第55話 55

 僕は自転車に乗って、かすかな記憶を頼りにある場所に向かっていた。

 おそらく、こっちのはずだ。

 そう、僕は思って自転車をこいだ。この団地のはずだ。

 そして、ぼくはそこに立った。薄暮の時間のなか、その丘の上に連なる一軒家、そこの波田(はた)さんの家が灰色の壁に何か鳥の糞などを受けてさび付いているように感じられた。

 僕は自転車を門の前に置いて、チャイムを鳴らした。

 ピンポーン。

 のどがからから渇く。この時、この場をいったん離れたら、また、何も変わらない平凡な日常を。みんなを守る平凡な日常を守ることができる。

 しかし、僕はそこから離れなかった。確かに離れたら平凡な日常は守れる。しかし。

 しかし、それでいいのか?それで本当に。ひとはただ、幸せになるものなのか?その手が汚れているとしても。

 僕はそれにはどうしても納得できなかった。だから、ここに立っている。

 そう、思い。僕は動かなかった。どれほど、そうしていただろう。やがて、扉が少し開いて、チェーンが張り出して、家の人が顔を出した。

 その人はウェーブした髪の中年の女性だった。しわのある顔と、しかしやせている中年の女性。しかし、彼女は普通の中年女性とは違うことが合う人にはすぐにわかるはずだ。

 目に大きな隈がある。あまり寝れていないのだろう。それにその体型はやせてはいたが、見る人にとってはやせている、ではなく、やつれているというのがすぐにわかるはずだ。

 そう、蛇が穴の中からこっちを見るような目で女性は見て、一言言った。

「何か?」

 そんな波田(はた)さんの母親に僕は一言言った。

「すみません。笹原というものです。波田(はた)さんのクラスメートです。今日は波田(はた)さんについてお話ししたいと思い、ここに来ました。どうか、話を聞いて下さい」

 波田(はた)、と言う言葉が現れたときその女性の様子が激変した。彩り豊かの飴細工のようにいろんな感情が熱せられ、伸ばされ、たくさんの色が混沌とした形容の中、千差万別(せんさばんべつ)に現れた。

 そんな、激変する感情のなかその女性は砂漠で砂嵐に遭い、何とかこらえながら歩いているような苦悶の表情で言葉を絞り出す。

「あの子の事を話してくれるのですか…………………」

 そして、いったん締め。また、扉を開いた。

「どうぞ、お入り下さい」

 そう波田(はた)さんのお母さんはいった。僕は扉に入る。

「失礼します」

「どうぞ」

 僕は家の扉を閉めて、ロックをかける。そして、幽霊のようにこちらを見る、波田(はた)さんのほうへ向かった。




 こと。

 僕は出されたお茶を見て、波田(はた)さんのお母さんを見る。波田(はた)さんのお母さんは幽霊のように生気というものがまるでなかった。そのお母さんが言う。

「どうぞ」

「はい」

 僕は一瞬(いっしゅん)迷ったが、お茶をすすった。苦い味が口の中に広がった。

 ここは波田(はた)さんの家のリビング。テレビとテーブルと腰(こし)掛けいすが三つ置かれてあった。

 僕は幽霊のように生気がなくなっているお母さんに一言言う。

「あの、僕は波田(はた)さんのことでお話をしたいのですが……………」

 波田(はた)さんのお母さんはこれまであらぬ方向を見ていたが、ちらっとこちらを見て、こう言った。

「いえ、主人が帰ってきてから話して下さい」

 そう言って、波田(はた)さんのお母さんはまたあらぬ方向を見た。

「あ、わかりました」

 僕はかろうじて、そう言った。

 そう言って、僕たちは待った。待っている間、僕はリビングを見る。リビングにはものが少なかった。新聞さえなかった。生活臭を感じさせるものがないのだ。ここの場所で波田(はた)さんはどう生きていたのだろうか?残念ながら、僕にはそれはわからなかった。そのまま、まんじりと、じっとしていたときにある車の音がした。そのまま、その車はゆっくりと車庫に入っていった。

「帰ってきたわ」

「ええ、そうですね」

 僕らはそう会話をしたようだったが、実際には二つの音が同時に派生したようなそんなふうだった。

 波田(はた)さんのお母さんは玄関に行く。そこでいくつか音が聞こえて、そして、扉を開けて波田(はた)さんのお父さんがリビングに入ってきた。

 僕は波田(はた)さんのお父さんを見た。波田(はた)さんのお父さんは疑い深い信者が、しかし、それでも神を信じようと神の像をじっと見つめているような目で僕を見た。その目だけで僕のいろんなものを凝視(ぎょうし)しようとしいたのだ。

