第2章

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 4月13日、真壁は富樫と携帯端末で話しながら、朝8時過ぎの警視庁6階の廊下を歩いていた。半開きになった捜査一課のドアからはすでにタバコやコーヒー、整髪料の臭いが漂い、ざわざわと騒々しい刑事たちの声が響く。

「東都日報・・・『七社会』でもいい。桐谷という名前のサツ回りをしていた記者を知らないか?」

「桐谷勲さんのことかな、ウチの社会部にいた」

「何年前?」

「ぼくが本社の社会部に入ったぐらいの頃だから・・・三年前だね」

 3年前は、清宮は町田署の刑事課にいたことが分かっている。

「なぁ、奥さんには俺の事、何て話してる?刑事だって話してるのか」

「大学時代の友人。公務員。そんなとこかな。刑事だなんて言ったら、お前のことなおさら怖がっちゃうよ」

 真壁は礼を言って通話を切り、捜査一課の大部屋の前で脚を止めた。

 在庁番の捜査員たちが神棚に手を合わせ、在庁開きの最中だった。それが終わるのを見計らって、真壁は部屋に入った。開渡係長は何も言わなかったが、捜査一課長室に向かう管理官が冷たい視線を投げてきた。それを受け流し、自分のデスクに座った。神棚に手を合わせないのは宗教上の理由からだったが、捜査一課の因習に対しては心のどこかで馴染めないというのが本音だった。神頼みで犯人が捕まるなら刑事ほど楽な仕事はない。

 机の上に眼を落とすと、A4サイズの封筒が2つ置かれていた。1つは三鷹南署の段田から送られてきた調書一式。もう1つの封筒には「目撃ジャパ~ン!」という週刊誌の名前が書かれていた。真壁は思わず眉をひそめ、新宿西署にいた頃に知り合った情報屋の冴えない顔つきが脳裏に浮かび上がった。

 初台の小さな出版社に勤める情報屋に、紀子の父親である新條博巳の身辺を探るように依頼しておいたのだった。大抵はカップ酒を手離さず、酔っ払っては歌舞伎町の道端で寝転がっているような男だが、調査資料はよく書けていた。ジャーナリストくずれを自称するだけに、割と優秀なのかもしれないと思ってみた。

 資料のうち、真壁が興味を持ったのは、新條博巳がひどく教育熱心だという記述だった。娘の紀子が通っている学校は私立の名門だが、父親の博巳はしばしば学校の授業内容について紀子の担任に対して不満を口にしているという。予備校へ通う紀子の青白い顔を思い浮かべて、真壁はなんとなく納得出来るような気がした。

 全国弁護士名鑑のコピーと思われる新條博巳の写真は粒子が少し荒かったが、平板で特徴のない四十男の顔を映し出していた。いつだったか弁護士や検事を取材した後、富樫が「法曹家っていうのは、まるで無機物の眼をしてる。お前が法学部にいたのが未だに信じられないよ」と呟いていたが、新條の眼も似たような感触だった。

 記載によれば、新條博巳は二浪して国立の帝都大を出ている。国家公務員Ⅰ種試験は落第したが、大学卒業から3年後に司法試験に合格。現在は神宮前六丁目に事務所を開いている。紀子の母親は名門の女子大出身で、現役の高校教師。

 想像の先走りを退けても、見えてくるものは靄のように曖昧だった。子どもが外で見せる顔が往々にしてその家庭を映しているという一般的な常識に立てば、この新條の家庭の内側はどんなものだろう。

 課長室から戻ってきた管理官の秦野警視が「おい」と開渡係長へ顎をしゃくった。

「八王子東の例の件、機捜と交替だ。九時に捜査本部を立てる。出番だ」

「・・・だ、そうだ」

 今度は開渡係長が、真壁に顎をしゃくった。

 真壁は読みかけの資料をたたみ、近くで将棋を打っている第二特殊犯捜査班の捜査員に「呼出し、やっといて下さい」と声をかける。係長に続いて大部屋を飛び出し、背後で誰かが「好き放題してやがって」と囁いているのが聞こえた。

 内堀通りに出て、2人はタクシーに乗り込んだ。車内で事件の話は出来ないから、開渡係長が手帳を開いてさっとメモを書き、それを破いて真壁に手渡した。メモによると、事件の方はこうだった。

 事件発生は一昨日、4月11日。現場は八王子市子安町四丁目。深夜の路地で顔や頭から血を流した男が一人、「助けてくれ」と叫びながら数十メートル走ってきたところで倒れた。男は近所の住人の通報で駆けつけた救急車で病院に運ばれたが、意識が回復しないまま昨日の午後に死亡が確認された。一昨日の事件発生後、すぐに所轄の八王子東署や機動捜査隊から捜査員が出て付近を捜索したが、すぐに足がつくだろうと予想したホシは捕まらなかった。犯行の動機も状況も不明のまま、被害者が死亡したために結局、捜査本部の設置となったのだった。

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