第3章

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 被害者梁瀬陽彦が、事件前に訪ねた人間がいるはずだという十係の読みにも関わらず、該当する家が出てこなかった。所轄と本庁の押し問答が捜査2日目から3日間、会議室で繰り返された。

 馬場が檄を飛ばした。

「《通り魔》という先入観で捜査をやると、出てくるものも出てこない。表の看板は書き換えて下さい」

 六区に分けられている地どり各班は、現場から2キロの範囲にある全世帯をくまなく当たっていた。世帯数こそ千を越えるが、事件当夜の所在の裏付けが取れない不審者の数はごくわずかしかない。その数も他の条件で被害者とのつながりが考えられない者を消していくと、ゼロになってしまった。

 現場の近所の事情に詳しい主婦、新聞や郵便配達その他の聞き込みでも、被害者を見たことがあるという者はもちろん、男が出入りしているような特定の噂のある女性の1人住まい、後家宅、亭主の単身赴任宅などは浮かんでいなかった。もっとも、独身女性のすむマンションや、亭主の帰宅が遅い家は何軒も存在した。今のところ、事件当夜の4月11日の所在や挙動に不審な点がある家はないものの、プライバシーの問題もあって完全に裏付けが取れているわけではなかった。

 捜査会議では独身女性や亭主が留守で子供のいない家の主婦などを俎上にのせては1つ1つナタを振るい、被害者との関係を勘案していった。しかし、これといってめぼしい女性は出てこない。

 被害者が訪ねた人間が存在するはずだが、訪ねた相手が本当に女だったのかどうか、十係の間でもちょっと確信が揺らいだ。被害者の第二発見者である巡査については、田淵が再度確認したところでは発見当時、被害者の髪が濡れていたかどうかは記憶しておらず、アルコールの臭いはなかったと証言している。

 しかし事件当夜、仮に被害者がどこかを訪ねたのでなければ、深夜の住宅街で何をしていたのか。それを説明することが出来ない以上、捜査員たちは近隣の世帯の中に「嘘をついてる奴がいる」という前提に立ち、1軒1軒を何度も調べ続けるほかなかった。一度決めた捜査方針は、それを完全に無効にする新たな事態でも起こらない限り、途中で投げ出すわけにはいかない。

 こうした作業は基本的に、地どりの各班が割り当て区域内から持ち寄ってきた情報に基づいて行っていた。例の6階建てマンションの30世帯については、担当の清宮班からは不審な世帯は1軒も上がってこなかった。独身女性の世帯は5つあったが、いずれも本事件との関わりは認められないという報告だった。

 そのマンションの住人台帳を手に入れたはずの馬場からも、その点については一言の茶々も入らなかった。本当に不審な世帯が1つも無いのか。あるいは清宮が何か隠しているのか。それを知っている馬場がさらに隠しているのか。そんな思いも、ちらりと真壁の脳裏をかすめた。だが、口外する話でもなかった。

 この他、カン捜査では梁瀬の知人・友人・仕事関係者合わせて、二百数十名を1人1人つぶす作業も続いていた。犯人は梁瀬とどこかで必ず接点を持っているはずだった。被害者が過去に何らかのトラブルを抱えていなかったか、一から洗い直す作業だった。しかし、捜査開始から四日経った時点では、著しい進展はなし。

 ところで、4日間に判明したことが一つある。桐谷芽衣の身辺の話だった。

 真壁はすでに2人の少女の観察を打ち切っていた。新條紀子が殺人を犯した事実関係を裏付ける証拠がない以上、三鷹南署に問い合わせる理由がなかった。

 常識で判断すれば、桐谷芽衣と話をする必要はなかった。しかし、すぐに話を蹴ってしまうことが出来なかったのは、ほんの小さな事由による。

 1つは、真壁がカン捜査で渋谷駅を降りた時、桐谷芽衣を見かけたことだった。芽衣は普段なら、新宿で中央線に乗り換えて自宅に帰るはずだった。吉祥寺の自宅に向かうには井の頭線に乗るはずだが、その日は地下鉄への階段を降りて行った。芽衣の後ろ姿を見ながら、真壁は一緒だった桜井に「急用ができた」と断ってその後を追った。

 芽衣は東横線の改札に通るとトイレに入り、制服から私服に着替えた姿が出て来た。そして電車に乗り、自由が丘で降りた。南口から駅を出ると、緑道に面する喫茶店に入って行った。数分後には、ウェイトレスの格好をした芽衣が接客をしていた。

 もう1つは、肝心の清宮。真壁は話の真偽より、清宮が見知らぬ女子高生の話にムキになって乗った事実の方にひっかかるものを感じ続けていた。何か隠しているという思いが胸の内から消えない。

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