第51話51

 ある朝の授業の時に、学校に子犬が入り込んできた。

 僕達が授業を受けていると、隣のクラスが大騒ぎをしていたので、僕達は何だろうと思って窓を見たら、そこに子犬がいたのだ。

 もちろん、僕達のクラスも大騒ぎ、ちょうど成田先生の授業の日本史だったが、成田先生の野太い声も好奇心の前に勝てなかった、みんなが大騒ぎしてしまったのだ。特に女子が大騒ぎをして、こんな事を言い合ったのだ。

「きゃー!きゃー!すごくかわいい!」

「うん。かわいいよねぇ〜。あんな子抱きたい!」

 うるさいなぁ。早く、授業して欲しいんだけど。

 僕は窓に行かなかった。ほかにも動いてない男子がちらりほらりといて、女子はキャサリンを除いて全員が窓に向かっていた。

 仕方ないので女子のみんなを注意しようと決め、席を立った。

「こら!女子達!さっさと戻れ!早く授業をさせろ!」

 成田先生も。

「笹原のいうとおり、お前らさっさと席に戻らんか!戻らんと内申点に響くぞ!」

 そう言った。だが、さしものゴリラも、みんなで渡れば何とやら、猿山は微妙だにしなかった。

 そうやって僕達は怒鳴りつけたが、あまり事態は変わらなかった。猿山は群れを大きくして騒ぎを大きくしていた。そして、僕がへとへとになったとき、後方で席をずらす音がした。

「お前ら。いい加減にしろ!」

 見ると長瀬君が立ち上がったのだ。

「何だ!おまえ達!早く席に戻って、授業をしないか!子犬が何だ!授業に戻れ!」

 長瀬君は普段こう言うことをいうタイプではなかった。性格も存在感も至って平凡な男子学生だったのだ。いったい、どうして立ち上がる気になったのかはわからないが、しかし、その言葉をきっかけに残った男子たちがどんどん立ち上がった。

「そうだ!そうだ!女子、うるさいんだよ!早く、席に座れ!」

「そうだ!こっちは授業をするためにここに来たんだから、早く授業を再開させてくれ!」

「ほんと早く戻れよ!女子!子犬なんてあとでいくらでも見えるだろ!早くもどれって!」

 そういう、男子たちの声に押されて、女子と数人の男子が席に戻っていく。そんな中、まだ名残惜しそうに窓にへばっている女子が数人。僕と成田先生と長瀬君が、直接そばに行ってはがし取ろうとする。

