信念を持たない人が勝ってもな小さなものだし、わたしは人は信念を持って何かを行動するべきだと思うわ」
「ああ、そうする」
確かに僕らは完全に混じり合うことはないけれど、確かに後から風が吹かれていた。
僕はその風を思いっきり受けて、そしてまた光りの門へ足を踏み入れたんだ。
朱色の日の名残が丘の上に立っている町並みを赤く染める。ぼくは今、桜が丘の前に来ていた。僕は自転車を降りて歩く。
街路樹が植えられている上り坂の道を歩いて行き、坂を越えた所から桜ヶ丘の街に入ったときに初めにある一軒家の家を牛歩のような足取りで5つほど通過した先に目的の家を見つけた。
『波田(はた)』
その家にはその表札が書かれてあった。僕は大きく深呼吸をしてチャイムを鳴らした。
ピンポーン。
『あ、はい、今行きます』
インターフォンからそういう声がかかってきて、まもなく扉が開いた。
がちゃ。
「ああ、あなたでしたか。どうぞ、お入り下さい」
幽霊のようなくぼんだ目をした多佳子さんが現れた。その多佳子さんが扉を開放する。そして、幽鬼のように玄関に立っていた。
「お邪魔します」
僕は家に入って鍵を閉めた。昼に携帯電話に着信があり今日会えないかという電話だった。それで放課後になってみんなと別れてここに来たのだ。そして、多佳子さんはふらりと消えた。おそらくキッチンに行ったのだろう。僕はそのまま居間に向かった。
居間に入ると以前と変わらないままの姿がそこにあった。テレビとテーブルの上にミカンだけが置かれた、殺風景な部屋。それが波田(はた)家の居間の姿だった。
僕はその居間にある椅子に座る。その椅子に座った瞬間、波田(はた)はこの椅子に座っていたのだろうか?と考える。
この椅子に座って漫才に笑い転げていたり、感動を集めた民放の特集に涙を流したりしていたのだろうか?
そんなことを僕は考えた。僕がそんなことを考えているとお茶を持ってきた多佳子さんが現れた。
「お茶をお持ちいたしました」
「あ、どうも、お構いなく」
そして、多佳子さんが僕にお茶を置く。そのとき、僕はあることを思いついて多佳子さんに聞いてみた。
「あの多佳子さん、つかならぬ事を聞きますけど、この居間ってものの数が少ないですね。それはどうしてですか?」
僕がそう言うと、多佳子さんは目を落として肩のよどんだ空気を一気に外に放出した。良く見ると体が小刻みに震えている。僕は何かまずいことでも聞いたか?と思った。
「そ、それは……………」
僕は多佳子さんのそばに行ってその震える肩をさすりながら言った。
「うん、多佳子さん、どうしましたか?はき出せるのなら吐きだした方がいいよ。さあ、無理せずに言ってごらん」
僕がそう言うと多佳子さんは大粒の涙を流しながら言った。
「ここは。……………ここは!この場所は本当はこんな場所じゃあなかったんです!」
そう、大声で言ったあとこう続けた。
「ここは、ここは。本当なら貴理子が、貴理子が!いろんな雑誌を広げて呼んでいたり!お父さんが新聞を広げて呼んでいたりする場所だったんです!!
