[12]
午後10時半、真壁は奈緒子と法医学教室の岡島進助教授と一緒に、東都大学付属旗の台病院近くの居酒屋にいた。奈緒子と日本酒と焼き鳥をつついていた真壁は1日中、春風にさらされて都内を歩き回ったために花粉症にかかったらしく、鼻をぐずぐず鳴らしていた。
眼の前でレバーを頬張っていた奈緒子が言った。
「どうしたの、マーちゃん。食べないの?」
「いや・・・」
「なら、そのネギマもらっていい?」
「お前、よく食うな」
「オペ看の後は、お腹がすくの」
奈緒子は真壁の皿からネギマの串を取って鶏肉を齧り、「ん、おいし」と微笑んだ。思わず眉をひそめた真壁はタバコに火を付けた。開腹手術で人の内臓を存分に見た後に、鶏肉を美味しそうに食べる幼馴染みの品性を少し疑った。
「今日はチョンガ。家内が里帰りで」という理由付きで居酒屋について来た岡島は黙々と熱いおでんを食べながら、奈緒子の隣でテーブルに肘をついて東都日報の夕刊をめくっていたが、急に真壁に声をかける。
「やっぱりおかしいよ。八王子の事件で『通り魔』と判断したのは、誰なの?」
居酒屋で仕事の話は御法度だったから、真壁は低い声で返事した。
「所轄の刑事課長」
「通り魔って言うのもおかしくない?」奈緒子が口をはさんだ。「被害者は37歳の男性なんでしょ?通り魔だったら、もっと狙いやすい・・・子どもとか女性を襲うと思うけど」
「今のところ、被害者には夜道で突然襲われるような理由は見つかってない」
「この被害者は殴られて血をたらしながら、30メートルぐらい走ってる」
岡島は夕刊を開き、記事に添付された地図を示した。
「それだけ走る元気があったら、普通・・・犯人と格闘しない?」奈緒子が言った。
「格闘はあったのかも知れない」
「いや、あの傷だと格闘はしてないなぁ」
「だから・・・?」
「被害者が犯人に対して抵抗も格闘もせずに、ただひたすら逃げたのだとすれば、そうする特別の理由があったのだと考えられる」
「たとえば・・・」
「常識的に考えて突然襲われた時に、何もせずに逃げる理由は2つ」岡島は指を2本立てて見せる。「極端に動転したか、もしくは顔見知り。会っては困る人間だったか」
「しかし・・・ホシが素手では太刀打ちできない凶器を振り回していたら、近寄れないでしょう」
「現に犯人は二度殴っているのだから、2人は格闘できるぐらい接近してたはずだよ。走る元気があれば、抵抗もできる」
「だから?」
「被害者が無抵抗で逃げた理由を考えると、犯人と被害者には互いに不都合な面識があったんじゃないかな。また、犯人は被害者がある時刻にその場所を通ることを知っていたから狙うことが出来たんだよ」
岡島の推理に、奈緒子は眼を丸くする。
「岡島先生、すごーい」
「いやぁ最近、ミステリにハマってて」
実のところ、その時の真壁は箸を取る気も起こらずに伸びた蕎麦を眺めているような怠惰な気持ちだった。事件から立ってくる臭いが、ますます自分が一番苦手とする臭いだと感じていたせいだ。
棒状の鈍器で2回殴りつけるという、ホシの不細工な襲い方にしても、女に絡んで感情的になっていたとすればなおさら説明がつく。日夜、寝不足と低血圧と格闘しながら、血なまこになって街を這いずり回り、解明しようとしている事件の真相に大した理由など相応にして無いのが実情だ。
真壁はタバコを灰皿に押しつぶした。奈緒子が微笑みながら首を傾げた。
「これくらいの事件、マーちゃんになら、すぐにでもわかるものじゃないの」
「いや・・・」
「現場に立ってないんでしょう」岡島が言った。「被害者が倒れたままの生の状態の現場に立って、事件の臭いを嗅ぐ。そうした臭いを感じて初めて、被害者の声無き声に耳をすますことが出来る。あなたはそういう人でしょう、真壁刑事」
真壁は思わず苦笑を浮かべた。
「そう言えば、ファイルは届きました?」
「うん、届いてたよ」岡島がうなづく。
「何しろ、今年の2月にあった件なんで、遺体も無いですがよろしくお願いします」
奈緒子が「何のファイル?」と口をはさむ。
「一酸化中毒による死亡事故のな」
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