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 正直なところ、真壁はしばらくその話を忘れてしまっていた。

 4月8日の午後、本庁6階にある捜査一課の大部屋にいた真壁は、デスクで書類整理をしていた。十係は在庁番だったが、係長と真壁の他に同僚の姿はない。

 警視庁捜査一課には殺人犯捜査一係から十四係、そして特殊犯捜査一係から三係までの計17の殺人班がある。それらのうち、事件を抱えていない係がローテーションを組み、新しい事件が発生した場合にそれに担当する。ローテーションのトップにある係は「表在庁」と呼ばれ、9時から5時まで本庁に出勤する。二番目の係が「裏在庁」で、刑事たちは各自自宅待機する。三番目以降の係も自宅待機だが、実質的には非番である。最近は事件を抱えていない係が3つ以上もあることはまず無い。

 表在庁は5日から1週間ほどで終わり、ローテーションの次の係に交代する。今日は5日交替勤務の4日目で、真壁が所属する十係の表在庁は明日で終わる予定だった。そういう時に限って、第四強行犯捜査担当の管理官の秦野警視が開渡係長を呼び寄せる。どうせろくな話ではないと思っていたら、秦野は「清宮が・・・」と言い出した。秦野の話はこうだった。

 武蔵野東署の署長から本庁の捜査一課長あてに電話があり、ある市民から出された清宮祐希に対する告発状を、署が受理したという。告発人は新條博巳という人物で、告発の事由は、清宮が数回自宅周辺をうろつき、近隣各戸に対して聞き込みを行い、個人生活を著しく不当に侵害した、というものらしかった。

 事情を全く知らない開渡係長は口をあんぐりさせたが、真壁はピンと来るものがあった。即座にデスクの電話を取り、武蔵野東署の番号を押した。告発を受理した担当者を探し出すと、その者から地検の担当検事の名を聞き出し、今度は地検に電話を入れた。

「清宮祐希の告発の件ですが。調べは構いませんが、ちょっと時間を下さい。こっちでも調べますから」

 余程のことでもない限り、まともな検事なら不起訴処分にするのは分かっていたが、真壁はとりあえず念を押しておいた。受話器を降ろすと、真壁は清宮の話を思い返して少し考えてみたが、雲を掴むような感じで不快さだけが残った。

 肝心の清宮を掴まえ、あらためて話を聞いたのは、その日の夜だった。本庁の会議室に真壁と清宮、開渡係長の他に、主任の杉村が顔を出した。こそこそと刑事が4人も面をそろえると、むさくるしさもこれ極まれりだ。

 会議室に入って来るなり、杉村は真壁に紙袋を手渡してきた。受け取ると、紙袋はかなり重い。日中はほとんどパチンコ屋に入りびたっている杉村はたまに勝つと、景品を気まぐれに係の同僚にくれるという奇癖があった。

「さて、女子高生がどうした、え?」

 まず杉村が口火を切った。木で鼻をくくったような言い方だ。何か問題が起こると、一言いわずにはすまない性根が覗いている。

「気になるから、ちょっと調べてるだけだ」

 清宮は素っ気ない口調で、話し始めた。話を聞く限りでは、告発されているような『近隣の聞き込み』は、とりあえずしていない様子だ。清宮を告発した新條博巳というのは、清宮に接触した桐谷芽衣が言っていた同級生、新條紀子の父親らしい。

「例の2月下旬にあったという老人の孤独死。これは新聞に出てるのを確認した。死亡したのは宮藤研作、67歳。第一発見者はアパートの管理会社の男性。1階に住む大家が家賃の未払いと、新聞受けに新聞がたまっているのを不審に思って、連絡したらしい。管理会社の男性が合鍵で部屋に入ると、宮藤さんが布団の中でうつぶせになって死亡してたのを発見したと、記事に書いてある」

 杉村は顔をしかめ、真壁と顔を見合わせた。

「新條博巳というのは、どんな人物です?」真壁が言った。

「人権派の弁護士」

「それで?」杉村が言った。

「消防と警察の正式の書類を見てないから、正確には分からないが、宮藤は部屋の窓を閉め切って、石油ストーブに火を付けたまま寝てしまったらしい。アパートは築年数の長い木造だから、冬は寒さがきついんだろう。不完全燃焼で臭いも出たはずだが、独り暮らしだから気づかずそのまま寝入って、長時間に渡って一酸化炭素を吸って中毒死。事件性の疑いはなしということで、死体の解剖はされなかった」

「それで」

「それで、って・・・」

「お前がなぜその話に首を突っ込むのか、それから聞かせてくれ」

 清宮はしばらく黙った後、ただ簡潔に「殺人なら、事件だ」と答えた。

「そんなことは尋ねてない。まず確かめたいのは、お前がその桐谷芽衣という初対面の女子高生の話に乗った理由だ」

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