それがいつの日か貴理子は雑誌を読まなくなって、どんどんやつれていって!!そして、そして、あの暑い夏の日に貴理子はいなくなってしまった!!私は、私はこれからどうやって生きていいのかわからない…………」
多佳子さんは一つの言葉を切れ切れに出すシュレッダーのように低い声で、しかしその低い声に波田(はた)さんに対する万感の思いを込めていった。
多佳子さんはそのあと声を詰まらせながら泣いた。僕はその様子をただ見ていることしかできなかった。
幾たびの時間が流れただろうか?朱色の空が全てを包む闇の支配に変わったとき、多佳子さんは立ち上がった。
その相変わらず落ちくぼんだ目で僕を見ながら言った。
「どうも、ありがとうございました。先ほどは。おかげで少しすっきりしたような気がします」
「そうですか」
僕はそれに肯いたものの、外から見てどこもすっきりした箇所は見当たらなかった。そう簡単に悲しみは浄化するなんてできないのだ。僕はそれをいまさらながら実感をしていた。
そして、多佳子さんが言う。
「多分、あの人が笹原君に話しがあるというのは。昨日テレビを見ていたのですが、そのとき、あの。あの村田が写っていたときに………笹原君が、村田を守っているように見えたので、そのことでの話しがあると思うんです」
村田というところで多佳子さんは言葉が震えていた。僕はそれを見て、まだこの人の悲しみの傷は癒えないな、とまた確信を覚えた。
「わかりました。僕も多分、そのことで話しがあるな。と思っていたんです。ちゃんとそのことの回答を用意しておきましたから」
僕がそう言うと多佳子さんが肯いた。そして、そのとき、外で車がこの家に入ってくる音を感じた。
「多分、あの人です」
僕は肯いた。おそらく貞さんだろう。車は車庫に入り止まった。多佳子さんは玄関に貞さんを迎えに行って、そして、扉が開く音がした。
どくん。
心臓が高鳴る。前は無我夢中(むがむちゅう)で行動をしていたから、あまり恐怖は感じなかったけど、今は正直言って貞さんと話すのが怖い。こういう恐怖を感じているときに思い出すのは貞さんにつかみかかられたことをよく思い出す。
そう思いだしている間に足音が近づいてくるのを感じた。なので僕は覚悟を決めて、貞と話す決意をした。
がちゃ。
「ああ、笹原君、待ったかね?」
「いえ、そんなに待っておりません」
入ってきた貞さんは真っ暗な目をじわりとした黒い目やにと無味乾燥とした態度の少しばかりのとげが見えた。だが、口調はあくまで丁寧だった。
「笹原君、突っ立ってないで座りなさい。君に聞きたいことがあるから」
「はい。わかりました。座らせていただきます」
そして、僕は椅子に座った。貞さんは上着をハンガーに掛けて自分の席に座った。僕が座っていたのは居間のテレビが見える方に向かっての左側の席に座った。そして、貞さんはその右側に座ったのだ。僕たちは微妙に向かい合わせにはならなかった。この椅子はテレビに向かって配置されているので、左と右は斜めになっているのだ。
その微妙に向き合わない体勢のまま、貞さんは僕に話しかけた。
「笹原君。単刀直入に言おう。昨日のことだ。テレビで貴理子のいじめの特集があったのを知っているね?」
「はい」
波田(はた)さんのいじめのことは昨日のテレビのことで話題が持ちきりだった。番組のテロップは『変わらない学校。根絶しないいじめ』だった。どのテレビ局も新たないじめの犠牲者が出たことに憤慨しつつ、いじめが無くならないことに嘆いていた。
あるニュースのキャスターは『被災者がこんなに大変なときに、こんな矮小な出来事が起きて、何やっているんだ君たちは!と言ってやりたい』と言っていた。
だが、ぼくはどう見てもそう言いたいがために報道したようにしか思えなかった。マスコミは学校をたたくだけたたいたが、いじめを根絶するオルタナティブな提案は自分が見たところなかった。
この人達は本気で学校を改革する気があるとは思えない。本気で学校を改革するなら、こんな事象的な事件に騒いで報道をするのではなくて、地道なオルタナティブな提案を言うか、探求するかをするだろう。本気でやるつもりがあるとは思えないのだ。
それはともかく、貞さんは話を進めた。
「私たちはテレビを見ていた。貴理子のいじめの報道をして、次にテレビが関係者に取材をしていた。そのときだ。あの貴理子の命を奪った犯人。村田に記者達が取材をしていたときに、一人の男子生徒が村田と記者達の間に割って入ってきたじゃないか。それがあなただよ。笹原君。私はこの事に対して君の弁明を聞きたいのだ。どうして、波田(はた)を死なせた、村田を助けたんだ。話を聞かせてくれ」
