[10]

 真壁は署の裏口にある喫煙所に立ち、タバコを吹かしていた。被害者のカン捜査で組むことになった桜井も傍らで、紫煙をくゆらせている。

 いつも通り被害者の顔や現場の鑑識写真を自動的に頭に並べ、真壁は未だ何ひとつ形にならない事件の捜査に端緒を得ようとした。しかし、連日繰り返してきた脳の回転が今回はいくらか鈍いのを感じていた。

 桜井がタバコを灰皿に押し潰し、小指を曲げて囁いた。

「ガイ者が会ってたのコレだぜ、コレ」

 真壁は訝しげな表情を顔に浮かべた。

「女、ですか?根拠は?」

 桜井は隠微な顔つきで、根拠を列挙してみせた。その指先はどこかのホステスから贈られたイタリア製のネクタイを弄り回している。

「ガイ者の顔。生活環境。自宅から離れた現場。服装。さっきの会議で、清宮が病院でガイ者の身体を洗ったかどうか気にしていたのも、性交の痕跡の有無を確認したんだ。すなわち、女」

 もっとも仮に事件前に性交があったとしても、被害者はその後でシャワーか風呂を浴びただろうから、身体には何も残っていなかっただろう。そこまで考えた途端、真壁は急に脳のエンジンが掛かりだしたのを感じた。捜査会議の席上、十係の同僚である田淵が11日の深夜に第二発見者の巡査が現場に到着した時、被害者の頭髪が湿っていたかどうか確認していた。田淵も女の影を感じ取っていたからだった。

「この辺に、梁瀬の女がいるという話は出て来てないんですが」

「人目をはばかるような関係なんだろうよ」

 市井ならどこにでも転がっている話だった。桜井はガイ者の顔写真を見ただけで、その点を見抜いたという。桜井の思考にいまひとつ付いて行けない真壁は、これが経験の差か刑事の勘なんだろうかと考えてみる。

「女の場所は、すでに馬場さんが目星つけてんだろうしな」

「主任が?」

「刑事課長と話してるのが聞こえた。清宮が気にした四丁目十八番の例のマンションの住民台帳を、署に調べさせてる」

 地獄耳にかけては、桜井も馬場に劣らない。ことさら本庁の捜査一課に名を連ねる刑事たちは「俺が俺が」のムラ社会に身を置いている。割り込み、抜け駆けは誰でもお手の物。馬場に関して言えば、時おり同じ係の人間であっても心の内では敵とみなしているところがある。真壁はそう思った。

「さあ、女の臭いがなかったかどうか病院を当たってみるか」桜井が言った。

「はあ・・・」

 真壁と桜井は被害者の救急治療をした病院へ立ち寄った。

 病院では搬入された瀕死の重傷患者を診た医師と看護婦たちに聞き込みを行ったが、開頭手術の執刀をした医師と助手の2人が、患者の髪に「整髪料が多めについていた」と証言したほかは、めぼしい収穫はなかった。手術が始まったのは午前0時5分ごろ。仮に1時間以上前に被害者が洗髪をしていたとしても、もう乾きかけていたかも知れないし、洗髪後にドライヤーで乾かして整髪料をたっぷりつけたのなら、それなりに湿っていたかも知れない。あるいは、洗髪はせずに整髪料を多めにつけていたのかも知れない。いずれにしろ、事件発生直前に洗髪したという裏付けは得られなかった。

 また、救急病院では手術のために急いで上半身のみアルコール消毒をし、その他は特に手を触れなかったらしい。死亡後の監察医による検屍時の外表検査では、遺体に他人の体毛や体液、皮膚片などの付着はなかったとのことだった。

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