まよい猫
それから一週間後、待ちに待った夏休みがやってきた。
夏の朝、ぼくは早起きする。網と虫かごを持って家の近くの鏡池の森に行くのだ。早朝はクワガタ虫やカブトムシが、樹液を吸いに木の低いところに集まるから。だからラジオ体操なんか行かない。
夏の夜はもっと楽しい。花火と夏祭りがあるから。金魚すくい、水風船、わた菓子、かき氷、チョコバナナ、たこ焼き、ヤドカリ、ミドリカメ、お化け屋敷、たくさんの夜店がのきを連ねる。
「お祭りに行ってくる!」
晩ご飯もろくに食べず、ぼくは青いTシャツに着替えると、玄関に向かった。
「遅くまで遊んじゃだめよ」
お母さんの声が追いかけてくる。
「はーい」
ぼくは、急いでサンダルを履き、玄関のドアを開けた。急がないとお父さんが仕事から帰ってくる。お父さんは、勉強しろ、勉強しろと口うるさい。そのくせ、ぼくの勉強を全く見てくれない。お母さんに任せっきりだ。それなのに勉強しなかったら怒るのだ。
「あっ!」
足下にダイアンがいる。いつのまに着いてきたんだ。
ダイアンは、ぼくが飼っている雄猫で、濃い茶色の毛が自慢だ。五年前に近くの通学路で保護した。三ヶ月ぐらいの子猫だった。お母さんに猛反対されたけど、おばあちゃんの応援で飼えることになった。それ以来、ダイアンは、家族の大切な一員になった。
「家にいなきゃだめだよ」
ぼくは、慌てて手を伸ばし、ダイアンを抱えようとした。
とつぜん、バン! バリバリ、バン! バン! バン! 近くの広場で爆竹が鳴った。びっくりしたダイアンは、玄関から外へ、跳ねるように飛び出した。
「ダイアン!」
顔中から血の気がサッーと引いた。嫌がるからとダイアンに首輪をしてなかった。もし知らない人に捕まったら、なにをされるかわからない。
外はとっくに日が暮れていた。ぼくは慌てて玄関に鍵をかけ、急いでダイアンを追った。
「ダイアン! ダイアン!」
茂みや芝生のU字溝の中、広場のベンチ、駐車した車の下、大きな花壇まで、隅から隅を捜したけど見つからない。
「ダイアン、どこにいるの!」
滝のように汗が流れ、目にしみる。短い袖を、ひっぱり汗を拭う。
「大輝くん!」
ぼくは卒倒しそうになった。クラスで問題児の藤見くんだった。
「なにしてるの?」
いきなり質問された。
「これからお祭りを見に行くんだけど」
「誰かと待ち合わせ?」
藤見くんは、探りを入れるように、ぼくの顔や周囲をちらちら見る。
「いや、ぼく一人さ」
ぼくは、真顔になって身がまえた。
「ふうーん」
藤見くんは、ヘビのような目つきになる。
そのとき、近くの車から「帰るわよ。早く来なさい」藤見くんのお母さんの声がした。
「じゃ、さいなら」
藤見くんは、意地の悪い笑みを浮かべ、走り去った。
「変なやつ」
ホッとため息をつく。額にいやな汗が滲んでいた。
ぼくはTシャツの裾をめくり上げ、顔の汗を拭く。おヘソが丸見えだ。
「大輝くん!」
背中をバシッと叩かれた。
「わぁ!」
びっくりしたぼくは、猫のように垂直ジャンプしそうになった。
「もう、いつも大げさなんだから」
「花織ちゃん!」
「汗びっしょり。何して遊んでたの?」
花織ちゃんは笑いながら、ぼくのおヘソをちらちら見る。
「ああ、いや、うん、だから」
ぼくは赤面し、意味不明な声を発しながら、慌ててシャツを下ろした。
「大輝くんのお家に行ったら、お母さんが祭りに行ったって、教えてくれたの」
「今から行こうと思ってたんだ」
「じゃ行きましょう」
心地よい夜風が吹く。花織ちゃんのピンクの色をした浴衣の袖がひらひら揺れる。
「実はダイアンが逃げ出したんだ」
ぼくは花織ちゃんに思い切って打ち明けた。
「え──っ」
「知らないうちに、玄関まで着いてきて」
「そのまま逃げてしまったの?」
「抱きかかえようとしたら、爆竹の音にビックリして、飛び出してしまったんだ」
「きっと田代くんたちよ。さっき見たの。広場で爆竹鳴らして、下級生が泣くのを笑ってた。大久保くんや小林くんも一緒だったわ」