貞さんは最初は冷静に言っていたが、最後のほうになって僕の首をかっ切るようなまなざしで見ながら、血がにじむような口調で言葉を振り絞った。それに僕は頭を混乱させながら、それでも言うべきことを言わんと言葉を口にした。
「それはですね。貞さん。それはあの時、村田に記者の人たちが大人数で村田に暴言を浴びせていたから、僕は動いたんです。あれはどう見てもいじめでした。記者の人たちが村田によってかかって、村田をいじめていたのです。だから、僕は助けました。どんな理由でもいじめをしてはならないと思ったので、だから、僕は村田を助けました。それが僕が村田を助けた理由です」
貞さんは僕の話に黙って聞いていた。黙って聞いてくれるものと思っていた。
だが、貞さんはいきなり立ち上がって、僕に向かって怒鳴り声を上げた。
「笹原!それは何だ!私たちにとっては村田は貴理子を殺した犯人だぞ!それを、それを。どんないじめでも許さないというのはどの口が言うのだ!!そんなことは金輪際言ってもらいたくない!!やつがいじめられて別に構わないではないか!!やつは貴理子をいじめたんだ!!いじめられて当然だ!!だから、だから。もう、そんなことは言わないでくれ!!それとあいつをもう庇う(かばう)な!!あんなやつ生きてるだけで目障りだ!!いっそ、死んでくれた方がいい!!!」
貞さんは怒りの感情を噴火させ、マグマを外に出した。しかし僕はその赤いマグマがちのようも見えた。貞さんはあまりの怒りで頭を赤くしながら、しかし、強烈な怒りで荒い息をしていたのだ。まるで、業火を燃やす火神アグニのように強烈な怒りの炎を吐いていた。
僕はそんな貞さんにかける言葉が見当たらなかった。何も言えなかった。本当に何も言えなかった。僕は村田を庇ったものとして、何か言わなければいけなかったが、でも何も頭をうかんでこなかった。
しかし、これだけは言わなければならなかった。
「僕はどんないじめも容認するつもりはありません。例え、それが村田に対するいじめでも」
僕はそう貞さんの目を見ていった。
貞さんは瞳に瞬間的ないらだちとを写し、そのあとにスカーレットのような目が覚める赤の怒りを映し出し、そして、一瞬(いっしゅん)、闇をさらに凝縮(ぎょうしゅく)した闇の虫が瞳の奥に蠢いているのが見て取れた。
僕はその瞳を受けて心の中では戦々恐々となったが、何とか貞さんの目をにらみ返した。
貞さんは闇の虫は居なくなったけど、まだ怒りの色を染めていた。だが、しばらくそこに立っていたあと、不意に背を向けた。
「笹原君、君は案外(あんがい)強情だな」
そう貞さんは背を向けたまま言った。
「そうですか?」
僕はそう言われたことがなかったので、問い返してみると、貞さんは振り向いてこう言った。
「ああ、そうだ。君は案外(あんがい)強情だよ。友だちにそう言われたことはないかね?」
「いえ、特には……………」
僕がしどろもどろになって答えると、貞さんは大きく息を吸って、吐いた。そして僕にこう言った。
「笹原君。私はね、貴理子のことを考えるだけで胸が張り裂けそうになるんだよ。事故とか病気で死んだ場合も、そりゃあ悲しむだろう。本当に悲しい思いをするだろう。
でも、そうではない。貴理子はいじめで死んだんだ。周りからいじめられ、苦しみに苦しんで死んだんだ。私はそう考えるだけで、胸が張り裂けられる。暴れ出すんだ。そして、あの子のいないことを考えた悲しみの大海に沈み込む。
そこは光が見えない深海だ。全く光も見えない。だから、だから私は犯人を、貴理子をいじめで死なせたやつを許すことができないんだ。だから、だから。…………私は村田を庇った笹原君の行動に納得できない。どうしてもだ。笹原君のいわんとしていることもわかるが、それでも心が拒否している。私は犯人にはいじめられて当然だと思う。こっちは貴理子が死んだのに、いじめた人が普通に生きているという事実が納得できない。だから、私たちの気持ちをわかってほしい。笹原君」
貞さんは強風の逆風の中を一歩ずつ苦痛に満ちた表情で歩く人のように見えた。僕はそんな貞さんに何も言葉がかけられなかった。
せめて、これだけ言うのが精一杯だった。
「わかりました」
そう、これを肯くことしかできなかったのだ。そして、貞さんは立ってこう言った。
