第1章

[1]

 話は1か月前に始まった。

 花冷えでみぞれが降りかけていた4月2日、真壁たち警視庁捜査一課十係はようやく深川北署の特捜本部から解放された。マンションの自室で若いOLが、背中をメッタ刺しにされた姿で発見された事件だった。目撃証言と血液型から被疑者を割り出し、その日の夜にやっとのことで自白させ、被疑者送致へこぎつけたのだった。

 今年は年始からひっきりなしに事件に駆り出されて、愚痴をこぼす暇もない程だったが、それでも事件がひとつ片付けば嬉しく思える。署を出た途端、桜井章が「飲もう」と騒ぎ出したので結局、胃腸の弱い開渡係長を除いた係の面々で錦糸町の居酒屋へそろって繰り出した。

 日ごろ何かとうるさい十係の宴は例によって、いい歳した男たちがよってたかっての猥談パーティだった。

 頭上を飛び交う卑猥な言葉の下で、真壁は清宮からタバコをせびられていた。普段、清宮は身なりや口臭に気を遣い、服に匂いがつくからという理由でタバコを嫌がっていたはずだった。真壁は奇異に思いながら、タバコ1本を清宮に差し出し、マッチで火を点けた。

 清宮はひとしきり紫煙をふかし、苦笑いを浮かべる。

「お前、キツイの吸ってるな」

「清宮さんもタバコを吸うとは知りませんでした」真壁は言った。

「たまにな」

 それから、清宮はぼそぼそと話しかけてきた。

「朝、駅で知らない女の子に声をかけられたんだ。歳は16ぐらいかな。ホームで電車を待ってたんだが、俺の方をじっと見てる視線に気付いたんで、睨み返したら、近づいてきた。で、いきなり『本庁の刑事さんですね』と言いやがるんだ・・・」

「へぇ・・・」

「知らん顔して背を向けたら、そいつ、俺の袖を引っ張って『お願いがあるんです。話を聞いてほしいんです』ときた。人目もあるから、改札の近くで、あらためてその子の住所氏名を聞いて、どこで俺のことを調べたのかと尋ねたら、どうやら俺と同じ町内に住んでいるらしい。名前は桐谷芽衣。父親が新聞記者だから、刑事の住所や氏名を書いた手帳を持っていて、それを見たんだという話だった」

「その子の用件は」

「それが・・・そいつの同級生が人を殺した、というんだな・・・」

「え?」

 真壁が思わず聞き返していると、横槍が入った。田淵がいきなり「おい、清宮が女子高生に逆ナンされたってよ」などと言った。すると、珍しく吉岡が「顔さえ良ければイイんだろ」と笑う。声のでかい馬場が「ただし、イケメンに限るってか」と受ける。

「このロリコン!」と杉村が調子を合わせた。

 狭い座敷の一角は男たちのゲラゲラ笑う声で、しばし話が出来なくなった。真壁は背を向け、話に戻った。大して興味深い話でもないが、神経にひっかかる点がいくつかあった。

「誰を殺したって・・・?」

「同級生の近所に住む独り暮らしの老人。その子曰く間違いないそうだ」

「それで?」

「まず地元の警察へ行けと言った。そしたら、無駄だと言いやがる。同級生の住所は三鷹台で、今年の2月下旬にその子の近所のアパートで老人が死んだらしいんだが、そのとき三鷹南署と消防は石油ストーブの不完全燃焼による一酸化炭素中毒で処理してしまったらしい」

「所轄が中毒死と見たんなら、中毒死だったんでしょう」

「多分な。だが、その同級生はたしかに『自分が殺した』と言ったというんだ」

 真壁はとっさに「どうやって?」と返事をする前に、ちょっと間を置いた。そのとき考えたのは、真偽のほども定かでない見知らぬ子どもの話ではなかった。傍から考えれば常識外れのように思える女子高生との接触に何を、清宮が真に受けたのかという点だ。

 真壁は清宮の顔を見た。二枚目の面立ちに、ひどく神経の立った表情が浮かんでいる。

「しかし、それは・・・三鷹南の話でしょう」

「それはそうだ。だが、どうも俺は気になって仕方がない」清宮は呟いた。

 真壁は「何が」と尋ねたが、清宮はあいまいに首を横に振っただけで、しばらく答えなかった。そのとき、桜井が「相手が女だからってヤラれたら、ヤリ返す。でなきゃ、野郎やめろって」とわめき、馬場が「ヤラれたらって、ヤルのはテメエじゃねえか」とまぜっかえして、男たちの笑い声で狭い座敷がまた騒々しくなる。

 清宮はやっと、思い出すようにぽつりと呟いた。

「その桐谷というガキ・・・話しながら、薄ら笑いを浮かべやがったのさ・・・」

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