プロローグ

 5月2日―。

 真壁仁は2人の友人と一緒に、六本木まで飲みに来ていた。六本木四丁目のダイニングバーの中は洒落たインテリアに、BGMにフュージョンが流れている。

 どうも落ち着かない。真壁は革張りの椅子の下で、腰をもぞもぞさせた。

 富樫誠幸がテーブルをはさんで、常連客らしくメニューを見ないで、ウェイターに慣れた調子で言った。

「ボランジェのスペシャルキュベを」

 真壁は思わず眉をひそめる。

「なんだ、それ?」

 石崎奈緒子が隣に座る富樫に得意げに言った。

「フランスのシャンパンじゃない」

「おっ、詳しいね。奈緒子ちゃん」

 わずか1時間前に初めて会ったはずなのに、もう親しい間柄のように富樫と奈緒子は笑い合った。ちゃんとした芸能事務所に入れば、俳優やモデルでも食べていける顔をしている富樫に奈緒子も人並みにやられているのだろう。真壁はそう思ってみた。

「ねぇねぇ、2人はどうやって知り合ったの?」

「2人とも山岳部だったからな」真壁は言った。

「とは言っても、ウチの大学の山岳部は人数が多くてさ。入ったばかりの頃は同じ部活でも学部が違えば、まず面識はなかったな」

「じゃあ、どうして仲良くなったの?」

「キッカケは覚えてるよ」富樫が真壁に眼を向ける。「あれはケッサクだったな」

 真壁は全く見当がつかなかったが、富樫の思い出話を聞いている内に、当時のことを脳裏によみがえって来た。

 今は東都日報の社会部で記者をしている富樫は学生の頃からカメラを抱えて山を登り、写真を撮り、エッセイ風の紀行文を書いて雑誌に投稿していた。ある時、真壁が本屋で立ち読みした山岳雑誌に読者投稿の写真コンテストが掲載され、一位が富樫の写真だった。岩壁を登っていくクライマーを真下から撮った写真で岩とクライマーと青空だけのシンプルな構図だったが、迫力のある写真だった。真壁は口を開いた。

「ところが、その写真に映ってたクライマーが俺自身だったんだ」

「それで『モデル代よこせ』って詰め寄られてさ」富樫は言った。「何が欲しいのかと思ったら、期末テストの直前だったから一緒に受けてた一般教養の講義で配られたプリントと俺のノートを全部コピーさせろって言ってきてさ。コイツはそのコピーで一夜漬けで勉強したんだけど、単位はもれなく全部落としたんだよ」

 奈緒子が涙を流しながら、大笑いする。真壁が甘いシャンパンに辟易して、タバコをくわえる。不意に、富樫が肩を小突いてくる。富樫の指す先の壁に禁煙マークのシールが貼られていた。真壁は憮然とした顔で立ち上がった。富樫はニヤニヤしている。

 店のドアを押し開け、真壁は細い路地に立ってタバコに火を付ける。ふと眼の前にある店の壁に貼ってある何かのポスターが見えた。「奥多摩の都民の森」というキャプション。一面の若葉色が突然、脳裏に沁みてくる。

《ああ、もう5月なのか》

 じっとりとまとわりつくような湿気を肌で感じる。シャツの袖を腕まくりすると、ズボンのポケットに入れていた携帯電話が震え出した。画面に表示されたのは三鷹南署の番号だった。

「現場で新條紀子を押さえた。来るか?」

「現場?」

「自宅の庭をライターで燃やそうとした。巡回中の警官が見つけた」

 顔なじみの刑事からの声を聞きながら、真壁はこの1か月あまり追ってきた新條紀子の顔を思い浮かべた。色白い16歳の哀しげなおっとりとした顔だ。続いて、事件の端緒をつかんだ十係の同僚、清宮祐希巡査部長の端正な顔立ちも浮かんだ。

「ご連絡、ありがとうございます。すぐ行きます」

 その後、清宮を呼び出してすぐに三鷹南署へ向かうよう伝え、電話を切った。手にしていたタバコを排水溝に捨て、急いで店に戻る。富樫と奈緒子に「今日は俺のオゴリ」と告げ、財布から2万円を取り出してテーブルの上に置き、背広を掴んで店を飛びだした。

 富樫が「刑事さん、頑張って」と言い、奈緒子が「気を付けてね」と後押しした。

 無意識に六本木通りまで少し走り、呼び止めたタクシーに飛び乗った。真壁は事件が不本意な結末を迎えたことについて、何も考えることが出来なかった。それから、ある種の不条理な思いを含めて、一度起こした過ちは取り消すことは出来ないのだと思った。

 やがて起こるかも知れない悲劇を、何らかの形で感じる。しかし、それは個人の不健全な推測の域を出ず、何の打つ手もないまま、たいていの場合は眼をつむることになる。

 後悔は何の役にも立たない。死者は生き返らない。真壁はじくじくといつも思うのだ。

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