「ほら、村田。さっさと席に戻る」

「お前ら、戻れ!今は授業中だ!さっさと戻れ!」

 その僕達の言葉に、村田たちは口をへの字にしてこっちに振り向いた。

「ええー!でも、かわいいんだもん。もうちょっとだけ見させて!」

 そう行って僕らに拝む村田。それに成田先生が。

「そんなの却下に決まっているだろう。さっさと席に戻らんか!」

 それに長瀬君も同調する。

「ああ、全くだ。何だ、かわいいって。別に子犬なんてそんなにかわいいものじゃ…………」

 ちらっと長瀬君が窓の外を見て、そして彼は止まった。

「?長瀬君、どうした?」

 僕がそういったら、長瀬君は止まったまま、こう言った。

「あれ、おれんちの子犬だわ」

 そのとき、黄色い花が空中に舞った。




「ええ〜、この件は、長瀬の子犬は職員室で預かることになった。異論は許さん。質問は無しだ。長瀬の子犬は授業が終わったらちゃんと返す。以上!授業に戻るぞ!」

 そう、成田先生が言うといくつもの手が上がった。

「質問は無しなはずだ。手を戻せ!」

 しかし、その話しを無視して、金村が席を立って質問した。

「休み時間、わんちゃんの所に行ってもいいですか?」

 そういったら、やかんが沸騰(ふっとう)するがごとく、同じ意見が場に噴き出した。

「お前らやめろ!誰が質問を許した!静まれ!」

 成田先生の怒鳴り声に何とかクラスのみんなが静まった。

「ええー。ハッキリ言うが、休み時間に子犬にあうことは禁止だ。もう、質問は許さん。わかったな?」

 それにみんなが不満げの甘えたガスを放出させた。

「お前ら、どんなことをいっても授業は続けてもらうからな。それと、これからまだ渋る(しぶる)ものがいたら、正真正銘(しょうしんしょうめい)、内申点に響かせるぞ」

 その成田先生の言葉に、クラスのみんなは何とか、場が静まった。そして、そのときに学校の鐘が鳴る。

「もう、時間が来たか。あと、お前らに一言、言っておくが、放課後になっても、今日の授業の続きをするから、そのことをよく覚えておけ」

 それに不満のブーイングがそこら中に流れたが、成田先生はさっさと教室から出て行った。そのときのクラスの話題は子犬の話し一色だった。




「それで、1651年に徳川家光が死に、11歳の若さで徳川家綱が4代将軍になった。それを支えたのは会津藩主で叔父の保志雅之だったのだ。ここまでが今日の範囲だ。よく覚えておけよ。みんなご苦労さん」

 それで、解散という運びになった。なったのだが、僕達はすでにゾンビになっていた。

「やっと終わった…………」

 そういうのがやっとでのろのろと体を動かす。周りのみんなもだいたいそんな感じだった。居間は5時半。やっと、授業が終わってくれた。あとは帰るだけ、今日はなにも考えたくない。

 そして、クラスのみんながのろのろと帰り支度をしていると、扉が勢いよく開いた。見るとと40代ぐらいのやせた男性か江原先生がしかめた顔つきで僕達の方へ目を向けていた。いや、違う。

「長瀬、お前に話しがある。ちょっと来い」

 成田先生はその瞳を長瀬君に向けていた。長瀬君はびっくりした表情をして、成田先生の方へ向かう。そして、そのときに一つの声が成田先生の方へ撃ち込んできた。

「ちょっと、待ってください!成田先生、それはもしかして、わんちゃんのことですか?わんちゃんに何かあったから長瀬を呼んだのですか?」

 その一つの声は金村さんが発したものだった。それに周りのみんなもざわめく。それに成田先生は必至で打ち消す。

「違う、違うぞ。お前らはさっさと帰れ。もう、遅いから親御さんも心配するからな。だから、早く帰れ」

 それに周りのみんなは応じず、さらに声を大きくした。

「先生!わんちゃんに何かあったんですか!何があったんですか!?」

「そうですよ。教えて下さい、先生!長瀬の子犬は俺たちにとっても一大事ですから、人ごとではありませんよ!」

「そうよ!わんちゃんに何かあったら、私は夜も寝れません!絶対教えて下さい。なにもありませんよね?」

 そのみんなの言葉に、成田先生は口ごもった。先生がそんなにおとなしくなることはあまりに珍しかった。それほど、先生もこの事に揺れているのだろう。

「先生」

 そのとき、一人の生徒が成田先生の前へ来た。金田君だ。金田君の後ろ姿しか見えないが、その姿は静かな気迫が静謐に体から出ていくような、どこか内なる覚悟を決めたような姿だった。その金田君がもう一度先生に呼びかける。

「先生、いったい何があったんですか?長瀬の子犬に何があったんですか?先生、俺たちは生徒と教師じゃないですか、それに長瀬は俺たちのクラスメートです。ほっとおけないではないですか。先生、俺たちをもっと信頼して下さい。子犬のことでしたら俺たちが何か手助けをできるかも知れないじゃないですか?」

 そう、金田君はいった。成田先生はアンコウが獲物(えもの)をじっと見るように金田君を、僕らを見ていた。それは一瞬(いっしゅん)のことだった。一回力を入れると、すぐにその力を弛緩(しかん)させた。そして、口を開く。

「わかった。お前らに話そう。長瀬の子犬がどうなったかを」

 その瞬間、クラスはガラスが割れたような歓声を上げた。そばにいた江原先生が慌てたように成田先生の方向に振り向く。

「成田先生!これは、内密にするのではなかったのですか!」

 そう、江原先生が言ったら、成田先生は岩がゆっくり動くように、振り向いた。

「江原先生。ここまで来たら隠すことはできません。それにこの作業は大人数の人が必要ですし、もし、達成できなかったら学校側の責任になります。それに私は生徒たちを信じたいのです。生徒を信頼してこそ真の教師の姿だと思っていますから。もちろん生徒の安全を図るため、生徒たちには校内を探してもらうつもりです。それでいいですか?江原先生?」

