[30]

 真壁は熱い湯をはった湯船に身体を横たえた。疲れきった心身の緊張が少しずつ緩んでいく。両手で湯をすくって顔を洗う。真壁は思わず吐息をもらした。ブラシでシェービングクリームを泡立てている奈緒子を見る。

《どうしてこんなことになったんだろう》

 真壁はぼんやりとそんなことを思った。

 夜の捜査会議を終えて、大井町の自宅に帰りついたのは数時間前のことだった。ふと数日ぶりに6階建てのマンションを見上げる。5階の自室に明かりが付いていた。部屋を出た時は消したはずだった。慌てて階段を駆け上がって部屋に飛び込む。奈緒子が和室でアルバムをめくりながら寝そべっていた。

「お帰り」奈緒子が言った。

「た、ただいま・・・」

 他人の部屋に勝手に入っておきながら、こうして部屋の主と顔を突き合わせて出てくる第一声が「お帰り」とは。真壁は不意に幼馴染を怒鳴りつける気力を失った。和室の入り口に腰を下ろし、真壁はどうやって部屋に入ったのかだけ聞いた。

 品川の居酒屋で飲んでいた奈緒子は自宅に帰るのが面倒になってこのマンションに立ち寄ることにした。以前に真壁が渡した名刺に書かれていた住所を頼りにマンションには着いたが、鍵が開いていなかったので管理人から合鍵を受け取ったらしい。

「お風呂沸かしてるから、入ったら?」

 奈緒子は自分の顎をつついて言った。

「髭、剃ってあげる」

 湯船のへりに奈緒子が腰を下ろした。髭が生えている顎や首の辺りにブラシで白い細かな泡を塗りつけ、真壁が使っている剃刀を取り出した。

「床屋さんの剃刀、使ってるの?」

「それが一番よく剃れるんだよ」

「ふぅん。さぁ、やるわよ。動かないでね」

 奈緒子は右の頬に手を当てる。耳の下からそっと剃刀を滑らせる。白い泡が削り取られ、そこから覗いた皮膚がなめらかに光って見えた。顔に覆いかぶさるようにして、奈緒子はうっすら伸びた髭を剃り落とす。顎の向きを変え、反らした喉に手を添える。濡らしたタオルで何度も剃刀の刃先を拭いながら、つるりとした肌が少しずつ露わになる。奈緒子は満足そうに眼を細めている。

 真壁は眼を閉じる。脳裏で靄になっているものがあった。老人を殺したかも知れない女子高生の顔ではない。不安と脅えと沈黙に満ちたどこかの暗い家庭の姿だ。

 それは大部分、根拠も必然もない手前勝手な想像ではあった。家族一人ひとりの苦悩の息づかいが聞こえてくる。いろいろな問題が露わになり、危機に瀕している家庭が1つ。

 真壁はふと、今はない自分の家のことを考えた。

 中学生の頃、自分の顔貌が両親のどちらにも似ていないことに気づいた。ニキビを気にして鏡をよく見るようになったからだった。両親に本当のことを問い詰めるようなことはしなかった。本当のことを知るのが恐かったのかもしれない。もし知ってしまったら、家を出て行かなくてはならないのかと考えたりもした。

 出生にまつわる話を告知されたのは、高校を卒業した年の春だった。お前が三歳になるかならないかの時に、児童養護施設から引き取った。隠していたわけじゃない。今まで言い出せず、今日までずるずると伸びてしまったんだ。里父は呟くように言った。

 里父の水谷義平は新潟県警の外勤警官として30年近く、地域課と交通課を行ったり来たりしていた。職務に対しては忠実だったようだが、家では毎晩酒に酔い、食卓をひっくり返すこともあった。そんな父親がいる複雑な家族関係でも、あの家庭が崩壊しなかったのは里母のおかげだった。真壁はそう思った。高い教養はなくとも、気丈夫で快活だった母親の佐代は清々とした顔でよく笑っていた。それで、あの家庭は救われていた。

 紀子の母親はどういう人物なのだろう。おそらく会う機会もないだろう見知らぬ女性を当てもなくあれこれ思い描きながら、真壁は湯船の中で少しウトウトした。

「マーちゃん、マーちゃん」

「うう、う?」

「終わったよ」

「ありがとう」

「そういえばさ、押入れの中に入ってたアルバムにマーちゃんが山に登ってる写真があったんだけどね」

「俺が山岳部にいた頃の写真だろ」

「その中に俳優さんみたいな、すっごくイケメンな人がいたんだけど!」

「冨樫だな。いつか会わせてやるよ」

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