「あいつらだったのか」
「あたしムカッとして、爆竹やめさせようと思ってたら、先に下級生の親たちがやってきて、田代くんたち慌てて逃げて行った」
「あいつら、人の迷惑考えないのかな?」
「きっと親も親なんだと思うわ」
「だね」
「あたしも一緒にダイアンを捜すわ」
「ありがとう!」
ぼくらは近場をくまなく捜した。広場、駐輪場、道路に駐車している車は特に念入りに調べた。タイヤの陰、特にタイヤと泥よけの隙間が気になる。音におびえ、小さくなって隠れているかもしれない。もし車が動き始めたらダイアンが危険だ。
「ところでさっき藤見くんを見かけたの」
「え、まだいた?」
「ダイアンが悪戯されてないといいけど」
「そんな怖いこというなよ」
「でもね、青井ちゃんの白猫、藤見くんに捕まって、顔にマジックで落書きされたって」
「そんな酷いことを」
「青井ちゃん、泣いてたわ」
「藤見くんが猫を袋詰めにした事件もあったね」
ぼくの胸は不安でいっぱいになった。
その時、近くの紫陽花の花壇から、「ニャ──、ニャ──」聞き覚えがある、猫の鳴き声がした。
「ダイアン」
ぼくらは顔を見合わせ、二人で花壇の中を覗き込んだ。
「ダイアン、ダイアン」
暗がりに光る二つの目。猫がいるのは確かだ。
「きっとそうよ」
花織ちゃんがぼくをそっと手招きする。
雲が切れ、満月の光が花壇の奥に差し込む。濃い茶色の毛がはっきり浮かぶ。
「ダイアン!」
ぼくは枝葉を分け、ダイアンを両手で抱きかかえようとした。
ところが、今度は、ロケット花火の、ヒュ──バン、という破裂音がした。
ダイアンはびっくりし、ぼくの手をすり抜け、もの凄い早さで東の方へ走っていった。
「ダイアン!」
ぼくと花織ちゃんは、すぐにダイアンを追った。
「ダイアン!」
ダイアンが逃げこんだのは、ぼくたちが住んでいる住宅地から道路を隔てたところにある溜め池だった。小さな森に囲まれたその池は、夜になるとほとんど真っ暗で、何も見えない。ところが満月の夜になると、まん丸い池が、鏡のように輝くことろから、地元では鏡池と呼ばれていた。その鏡池から柵一つ隔てたところに、ブランコと砂場だけの小さな遊び場があって、街灯で明るいのはそこだけだ。
「鏡池の森に逃げ込んだ」
「捜しましょう」
「うん」
ぼくと花織ちゃんは月明かりを頼りに森の中を捜し、池の辺をぐるりと一周した。
「きっと怯えて、ちぢこまっているんだ」
「小さな穴とかに隠れてるかも」
「うん」
ぼくらはそれから二十分ほど探し回った。けれど、ダイアンを発見できなかった。
「ちょっと休憩しよう」
「そうね」
ぼくと花織ちゃんは、ブランコのところに行き、二人並んで腰掛けた。
二人とも汗とほこりにまみれ、着ている物はどろどろだった。
交互にブランコを揺らす。おでこや頬がひんやり心地よい。
「あっ」
花織ちゃんが近くのベンチを指さした。
光る二つの目玉が、ぼくらをじっと見ている。
「ダイアンだ!」
ぼくはブランコから飛びおり、静かにベンチに近づいた。
花織ちゃんはブランコに腰掛けたまま、ぼくを見守っている。
「ダイアン」
ぼくは手招きする。
「ダイアン、こっちにおいで」
するとダイアンが、ゆっくりベンチの下から出てきて、ぼくの靴に頬ずりした。
「ダイアン」
ぼくはダイアンを抱きかかえ、花織ちゃんに親指を立てて合図した。
「よかったね」
花織ちゃんがブランコのところから、親指でサインを返す。
「ありがとう!」
ダイアンの頭を撫でながら、ぼくは花織ちゃんに笑顔を見せた。
その時だった。ドンと大きな地響きがして、地面が回転するように、グラッと大きく揺れた。
地震だ……
街灯がサッと消え、とたんに辺りが真っ暗になった。
ぼくはダイアンを強く抱きしめ、足をふんばった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます