[19]
4月23日のことだった。
小さな異変の一報が真壁の耳に届いた。その報せは、かねてから事件との関連性なしということで内偵の対象から外されていた世帯の話だった。しかも捜査会議で当該地区の地取り担当から正式に報告が上がってきたというわけではなく、その連れ合いから耳打ちの形で洩れてきた話だった。
夜の捜査会議が退けた後、署の裏口でタバコを吸っていた真壁は声をかけられた。声の主は石塚という機捜の巡査。
清宮の連れ合いである石塚は真壁にこんな話を伝えた。例の6階建てマンションで、新聞受けに新聞が溜まっている世帯があるという。場所は3階の302号室。
石塚から話を聞いた時、真壁はとっさにピンと来なかった。とりあえず「いつから」と尋ねると、「15日から」だという。
302号室は1人暮らし。世帯主の氏名は三橋英里。内偵に入っていない世帯だと思い出し、真壁は尋ねた。
「旅行とか出張と、違うんですか」
「そうかも知れませんが」石塚はタバコに火を点けた。厳しい表情を浮かべている。「私は一昨日の時点で、これは報告すべき事柄だと思ったのですが、お宅の清宮さんが『独身者だから放っとけばいい』と言いました。しかし、新聞がたまり続けてるのは気になりますので、再三報告すべきだと進言したところ、清宮さんは『放っとけ』です」
「それで」
「別に302号室の世帯が怪しいと言ってるわけではありませんが、報告すべき事態を『放っとけ』というのは、怠慢というか職務不履行に当たると思います。そこで、善処願いたいと思い、報告した次第です」
正直なところ、不快さのあまり、真壁は奥歯でタバコの葉を噛み潰していた。口の中にひろがる苦さを数秒こらえて、「で、何が言いたいんですか」と穏やかに尋ねた。
「だから、清宮巡査部長の怠慢は・・・」
「302のその女性、何者です」
「OLです」
「怪しいんですか」
「いえ、そうは言ってません」
思わず「喧嘩売ってるのか」と怒鳴りつけたくなったが、真壁は喉元で怒号をどうにか引っ込める。代わりに「報告ありがとうございます」と応えた。
石塚が喫煙所を出ていった後、真壁はあらためて数秒考えた。本庁の刑事である清宮が事件現場近くで、新聞受けを溢れさせた家を目の当たりにしながら「放っとけ」と連れに言った。ならば、それは本心ではあり得なかった。
反射的に、今日まで梁瀬陽彦のタイムテーブルを作るためにいじくり回してきた数百の関係者の氏名を思い浮かべる。その中に三橋英理の名前を探したが、こんな時に限って記憶がごちゃごちゃになった。
思い出すのを諦めたと同時に、真壁は署の中をうろうろして清宮を探した。しかし、清宮はすでに帰った後だった。今つきあっている資産家の令嬢とのデートに余念のない清宮は夜の捜査会議が退けると、いつもあっという間にいなくなる。
真壁は署を出てタクシーを掴まえた。当のマンションの302号室の様子を自分の眼で確かめるつもりだった。
午後9時前。入り組んだ住宅街の路地に建つマンションは、まだ半分以上の部屋に明かりがなかった。
真壁は6階建てマンション《レジデンス子安町》の下に立った、まず3階のベランダを眺めた。302号室のベランダに洗濯物は無い。カーテンはきちんと閉まっていた。
マンションの玄関を入る時、真壁はちらりと背後を振り向いた。10メートルのところに犯行現場の四つ角があった。被害者が五十数メートル走って倒れた現場も路地の先に見える。即座に《近い》という印象を受けた。
エレベーターの昇降ランプが5階で止まったまま動かないのを確認してから、真壁は階段を3階まで上がった。3階の廊下を進み、玄関ドアの新聞受けから新聞を溢れさせた302号室の前に立つ。電気・ガス・水道のメーターは動いていなかった。冷蔵庫の電気も切っているのか。ドアの隙間に鼻を近づけたが、異臭はない。物音もない。
新聞はたまり過ぎて新聞受けに入らないために、古いものからドア口に放り出してあった。一番古い日付は15日の朝刊。住人は15日未明までに出ていったということだ。郵便はデパートと美容室のダイレクトメールが2通。国民年金の自動振替通知のハガキが1通。ハガキに印刷された「三橋英理」という名前を見ながら、被害者の関係者の中にはそういう名前がなかったことをあらためて思い出す。真壁は少しほっとした。
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