「この事がわかったなら、さあ、立って帰ってくれ。もう、私たちで話すことはない」
「そうですね」
僕は立ち上がり、居間の扉に手をかけたとき、あることを思い出して、振り返って貞さんに向かってこう言った。
「そうだ、貞さん。また、連絡をしても構わないでしょうか?」
貞さんは青藍のような深い色を目の中に表していった。
「……………。確かにこの件では私たちはわかり合えなかったけど、私たちは笹原君にとても感謝している。それは本当だ。だから、別にそれは構わない。むしろ、私たちのほうから何か連絡するかも知れない。また、何か、私たちが協力することがあったら、話し合おう。笹原君」
貞さんはそう言った。それは動物に実を食べてもらうことでその種を地表に埋めてもらう果物のような、そんな複雑な表情をしていた。
僕はそんな表情を貞さんにさせるのを申し訳なく重いながら、礼をして居間を出た。
貞さんの家を出る。そこには12月の冷たい夜風が僕の体の熱をかすめていった。
ピーッ!
その笛の音でようやく出口が見えたときの歓喜をその色合いを薄めた表情をしたモグラたちが集まった。
そのモグラたちを指揮する成田先生が言った。
「それじゃあ、終わりの体操を始めるぞ!筋肉痛を起こしたら大変だからな。お前ら円陣を組め」
『おーっす、はい、はーい』
あまりにまとまりのないモグラたちのかけ声。そのモグラたちがのそのそと動きながらおぼろげな円陣を組んだ。
「いーっち、にい………………」
「はい!いーっち、にい!かけ声かけていけよ、お前ら!」
「………………いーっち、にい………」
成田先生のかけ声はしかし、モグラの体に当たり、滑っていった。
ピーッ!
そんな無為の終わりの運動が終わり、また成田先生は僕達を集めた。
「はい、それじゃあ、授業はここまで。ちょっとぐらいは遊んでも構わないが、ちゃんと使ったものはしまっておくように」
わき上がるいくつかの歓声。そして、成田先生は去っていった。
僕は何かおかしいなと思いつつ、しかし深く考えずにその辺をぶらぶらしていた。もちろんさっさと帰る気満々だが、何となく全ての授業が終わったあとのあの放課後の琥珀(こはく)のノスタルジーは悪いものではない。
そうやってぶらぶらしたあと、ゆっくり僕は帰る予定だった。
しかし………………。
様子がおかしいと気づいたのはすぐだった。何人かの男子生徒が僕を囲んで魚のような目でじっと僕を見ていたのだ。
僕は警戒をしながら、その中でそれらを仕切っていると思われる人に話しかけた。
「おい、近藤君。成田先生になにかいわれたのか?反逆者はしめておけと言われたのか?」
近藤君は濁った(にごった)目をしながら、ペッとつばを吐いた。
「ああ、そうだよ。最初は成田先生から言われたのさ。俺はお前のやったことはむかついていたし、お前さんが変なことを言わなければこんな事にはならなかったはずさ。なんであんな変なちょっかいを出したんだ?あんなことをしなければ俺らは平和に過ごせたはずなのに」
じり。
僕を囲んでいた円陣が狭まる。
その狭まる動きに、しかし僕はそれを制するように邪魔する言葉を吐いた。
「良いのか?いじめても?ここでいじめたら学校側が意図的に僕をいじめたと言うことになるぞ?それは学校側の意図する事じゃないだろ?」
それでいくつかの牽制になるかと思ったが、しかし意図しない言葉が近藤君から吐かれた。
「しるか、俺は金村じゃねえんだ。ただ、ぶちのめしたいから手を加わっただけさ。学校側がどうなったか何て知ったことか」
円陣が圧縮(あっしゅく)するように狭まった。
何かをする暇もなく両腕が何かで取られた。そして、眼前に何か来たと思った瞬間、視界が左に大きく揺れ、不明瞭な視界をふらふら動かすとまた右に視界が大きく揺れた。
それを何度化されたことで、ああ自分は頭を殴られているのだな、と推測した。
その猛打の嵐はしばらくして止んだ。何度殴られたかわからないが殴られた痛みと言うよりも視界が大きく揺れたことが気持ち悪かった。
止んだことはわかっても視界がまだ不明瞭で、ふらふらとした視界のまま、ぼんやりと頭を振っていたが、次第に視界がハッキリしてきた。
してきたらと思ったら、何かが動いているのがわかった。
その何かが自分に向かって突進してくる男子だと気づいたときには彼はドロップキックする最中だった。
「ハッハー!!」
そして、そのキックが僕に向かって命中した。
ドズン!