 それに江原先生は、うっ、と呻いて(うめいて)、こくりと首を縦に振った。

 成田先生はそれを見ると、僕らの側に振り向いた。

「みんな、聞いてくれ。実は学校側が預かっていた、長瀬の子犬が行方不明になった。みんなにこれを探すことに協力して欲しい。これは参加しないからと行って内申点には響かないし、帰ってもらっても構わない。子犬探しに参加するものは手をあげてくれ」

 それにみんなが黙った。風一つ立たない、湖のように静寂がピンと糸を張るように場を支配していた。そして、ひとしずく落ちるようにぽつりと金田君がその沈黙を打ち破る。

「水くさいぜ先生。俺たちは生徒なんだから、そんな自由参加といわれても困るぜ。みんな!もちろん、これに全員参加だよな!」

『おおー!』

 金田君は途中声を大きくしてみんなに向かって叫んだ。そして、それに全員が賛成の叫び声を上げた。

「わかった。みんなの思いはわかった。では、早速取りかかってもらう。みんなに探してもらうのは校内を探してもらう。一歩も外には出るな。もし、外に子犬が発見したら先生に伝えてくれ。そして、二人一組で探すこと。それで遅い時間になったら学校側の命令で解散とすることにする。そうだな、7時まで探してくれ。それ以降は家に帰ること。いいな?」

