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 真壁がタクシーを飛び乗って新宿の京王プラザに着いたのは、午前1時近い時刻だった。20階のエレベーターホールは所轄の新宿西署から出てきた捜査員や鑑識の他に、すでに十係が全員集まっていた。

「お探しの人物ですか」

 新宿西署の誰かが声をかけたが、誰も応えなかった。

 真壁が部屋に入る。天井に取り付けられた照明から、新條博巳の身体がゆらりと宙に浮いていた。革ベルトを首に巻きつけていた。縊死による自殺だった。

「出入り口と窓は全部閉まってる」杉村が言った。「遺書付きだ」

 杉村から手渡された紙にはPCで打ち込んだらしい、『ご迷惑をおかけしました』という一文しかなかった。遺書は十係の間で回された。無言の桜井が床を一発蹴りつけ、田淵は唾を吐き、吉岡は眉根に皺を寄せて眼を逸らせていた。

 腹に一物あるらしい馬場は口許を険しく歪めて、真壁をちらりと見た。真壁はそれを無視して、清宮を眼で探す。清宮は同僚からちょっと離れたところに立っていた。憮然とした顔だった。

「鑑識、どうぞ」

 開渡係長の一声で十係は引き下がった。鑑識がフラッシュを飛ばし始める。その場を離れた馬場は清宮の方へ踏み出した。

「さあ、どういうことか説明してもらおうか」

 清宮が眼をむいた。

「私のせいだというんですか」

 どちらも、外野には届かない低い声だった。発見時の張り込みを担当していた清宮と新條を精神的に追い込んだ馬場。2人の失点だった。双方の手が動く前に「場外乱闘ならホテルの外でやってこい」という開渡係長の一言でケリが付いた。

 新條博巳の自殺に、何ら特異な点は見つからなかった。重要参考人が自殺してしまった以上、警察は出てきた事実と前後の状況で判断するしかなかった。

 レジデンス子安町302号室から新條の指紋が出たことから、新條が三橋英里の部屋を出入りしていた可能性はあった。事件当夜、新條と梁瀬の両名が訪ねたのは302号室だったことを裏付ける物証ではないが、状況証拠ではある。

 そこまで推理が進めば、十係の脳裏にひらめく思いは一つだった。杉村が本庁の鑑識を拝み倒して出動してもらい、久我山の新條博巳宅を徹底的に洗い直した。

 十係の面々が家から出ると密かに期待したのは、ガイ者の血液だった。頭で点滅していたのは男女の性交よりも、ガイ者の頭を殴りつけた凶行のその漠然とした映像だった。つもりつもった何かの思いの爆発。人けのない路上でホシが狂ったように振りかざした《一部に凹凸があり、かなりの重量のある棒状の鈍器》。

 鑑識の作業は一時間ほど続いた。家の部屋という部屋の開口部を黒い布で覆い、照明を落として真っ暗にする。ルミノール溶液を吹きつける。最初に駐車場の床が1か所、青い燐光を発した。続いて、車のリアバンパーの付近に2か所。トランクの中に入っていたゴルフバッグのジッパー部分。最後は五番アイアンのヘッドだった。

 それから2時間ほど後に、採取された血液は梁瀬陽彦のものと判定された。

 推測すればこういうことになる。

 新條はレジデンス子安町に向かう途中、梁瀬を見かけて尾行した。梁瀬が302号室に入っていく姿を確認した後、近くの路上で梁瀬を待ち伏せした。午後11時過ぎ、梁瀬がマンションを出た。新條は持っていたアイアンで梁瀬を殴りつけ、その足で南へ逃走した。四つ角の北西に建つ家で、このときの叫び声を聞いた住人が靴音の片方は南に走ったと証言している。

 しかし事件の真相解明という点では、分からない事項は多い。そもそも梁瀬陽彦と三橋英理はいつ、どこで知り合ったのか。いつから二人は関係を持っていたのか。同じ疑問はそのまま新條博已と三橋英里の関係にも当てはまる。

 また、事件直後の警察の聞き込みに対して三橋英理は偽証したことになるが、これは三橋自身の判断なのか。なぜ偽証したのか。おそらく答えを得る術はないだろう。

 三橋英理も依然として見つかっていなかったが、Nシステムから新條博已の車の走行記録を調べていた吉岡の報告でいくつか分かった事実はあった。

 新條は4月15日の夜、三橋のマンション近くで交通事故を起こした。その日、新條の車は事故の後に奥多摩市に向かう一本道を走行し、数時間後に同じ道を戻って久我山の自宅に帰っていた。おそらく新條は三橋英理を殺害し、奥多摩の山中に遺体を捨てたのではないか。しかし手をかけたと思われる新條が自殺してしまったとなれば、真相や殺害動機は永遠に謎のままだった。

 梁瀬陽彦殺害事件の実像は何も分からぬまま、被疑者死亡で書類送検された。

 十係は白けた顔で「めでたいことだ」と呟き合った。

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