「……………あなたが」

 波田(はた)さんのお父さんはかすり出すような口調で言い、僕に対して頭を下げた。

 僕も頭を下げて、改めて波田(はた)さんのお父さんを見る。

 そのお父さんは頭は所々はげていて、髪も白髪になっており、顔は楕円形の形に、皺が寄っていたが、しわくちゃではなくて、顔自身には水気があり、全体に深い皺が寄っている顔立ちなのだが、その顔色が前と違っていた。前、波田(はた)さんの葬式の時に。そのときは僕たち、学校の参列者を目で射殺すようににらんでいた、その表情が顔の張り出された目のあまりに強力な怒りの表情と、厳つい(いかつい)顔、全体になって現れる鬼神みたいな表情。それが僕にとってあの表情が忘れられない。あの憎い相手を刺し殺そうとする表情が。

 しかし、今の表情は確かに目は大きいものの、こちらに対して懇願(こんがん)するような、どうしても知らなくてはならないものを是が非でも教えてほしいと言うような目でこちらを見つめてきたのだ。

 波田(はた)さんのお父さんはいすに座って僕に向かって、小さく身震い(みぶるい)しながら、彼の中の開けてはならない破滅の箱を、しかし、是が非でも開け、自分で苦しみながら禁断の言葉を言った。

「………………あなたが。…………貴理子のことを知っておられるのですか?」

 波田(はた)さんのお父さんは最後には涙声になりながらいった。ほほに涙を流し、身が震えていた。お母さんのほうは突っ立ったまま顔を手で覆って静かに、しかし悲痛な嗚咽(おえつ)をした。

「お母さん、座って下さい。これから、波田(はた)さんがどうして、死んだのか真相を話します。どうか、心を強くして聞いて下さい」

 僕はそう言った。しかし、波田(はた)さんのお母さんは立ったままだった。

「こら、お前。座りなさい」

 お父さんがお母さんを叱る。しかし、お母さんは涙を流したまま子供のだだをこねるような、しかし、そこにある種の悲痛さがあった。だだをこねざるをえないとの悲痛さが。

「だって、だって。あなた、これは聞けません。……………だって、聞いてしまうのは、怖い。あの子がどんなに苦しんだのか、聞くのが怖い。……………」

 それにお父さんが一喝を入れた。

「多佳子!!」

 それに多佳子さんがびっくりしてお父さんの方へ向いた。お父さんは多佳子さんに炎の目を向けた。その炎の目にはものを明るく照らし、バチバチと魂を燃やしていた。それをみて多佳子さんはそれで静かにした。

「多佳子、座ろう。そして、貴理子のことを聞こう。あの子の最後なんだ。その真相をこの耳でしかと聞き遂げよう。それが、残された私たちのできる最後のことなんだ」

 多佳子さんは涙を流しながら、肯いて椅子に座った。その顔が揺れていた。

 お父さんは僕に向き直って真相を聞こうとしたが、その前に僕ら自身ある事実を忘れていた。

「さあ、あなた。…………え〜と、お名前は?」

 そう、名前を忘れていたのだ。だから、僕は丁寧に自分の名前を名乗る。

「笹原一樹です」

「はい、私は貞といいます」

 僕らはそうやって、お礼を言い合った。ちなみに、僕たちが座っている立ち位置は廊下の方面に出る場所に貞さんが、その隣に多佳子さんが、そして一番壁側の椅子に僕が座っていた。

 家のま取りは僕が見たのは玄関があり、その一本の廊下があったそのすぐ左側にこのリビングがあったのだ。

 そこに僕は案内されて今に至るのだ。それでぼくはまず、波田(はた)さんの死因について話した。

「まず、なぜ、波田(はた)さんが死んだのかいいます。波田(はた)さんが死んだのは……………いじめです」

 それをいった瞬間、割れた。今まで、無数のひびが入った透明な容器が割れたのだ。

「それは…………」

 貞さんは顔を沈み込んだ苦しみとついに自分が苦しんできた、うやむやにされた事実を知った、そのことの霧が晴れたが、そのことによって新たな重荷を背負われた表情をした。

 多佳子さんはやはり顔を覆って泣いていた。

 僕の言葉によって、波田(はた)さんの両親は傷ついていた。今の空気はただの色に染まっていた。僕は真実を教えたから、彼らの心に一区切りができるとは思わなかった。そのことがわかるのはもっと後のことだろう。彼らが、自分の人生を振り返って、それでぼくの行為がどう判断されるのか、彼らがそれを判断して、初めてこの行為の意味がわかるのだ。