 成田先生の言葉にみんなが肯いた。

「わかった、みんな。それじゃあ早速当たってくれ。それでは散開!」

「おお!」

 みんなが気合いを入れて挨拶(あいさつ)をしたあと、体から湯気が出るような熱意で、きびきびと移動した。僕は、これからどうしようか?と思った。

 別に探してもいいけど、しかし、いま何かすごい違和感が胸の中にある。自分の内にある、ある問いに答えなければならない。だから、どうしようかと迷った。

 そうやって逡巡(しゅんじゅん)しているとある生徒と目があった。その生徒はつかつかと僕の前にやってくると、顔に笑みを浮かべていった。

「笹原君。一緒に探そ」

 それは村田だった。その大きな目で僕を見ながらそう言ったのだ。

「ああ」

 僕は一拍してから答えた。自分の問いに迷っているが、参加したら何か発見するものがあるかも知れない、と思ったのだ。

 探すとなったら早いほうが言い。僕は村田の隣に立って子犬の探し方について話し合った。

「で?どこから探す?みんなも校庭やら、教室に行ったけど、僕達はどこを探す?」

 それに村田がう〜んと手をあごに当てて、唸ったあとこう言った。

「そうだね。私はね……………あそこにいると思うな」

 村田が僕の側方に移動して、僕にしか聞こえないように、耳元で話した。

「正気か?」

 僕はそう聞いた。ちょっとそこにはいないと思うんだがな。だが、村田は屈託(くったく)無い表情で言う。

「うん!そこにいると思うな」

「どうだかな。だが、誰も探していない場所だと思うし、僕らが探すしてもいいかもしれない。ちょっと、先生に言ってみよう。それでいいな村田さん?」

「うん!」

 村田は元気よく肯いた。村田の長い髪がふわりと、動いた。




 たっ、たっ。

 僕達は校舎の廊下を歩いていた。一応探す場所の鍵を先生に借りてその場所に向かっているのだが、先生はだいぶあきれた顔をしていた。

 だけど、村田はいつになく上機嫌(じょうきげん)なのか、そのことを気にせずに、にこにこと微笑んで(ほほえんで)いた。

「村田さん、そこに子犬がいると思うか?」

 僕がそういったら、村田はいつになく肯く。

「うん、いるいる。絶対いるよ、笹原君。私のカンに間違いはないよ」

「ふ〜ん。そうか」

 そんなものなのか?いないと思うけど、まあ、まずは探そう。

 暗闇の廊下を僕らは歩いて行く。この場ではほかに誰もいなくて、二つの存在をサウナの中に入ったように密に感じていた。

 僕はそんな村田とこういう風に歩くことを不思議に思いながら、少し話しをしたいから話を振ってみた。

「なあ、村田さん、どうして僕と組もうと思ったんだ?金村と組めば良かったじゃないか。どうして僕を?」

 その言葉に村田は、うー、と顔を上に向けて唸ったあと、こう言った。

「別に深い理由はないよ?ただ、笹原君と組みたかっただけ。ちょっと、お話をしてみたかっただけなの」

 そう言って、村田はこっちに顔を向けて微笑んだ。

 僕はそれを見て、何か不思議に思った。僕が村田の興味を引くようなことをしたのだろうか?と思ったのだ。

 まあ、でも、僕も村田と話しをしたかったから、ちょうど良かった。それで次の言葉を言う前に村田が前方を見つめていった。

「あ!ついたよ!笹原君」

「ああ、そうだな」

 そう、ついた。体育館に。

 僕は村田の方へ振り向く。

「ここにいると思うか?村田?まあ、来たものはしょうがないから、開けて調べよう」

「そうそう、そうしよう。しつこい男は嫌われるよ?笹原君」

 村田はそう茶目っ気たっぷりに言ってきた。僕は鍵を開けつつ言った。

「誰が、しつこい男だ!お、開いた。入るぞ、村田」

「うん」

 そして、僕達は体育館に入っていった。




 僕達が体育館に入ると闇の殻がそこにあった。

「暗いな。明かりをつけるよ。村田さん」

「うん」

 そして、光の花が咲く。うん、一見したところ子犬はいないな。

「子犬はいないね、村田」

 しかし、村田は首を横に振った。

「ううん。まだわからないよ、笹原君。倉庫にいるかも知れないじゃない」

「そうかな?いないと思うけど、まあ、でも一応端から探してみよう。村田は左端から探してくれ、僕は右端から探すから」

 それに村田が肯く。

「うん。わかった」

 僕達は端から子犬を探した。しかし、入り口の死角になっている端の方に行っても子犬はいなかった。

 やっぱ、子犬はいないな。こんな所にいるわけがないよな。さっさと終わらせて、次の場所をさが…………そ?

 そのとき、僕はそれを見つけた。それをまじまじと見て、すぐ村田を呼んだ。

「村田!ちょっと、こっちに来てくれ!」

 村田はしゃがんで子犬を探していたが、すくっと、立って、こちらに向かって走ってきた。

「なに?笹原君」

「これ、見てくれ」

 僕が指をさす場所を村田に見せる。それに村田も驚いた(おどろいた)風に声を上げた。

「あ!これって」

「ああ、ここに子犬がいる可能性が高まったぞ」

 それは体育館の床に接している窓が開いていたのだ。おそらく先生が閉めるのを忘れたのだろうが、それが開いていた。子犬が通れるのに十分な大きさだった。

「よし!村田、壇上(だんじょう)付近を探すぞ。おそらく、いるとしたら、そこにいるはずだ。行くぞ、村田」

「うん。わかった」

 村田がそれに肯く。それで、僕達は壇上(だんじょう)に向かおうとしたときに壇上(だんじょう)の方から、くぅ〜ん、という声が聞こえた。僕と村田は目を合わす。

「聞こえたか、村田?」

「うん。聞こえた、聞こえた。わんちゃんだよ。行こう、笹原」

「ああ」

 そして、僕達は壇上(だんじょう)に向かう。おそる、おそる、子犬を刺激しないように静かに歩いて行く。そして、壇上(だんじょう)に上がって奥の方を探していると、ピアノの隅(すみ)に隠れている小さな影を見つけた。

 それをみつけたときの村田の表情は一日で咲いたサボテンの花のように明るさの花びらが一瞬(いっしゅん)にして開いた。

「おお、おいで、わんちゃん」

 村田が小さな影、長瀬の子犬に、おいでおいで、とする村田。長瀬の子犬は、もう一度くぅ〜んと鳴いた。なんか、この光景を前にも一度見たことがあるな。女性はおいで、おいでをしたいものだろうか?