「!!はぁ!!」
キックが命中したときに自分の何かが変わった。正常な胃が圧迫を受けて胃液を逆流する圧倒的な変質感とともに今まで殴られていた痛みがぶり返し、キックの痛みと殴られた痛みがパイのような重層感のある痛みとして自分を折りたたみ圧縮(あっしゅく)した。
「!!は、っ!!」
「へへ、次は俺の番だ」
また別の男子がそういうのを聞こえたが、自分の意識には水が流れる川のようにその言葉は入り、すり抜けた。
「ほらよ!」
「!が!」
そういうことがあと3度くらい繰り返された。
腹部に鈍く圧縮(あっしゅく)された鈍痛が起き、鈍痛を通り越して腹部に黒いものが固まり、ねじれ、そのあまりに圧縮(あっしゅく)された痛みが解放されるときにとてつもない激痛が、自分の体内にあるものが完全に破壊されるような激痛が起きた。
「!!!!!は、っ!!!!!!!」
大きくくの字に体を曲げ、嘔吐物を僕はぶちまけた。
「はは、はいてやんの。おもしれえ」
『ははは!!!』
何かが聞こえていた。だが、それに対して僕はなにも聞こえていたが、意味を理解することはなかった。
あまりに黒の痛みの解放で体がぐちゃぐちゃに関節が曲げられ折りたたんでいるようなな感覚に襲われて、そんなものを感じなかった。
そんな痛みのなかで、体が放たれ、落ちた。
多分、自分の両腕を固めていた人が放したのだ。自分の体が落下したような浮遊感に襲われたからそうに違いない。
そして腕に力がかかって、視界が回転した。前は茶色のものだったが今は白い光が見える。多分からだが仰向けにさせられたのだろう。
その視界でぬっと黒い影が現れた。
明瞭になってくると、それは果たして近藤君だった。近藤君は僕に向かってつばを吐いて、そしてあるものを見せた。
「いいざまだな、笹原。俺たちの平和を乱したお前にはいい気味だ。これを見ろよ」
そう近藤君が差し出したものはブラシだった。そしてそのブラシを出したとたん。男子達が歓声を上げる。
そのブラシはどこか濡れていて、そして小さな茶色のものが付着しているようだ。そして近藤君はそれが忌まわしいもののようにできるだけ自分の体から離し、そして僕に押しつけた。
ごしごし。
最初に襲ってきたのはそのブラシの妙なぬめりが嫌な感じを僕は感じ、2番目に感じたものは音だった。周りから汚ねえ、汚ねえと言う感性が周りから大量に表れた。そして、最後に気づいたのは臭いだった。非常にアンモニア臭のする嫌な臭いが鼻についた。そして、それでなんなのか僕は理解した。
「………………………」
押しつけるたびに跳ね上がる感性。その感性の渦で近藤君がちょっとずつ黒い泥がたまっていく。
おそらく彼は僕がなにも反応を示さないのが嫌なのか。そして彼はブラシを外した。
「ち、つまらねえ。終いだ。俺はやめる」
えー?もうやめるのかよ?近藤?
そんな声がちらほら聞こえたが、近藤君の発言にそれほど異議を唱えずに周りの人も追従していく。
そして、僕は解放された。鼻に纏わり(まと)付くアンモニア臭を残して。
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