 波田(はた)さんの両親は長いこと泣いていた。痛みが誰かに寄り添うと、しかしその誰かはもういないのだ。寄り添うべき人がいない、その圧倒的な悲しみが彼らを包んでいた。

 僕はそれらのことに言葉がなかった。何も言えなかったのだ。

 貞さんは涙を浮かべてこちらを見た。

「それで、貴理子はいじめに受けたのは本当ですか?」

 貞さんの目は葬式の時のような鬼の目をしていなかった。そこには、一人の傷ついた父親の目をしていた。

 僕はそのお父さんの目を見て、しかしハッキリと言った。

「本当です」

 そのときのあの両親の悲しみといったら、言葉にならないくらいだった。空から何かの重しを背負わされているような陰鬱(いんうつ)で、鈍重な空気が広がったのだ。

多佳子さんは懸命に目から流れる涙をハンカチで拭いていた。貞さんはうつむいたまま、何かをこらえるようにテーブルの一点を見ていた。

 僕はそんな二人に続きの言葉を言うか迷った。これを言ってしまえば、さらに二人のことを傷つけるのは必至だからだ。

 だから、迷った。この事をいうべきか、いわざるべきか。

 どうすればいい?

 今までの僕だったら、絶対この事をいわなかった。人を傷つけるのはよくない、と言う安易な思いつきでいわなかっただろう。しかし、今のぼくは果たしてこの事をいわなくていいのか?と言う疑念(ぎねん)が頭をよぎる。

 改めて、波田(はた)さんの両親を見る。多佳子さんはその目の隈(めのくま)さえを腫れさせて泣いていたし、貞さんは身を小さくして震えていた。

 二人は悲しみを放出したり、家に抱え込んでいたりはしたが、どちらも本当に貴理子さんを思って泣いていた。

 僕はそれを見て、ふと天からの啓示を受けた気がした。特定の神からの、というのではなくて、ただふと思い、しかし、それはどこか天空のどこからか受けたという印象だったのだ。