 果たせるかな。その子犬は村田のことを気に入ったのかは知らないが、ひょこひょこと村田のそばにやってきた。

「おおー!おおー!おいで、わんちゃん!」

 そして、子犬が村田の腕のそばに来たとき、村田はすくっ、と子犬を抱き上げた。

「よしよし、いい子だね、わんちゃん。笹原君、任務完了だよ」

「わかった。村田は外に出ていてくれ。僕は窓を閉めてから外に出る」

「了解です」

 そして、僕は窓をしっかり閉め、明かりを消して、体育館を出た。

 外に出てみると村田がほくほく顔で僕を待っていた。それほどまでに子犬が好きなのか?まあ、それはともかく、僕達は廊下を歩きながら、職員室を目指して歩いた。

 村田は子犬を見つめながら、たまらず言葉を漏らす。

「ああん。かわいい!私も子犬飼いたいな!」

「でも、実際に飼うとなったら大変だと思うよ。ちゃんと犬の世話をしないといけないんだから、毛の処理とか、躾とかが大変と思うよ。ちゃんとできるの?」

 僕がそういったら村田は、はぁ、と嘆息(たんそく)した。

「そうなんだよね。私、そういう根気のある作業って、超苦手なんだよね。勉強は何とかやってきたけど、それ以外は全然ダメなんだ。すぐ、投げ出してしまうんだよね」

「ふ〜ん、そうなんだ」

 僕は肯いた。やっぱりそういう根気のある作業ってなかなかできるものじゃあないよな。しかも犬はものじゃなくて動物だ。感情もあるし、そう簡単に育てることはできることではないよな。

「ま、別にいいじゃないか。育てなくても。犬を飼っている友だちの所に遊びに行ったり、動画で子犬を見ればいいじゃないか」

 僕がそう言うと村田はこくり、と肯いた。

「うん、そうだね」

 そうこう話している内に一階の校舎に着く。

「あとは職員室に行って、こいつを渡せば…………お!原田くーん!子犬を見つけたぞ!」

 僕はちょうどその場にいた眼鏡をかけた、目がぎょろりとした男子、原田君を見つけていった。原田はぎょろっとこっちを見ると、てかてかと小走りにやってきた。

「見つけたか!」

「ああ、体育館の窓が開いていて、それで壇上(だんじょう)にいた。みんなに知らせてくれ。僕達は職員室に行く」

 原田くんはギロ、っと子犬を見たあと、小走りで外に駆けていった。僕は村田に向かい合う。

「さ、行くか。村田」

「うん」

 そして、僕達は職員室に入っていった。




「みんな、ありがとう。この事は俺、絶対忘れないよ」

 長瀬君が子犬を抱きつつ、感に堪えない(かんにたえない)様子でいった。そして、そのことにみんなは困ったときはお互い様だ、という。

 長瀬君の言葉を成田先生が引き取って言う。

「お前ら、良く辛抱してくれた。ありがとう、みんな。先生は今まで30年ぐらい教師をやってきたが、こんなに感動をしたのは始めてかもしれん。みんなありがとう」

 そして、先生は頭を下げた。先生の体がかすかに震えていた。

 そんな先生の様子に金田君がやはり涙声で言う。

「先生、頭を上げて下さい。そんなことを言われると、ぐすっ。俺たちは困るじゃあないですか」

 金田君がそう言うと、周りのみんなもぐずり出して、女子は何人か泣いた。村田も涙目になっていた。

 みんなが感動をしている。しかし、僕の心だけは冷め切った溶岩のようにそこ冷えの状態で固まっていた。そんな覚めた目で僕はみんなを見ていた。そしたら、写真部に所属している、中上君がこんなことを言った。

「みんな!この記念にみんなで集合写真を撮らないか!写真ならここにあるし、この感動をこの場に封じ込めようぜ!」

 そう行って、ポケットから小型のカメラを取り出す、中上君。それを見た成田先生が大きな声を出した。

「こら!中上!カメラは写真部にあるものだけを使え!何だ、ポケットから出して!没収だ、没収!」

 そうして、成田先生は中上が持っていたカメラをひょい、と取った。

「ああ!返して下さいよ!先生!」

「ダメだ、ダメだ。構内のカメラの持ち込みは厳禁だ」

 そうやって、にべもない先生に、周りのみんなから異議の声が次第に広まった。

「先生、ひどいっす。中上はただ、ここで写真を撮ろうとしただけですよ」

「そうそう、中上はみんなのこの感動を取ろうとしただけだと思います。それを取り上げるなんて先生ひどいです」

「そうですよ、先生。いいじゃないですか、ちょっとぐらい。せっかくだから写真を撮りましょうよ。こんなに一致団結した何かに取り組むこと何てそうそうあることではないのですから」

