心がくるしい

 翌朝、目が覚めると、頭の血がスーッと引いた。

(花織ちゃんを置き去りにして、ぼくは眠ってしまった)

 

 酷い頭痛と吐き気がする。よろめきながらリビングを覗く。

 お父さんは仕事に出かけ、お母さんは誰かと電話で長話をしていた。

 

 ダイアンは、毛繕いをしながら、体調を崩したおばあちゃんのそばにいる。

(病気のおばあちゃんに心配をかけられない。お母さんに相談したら、きっとお父さんにいう。そしたら、また、お父さんとお母さんが大喧嘩して──もう、うんざりだ。ぼく一人で花織ちゃんを助ける)

 

 ぼくは部屋に戻り、窓をそっと開け、庭にしのび出た。

 

 網戸越しにダイアンと目があう。

 ダイアンが網戸に爪を立てて引っ掻いた。

(やばい。おばあちゃんが起きてしまう)

 

 ぼくは、忍者のように背を屈め、素早く庭を横切った。それからブロック塀を乗り越えて、脇目も振らず公園に向かった。

 

 鏡池に着くと、パトカーや消防車の赤ランプが、目眩がするほどたくさん回っていて、周囲は黄色と黒のロープで立ち入り禁止となっていた。

 

 空を旋回するヘリコプターのバタバタする音が、頭を叩き、お腹にズンズンひびく。


「誰かが警察に通報したんだ」

(花織ちゃん、助かったかもしれない)

 心に微かな光が射し込む。

 

 入り口に近づいた。人だかりで中の様子がわからない。つま先立ってみたけれど、大人たちの広い背中や、でかいお尻が邪魔で何も見えない。


(反対側に行こう。あっちなら、穴の様子がわかるかも)

 すぐに入り口から離れ、池の西側の森へ行った。


(警備員がいない。今だ!)

 ぼくは、素早くロープを潜り、小さな森をかけ、池の辺に立った。


「ブランコも砂場も無い……」

 地面にぽっかり空いた穴は、昨夜の三倍以上の大きさになっている。しかも、今にも池まで呑みこんでしまいそうだった。


(穴があんなに大きくなっている)

 背筋が凍り付いた。


「ここは立ち入り禁止だよ」

 不意に肩を叩かれ、心臓が止まりそうになった。

 見上げると警備のおじさんだった。


「は、はい」

 ぼくは腕を引かれ、鏡池の森から追い出されてしまった。


 花織ちゃんのスマホに電話やメールをしてみたけど、壊れてしまったのか圏外で返事はなかった。結局、ぼくは、夕方まで、飲まず食わずで、鏡池の周囲をうろうろした。


「きっとレスキュー隊が花織ちゃんを助けてくれる」

 ぼくは、無力感から、都合の良いように、自分にいい訳した。


 帰宅してすぐに部屋に閉じこもった。花織ちゃんのことが心配で何も食べる気がしない。

 

 勇気を出して、お父さんに花織ちゃんのことを相談しようと思った。だけどお父さんは、なかなか帰ってこなくて、お母さんは、おばあちゃんの介護で忙しそうだ。

 

 待っているうち、よけいなことばかり考えてしまう。


(お父さんに正直に話したら、きっと怒鳴られる。ゲンコツで叩かれる。そしたら、また、お母さんと喧嘩する。もし、花織ちゃんに万が一の事があったら、ああ、やっぱりお母さんに相談したほうが、でも、いま、相談したら、お母さんはパニクって、きっとおばあちゃんに話してしまいそうだ。そしたらおばあちゃんの病気が悪化するに違いない)


「どうすればいいんだろう」

 ぼくは布団に潜り、ダンゴムシのように丸まった。


「大輝、大輝」

 体が揺さぶられた。お母さんの声がした。夜の八時を過ぎていた。


「花織ちゃんのお父さんとお母さんが来てるわよ」

 心臓が破裂しそうになった。


「花織ちゃん、昨夜から帰ってないんだって」

 お母さんに腕を引っ張られ、リビングに行くと、花織ちゃんのお父さんとお母さんが、ソファに腰掛けていた。


「大輝くん、お休みのところごめんね」

 花織ちゃんのお父さんがぼくに微笑んだ。

 ぼくはやましさから、思わず目をそらし、俯いた。


「大輝くん、昨夜、花織を見かけなかったかい?」


「見ないです」

 ぼくは、事件の重大さから怖じ気づき、とっさに嘘をついてしまった。


「青井ちゃんも滋くんも昨夜は家に居たらしく、祭りを見にいった大輝くんなら、花織のことを見かけたかなと思って」


「……」

 黙ってうつむいていると、


「大輝、お祭り広場で花織ちゃんと会わなかったの? 昨晩、花織ちゃん、わざわざ家に立ち寄ってくれたのよ」

 お母さんが、ぼくの顔を覗き込む。


「ダイアンを捜してたから、お祭り広場に行ってない」

 もう、引っ込みがつかなくなってしまった。


「大輝くん、ごめんな。花織と仲良しだから、一緒だったんじゃないかと思って」

 花織ちゃんのお父さんが、ゴツゴツした手でぼくの頭を撫でた。


「大輝くん、ごめんね。寝ているところをおこしてしまって」

 花織ちゃんのお母さんは、涙をこらえるように顔を固くし、唇を小刻みに動かした。


「行こう。警察に捜索願いは出している。花織は必ず元気に帰ってくるさ」

 花織ちゃんのお父さんが立ちかけると、


「きっと昨夜の大穴に落ちてしまったのよ!」

 花織ちゃんのお母さんが、ワッと泣き崩れた。


「まさか。夜、一人であんな所に行くわけないだろう」


「でも、藤見さんの坊ちゃんが、花織に似た子が誰かと鏡池の方に行くのを見たって」


「人違いかもしれないし、だいいち、あそこの坊ちゃんは、少し変わっていると、もっぱらの噂じゃないか。それにレスキュー隊が穴の中を捜索してくれているから、もし穴に落ちたのなら必ず助け出してくれる」

 泣き続けるおばさんの肩を、おじさんがそっと抱いた。

 

 ぼくは、心が苦しくて、その場にいたたまれなくなった。


「花織ちゃん、きっと元気に帰ってきますよ」

 お母さんが花織ちゃんのお母さんの手をとり、慰める。


(──どうして正直にいえない。勇気を出すんだ──)


 いつの間に帰ったのか、花織ちゃんの両親の姿がリビングから消えていた。

 ぼくは、一人、取り残されていた。


 玄関からお母さんの二人を見送る声がする。


 音もなくダイアンが寄ってきて、ぼくの足に頬を擦りつける。


「あの時おまえが逃げたから、こんなことになったんだ」

 ぼくは、ダイアンを恨めしく思い、にらみつけた。ところがダイアンは、ぼくのことなんかおかまいなしに、そっぽを向き、後ろ足で耳の裏を掻きはじめた。

 

 バタンと、玄関のドアを閉める音がひびく。お母さんの足音が近づいてくる。


(お母さんと顔を合わせたくない)


 ぼくは慌ててリビングを出て、自分の部屋に閉じこもった。 


〈必ず。必ず、戻ってね〉

 花織ちゃんの声が耳にひびく。胸が激しく痛む。

 ぼくは頭から布団をかぶって耳を塞ぎ、膝の間に顔を埋めた。

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