 それでぼくは覚悟を決めてこう言った。

「貞さん、多佳子さん」

 僕の言葉に二人はぴたっと、動きを止める。そして、二人はこちらに視線をよこしてくる。僕はそんな二人を見てこう言った。

「お二人にこんなことを言うのは残酷かも知れませんが……………」

 夜のフクロウが獲物(えもの)を凝視(ぎょうし)しているような、そんな目を二人がして僕を見つめる。

 その二人の雰囲気で僕はもう、あとには戻れないということを確信した。

「波田(はた)さんがどんなふうにいじめられていたか知りたくないですか?」

 二人が無機質的(むきしつてき)な動きをしてこちらを見る。だが、その濁った(にごった)目には自分の魂が放出する黒い炎が燃えさかっていた。

 僕はそれを見て、完全に圧倒されながら、しかし、表面上は冷静さを装って聞いた。

「これを聞いたら、さらにあなたたちは傷つくと思います。それでも聞きますか?」

 二人は鋼のような目をしていた。おそらく、それが答えだった。僕はそれに肯いて、こう言った。

「じゃあ、肯定したものと思って、いいます。ダメだったら否定の言葉を言って下さい」

 沈黙。その最終回答に僕はますます、気を引き締め、事の真相を話した。

「では、まず、どうして波田(はた)さんがいじめられたのかを話します」

 二人は身じろぎをたてずに、ひっそりとしかし、粘着質のような視線でこちらを見てきた。

「最初、波田(はた)さんはある生徒の教科書をふみました。その生徒の名は村田里子。彼女が波田(はた)さんをいじめていた中心人物です」

 沈黙の間が広がった。驚天動地(きょうてんどうち)の驚きを怒りの深紅(しんく)で染め上げた沈黙がこの場に編み上げられた。

「うそでしょう?」

 ぽつりと、多佳子さんは無色の言葉を出した。

 しかし、次の瞬間、抑えきれない感情が次々とあふれ出すようにいった。

「うそでしょう?だって、だってそんなことで貴理子が死ぬなんて!!!そんな、そんな、ささいなことで!!死ぬなんて!、信じられない!!」

 多佳子さんは赤、青、黒、黄色、とたくさんの色の本流を放出させ、それに飲み込まれた。

 多佳子さんはうつむいて信じられない、信じられないという言葉を連続していっていた。貞さんはじっと鉄の槍のような目でこちらをえぐり出していた。

「笹原君、それは本当なのですか?」

 そう、貞さんは裁判官が罪状を述べるような口調で言った。僕はそれに肯く。

「そうですか……………」 

 貞さんは黙った。その憤懣(ふんまん)とあきらめに満ちた背中は高校生の僕にはとうていわからない世界だった。

 僕は二人が落ち着くまで待った。20分たって、ようやく多佳子さんが落ち着いたからぼくはまた、二人に呼びかけた。

「二人とも、これはほんの序の部分ですよ。本当に残酷なことはこれから起きます。二人に改めて聞きます。知りたいですか?真実を」

 それに二人は沈黙した。今度は戸惑いの音が聞き取れないほど静かに羽を震わせていた。

しかし、そんなときに一つの言葉が一閃する。

「聞きます」

 それは多佳子さんだった。多佳子さんが堂々とした姿で覚悟を秘め、迷いを断ち切ったのだ。僕は貞さんに目を向ける。貞さんも肯いた。

「ではいいます。もう、こうなったらどんなことがあっても最後までいいます。二人ともそれでよろしいですね?」

 二人は僕と目を合わせて肯いた。二人は憔悴しつつ、その目には肥沃(ひよく)の黄色がうかんでいた。

 僕はそれを見て、心を鬼にして話し始めた。もう立ち止まるつもりはない。

「波田(はた)さんが教科書をふまれて、それからいじめが始まりました。最初は無視したり、波田(はた)さんが忘れた教科書を貸すな、という伝言ぐらいなものでしたが、次第にエスカレートしていきました。波田(はた)さんのことをデブといっていじめたりしました。


 そして、これは僕が一部始終見たことなのですが、ある日体育の授業が自習になったとき、波田(はた)さんと村田達がいないのを知りました。そして、僕がふと体育館裏で声が聞こえたからいってみると、彼らが波田(はた)さんにドロップキックを食らわしてゲラゲラ笑っていました。そして、波田(はた)さんが胃の中にあるものを吐きました」

 音が聞こえる。話していてる最中、死にかけの猪のようなううーっ!ううーっ!という苦悶の音が。

 しかし、僕はそれに答えずに話をやめなかった。ここでやめてはいけないのだ。

「そして、それから波田(はた)さんの体重が激変していきました。それから、みんなは彼女のことを骸骨(がいこつ)といってこづいたりしていました。それから、夏休みに入りました。あとの様子は多分、あなたたちがよくわかっているはずです」

 僕の言葉に体を酷使され血がにじむような、そんな血の臭いが場を立ちこめた。多佳子さんはうっう、と椅子に身を沈め泣き崩れていたし、貞さんは静寂と言えるほどの静けさを身に纏って(まとって)いた。

「なんで?」

 その時、貞さんが血を吐いた。貞さんは僕を見つめ深紅(しんく)の濁流を吐き出した。

「なんで?なんで、君、そんなに冷静に言える?なんで、お前は生きている!なんで、なんでお前は貴理子を助けなかったんだよ!」

 そう言って、貞さんが僕につかみかかってきた。

「お父さん!」

 多佳子さんが貞さんを止めようとしたが、貞さんの勢いを止めることはできなかった。僕は貞さんの力にもみくしゃにされながら壁にたたきつけられた。そのとき、僕は貞さんを見た。

 その厳つい(いかつい)皺のある顔から涙を止めどなく流していた。その目にはもう厳つい(いかつい)おじさんではなかった。その目の悲しみと慟哭(どうこく)とそして、なぜこんなふうになったのだ?という己の身を壊す問いを抱えたまま、徹底的な孤独さを背負った、ヨブだった。

 中島道義の『悪について』だったか。犯罪被害者家族になったら、生涯なぜ?という問いを抱えたまま、ヨブになるといっていたのを反射的に想い出す。

 彼ももう日が当たることがないまま、この地獄の道へ踏み出すだろう。僕も、少しにたことを覚えていたことがあった。彼の苦しみに比べれば0,1パーセントぐらいだろうが、不登校になっていたとき、そのどうして自分は学校に行けないのだろう、ということを頭がねじり出すほど考えたことがあった。

 しかし、その答えは出なかった。わからない。それが僕の答えだった。

 彼はその道を僕の何百倍の苦しみを背負って渡っていかなければならないのだ。今のうちに感情を表出して悪い事なんてないのだ。

 彼は言葉を繰り返す。

「なんで、なんでだよ!!なんで、お前が生きて、貴理子は生きていないんだよ!!返してくれ、返してくれよ!貴理子を!あの子を返してくれよ!!!!」

 そう言って、彼は僕の肩をさらに圧迫した。僕は体力的な苦痛よりも、むしろ精神的な脅威を感じた。

 そうやって僕が抵抗をしていると貞さんを抱きしめる人がいた。

「お父さん!八つ当たりはやめて下さい!貴理子は…………貴理子は死んだんです。私たちはこの事を受け止めないといけない。私には受け止めれません。しかし、もう、もう貴理子は、あの子は死んだんですよ。お父さん…………」

 そう言って多佳子さんは抱きしめたまま、泣き崩れた。貞さんも。

「お、おっおぉぉぉ。貴理子ぉぉぉ。おっ、おおおぉぉぉぉ」

 へたへたと泣き崩れていた。二人の嘆きの共音がいつまでも響いていた。




 波田(はた)さんの家を出て、時計を見る。午後10時。だいぶ遅くなってしまった。

 僕は夜の冷風に当たりながら、そう思った。もう、この桜ヶ丘団地にひっそりとした人工の明かりを縫うように闇がしっとりと息づいていた。

 僕は背後を振り返る。そこには貞さんがいた。

「帰るのか?」

「はい。もう、遅いですし」

「そうか」

 貞さんは独りごちをいうようにいった。そして、貞さんは所在なさげに視線をさまよわせてこう言った。

「さっきはすまなかったな、つかみかかって。さっきのことは申し訳ないと思っている」

 そう言って、貞さんは頭を下げた。それに僕は慌てて言う。

「いえ、いいですよ。気にしていませんから、頭を上げて下さい」

 僕は貞さんの頭を上げさせ、重ねていった。

「あんなむごいことがあったのなら当然です。むしろ、今のうちに吐きだした方がすっきりします」

 僕が善意のつもりでそう言った。実際、そう思ったからそう言ったのだが、それを言った瞬間、貞さんの雰囲気が戦場をかける武士のように剣呑になり、こちらをにらめつけてきた。

「わかったことを言うな!!君にはわからない、愛する娘が奪われた気持ちなどわかるはずがない!!怒ったところですっきりなんてするか!!私は、私は…………」

 そう言って、貞さんはあとの言葉続かなかった。あまりに強烈な感情が言葉として整理できないのだ。

 貞さんはまだ、何かを言うとして体を震わせたが、マグマのような感情に扱うことができず、やがてこの事を言うのはやめて、謝った。

「すまなかったな。そういえば、君は高校生だったな。高校生にこんなことを言うのはかなり酷だな。しかし、覚えてほしい。家族が自殺を、しかもいじめられて自殺されるともう幸せは一生来ないのだ。だから、それを覚えてほしいんだ」

 貞さんは闇色の霧を纏い(まとい)ながらそう言った。僕は彼を見て、子供がいじめられて死んだ家族の絶望のほんの一端を見た気がした。

 僕は貞さんの絶望を見て戦慄しつつ、あることを言うためにここに来たのだ。そして、僕はそのことを言う。

「貞さん」

 貞さんが顔を僕のほうに向けた、僕は貞さんの目を見てこう言った。

「貞さん、これからどうしますか?」

「どうとは?」

 貞さんは戸惑った目をしていた。目にはこの子は何を言い出すのだろう、という疑問があった。

「つまりですね、貞さん。この事を学校や教育委員長に言うつもりはないのですか?といっているんです」

 貞さんはああ、といった目をした。さらに僕は続ける。

「それで多分、それだけではダメと思いますから、マスコミなどに伝える可能性もありますよ。どうしますか?貞さん」

 それに貞さんは、まるで夜風が寒いかのように身を縮こまらせこう言った。

「そうですね。…………………考えておきます。でも、今は何も考えられない。今はその話題には触れないで下さい」

 そう言って、貞さんは背を向けて家へ帰った。その寂寥(せきりょう)たる背中に僕は何も言えることはできなかった。

 そして、僕は自転車に乗って身を切る寒風の中を突き進んでいた。










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