 みんなからそうだ、そうだ、写真を撮ろうという声がどんどん聞こえてきた。それに先生は腕を組んで皺を寄せた。どうやら先生もかなり迷っているようだ。そして、こう言った。

「わかった、わかったからそんなに押すな。よし、今回だけは特別に大目に見よう。お前ら、さっさと並ぶぞ。さっさと写真を撮って帰るんだ」

 そのとき、みんなは日清戦争で勝った日本軍を迎える国民のように歓声を上げた。

 そういう歓声を上げているみんなに僕はひょろりとその場を抜け出した。




「ふぅ。ここまで来れば大丈夫かな?」

 僕は2階に来て言った。あとは教室に置いてきた鞄を取って帰るだけ…………。

「何が大丈夫なの?」

「うわぁ!」

 いきなり後ろから聞こえた声に飛び上がる僕。振り返るとそこに村田が立っていた。

 村田は不思議そうな顔をしてまた聞いてきた。

「ねえ?何が、大丈夫なの?」

「い、いや、それは…………それよりさ!村田はみんなで写真を撮らなかったの?どうして僕の後をつけてきたのさ!」

 僕はそう言ってごまかした。それに村田も、う〜ん、と悩んで言った。

「いや、別に。ただ、笹原君のことが気になっただけ。ねえ、笹原君はどうしてみんなの写真を撮らなかったの?」

 村田は不思議そうな表情でそう言った。それに僕はつと、っと窓を見た。

「村田」

「うん?」

 村田は不思議そうな顔をしてこちらを見つめてきた。その村田に僕はあることを言う。

「村田。これでいいのか?」

 それを聞いていた村田はびっくりした顔をする。

「え?これでいいのか?って?え、いけないの?だって、子犬を発見できて、良かったじゃない。みんなが一生懸命(いっしょうけんめい)探してさ。私、あれを見て感動したよ。本当にこのクラスに入れて良かったな、と思ったんだ。ほんと、ここは居心地のいい場所だよ」

 そう言って村田は春のタンポポが咲くようなほっこりする笑顔を見せた。それに僕は凍った川のような冷ややかな透徹な目で見た。

 どう言えばいい?

 僕はまだ、この段階では考えがまとまらなかった。だが、今回のような状況は何かが違う、ということだけは消化されない異物を飲み込んだ違和感でハッキリわかった。

 僕は村田からきびすを返して教室に向かう。

「!ちょっと!笹原!話は終わってないよ!ほんとどうして、みんなの写真に撮らなかったの!ねえ、答えてよ!」

 僕は足を止めて、村田の方へ振り向いた。

「村田、その問いは、いや、僕がクラスに対する思いはあとで答える。今はいろいろ考えなくちゃ、いけないことがあるんだ」

 それにかなではトゲのある声音を使って言った。

「考えなくちゃいけない事って?それって、必要なことな訳?」

 ………………………。

「ああ、多分、必要だ。ただ……………」

 村田がこちらをのぞき込んでくる。

「ただ?」

 ただ、『みんな』にとって必要なものなのかはわからないが。

 だが、僕はそれを言わず、こう言った。

「いや、そろそろ帰るわ。今は言うべき事じゃないからな。ここで議論は打ち切りだ、村田。それでいいな?」

「あ、うん」

 それに村田も素直に肯いた。そして、僕は鞄(かばん)を持って、きらやかな明かりのある校舎を去っていった。




 その翌日。僕は職員室に呼ばれた。成田先生が礼をしたいから来てくれ、と言ったのだ。僕はしばらく考えたが、やはり行くことにした。

「おお、笹原」

 職員室に入ると成田先生が笑顔で迎えに来てくれた。前のホオジロザメのようなあご骨はますます、生気をみなぎっているように感じた。

「いやー、すまなかったな。笹原。いろいろ苦労をかけて。……………さ、座ってくれ」

 そうして、先生は僕にいすを持ってきて座るように言った。僕はそれに座った。

 僕が座ると、先生は心の内から快活(かいかつ)さがにじみ出るように言った。

「いやー、今回ばかりは笹原にだいぶ世話になった。ほんと、ありがとうな、笹原」

 そう言って、先生は頭を下げた。それに僕は素っ気なく答える。

「いえ、別に」

 成田先生は相変わらず、にこにことしていた。しかし、僕の心の中は灰色の曇天(どんてん)のままだった。

「お、そうだ」

 成田先生がぽんと相づちを打って、自分のバックを開けた。それでそのバックから一つの箱を取り出して開けた。

「ほら、笹原も一つ食べてくれよ」

 それはマドレーヌが五つあった。

「はは、家内が作ってきてくれたんだ。笹原に感謝のお礼、と言うことでな。ほら、食べてくれ」

「それよりも」

 僕は成田先生が僕にマドレーヌを食べるようにつきだしたものを遮って言った。

「それで、先生。用件は何ですか?」

 そう僕は言うと、成田先生はマドレーヌをいったん机の上に置いて、そして、僕に向かってにっこり笑っていった。

「ああ、用件?はは、そんなものは本当のところないんだわ。本当に笹原に感謝したいから呼んだだけで、それ以上の理由はないわ。本当にあれからみんなが明るくなったようで、俺は本当にうれしく思ってる。


 つい先日だって、あんなに長瀬の子犬をみんな一丸になって探してくれて、俺は本当に感動したよ。それも、これも笹原、お前のおかげだよ。笹原のような勇気のある生徒がいてくれたからこそ、俺は最後まで生徒を信じることができた。本当にありがとう笹原」

 そう言って成田先生は頭を下げた。しばらくそうしていたが、やがて顔を上げた。顔を上げた先生は本当に水を得た魚のように自身の自然のような明朗さを内部から閉じ込めておくことができないほどに外にこぼれだしていた。

 僕はそんな成田先生を見た。そして、こう言った。

「先生、これでいいのですか?」

 僕の台詞(せりふ)に成田先生はきょとんとした。いったい、何を言っているのか分からないというふうに。

「おいおい、笹原。いったい何を言っているんだ?もう、いじめはなくなったし、クラスも明るくなった。それでいいじゃないか。何を言っているんだ?」

 成田先生は本当に分からない、と言うふうに首を振った。

「なら、いいです」

 僕は、ちょっと、この事で考えなければならないから、こう言ったのだ。それでぼくはおいとましようとすると、成田先生が僕に向かってこう言った。

「おいおい、笹原。一つぐらいマドレーヌ、食っていけ。だとしないと俺が家内に怒られてしまう。な?ここは先生を助けるために食ってくれよ」

 先生はそう言った。僕は食べようかどうしようかと悩みながら、ちらっと先生を見た。その瞬間、先生の後ろにアカイヤミのようなものが見えた。

「!!」

「?どうした、笹原?首を振って。どこか、痛いのか?」

「いえ、何でもありません」

 あれはなんだんたのだろう。それは赤かった。確かに赤かったんだけど、一瞬(いっしゅん)で闇であることが分かった。一瞬(いっしゅん)で。ともかく、僕は少し考え、マドレーヌを食べることにした。やはり、これを食べないと成田先生の奥さんに失礼なこととなるからだ。

 ぱく。

 マドレーヌを口に入れ咀嚼(そしゃく)して、嚥下(えんか)する。口の中に広がったマドレーヌは甘かった。気持ち悪いほどに。

「お!ありがとう!笹原!これで俺も枕を下にして寝られることができる」

「はい、それで先生。ゴミ箱を下さい。マドレーヌの食べかすを落とすので」

「おお、悪かった、悪かった」

 それで、先生はゴミ箱を持ってきた。僕はそれに手をふるってゴミかすを落とした。

 そして、そのとき。一瞬(いっしゅん)、僕の手にインクを垂らすようにアカイヤミが天に向かって垂れていた。

「!!」

「どうしたんだ、笹原?また、首を振って」

「何でもありません。それではこれで失礼します」

「おお。また何かあったら相談してくれよ。何でも相談に乗るからな」

「はい。失礼します」

 それでぼくは職員室を出た。そして、またアカイヤミが出ないかどうかが、それが僕にとって怖かった。

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