第113話 これからのこと

 病室に入ると、しづ子さんは身体を起こして本を読んでいた。その姿を見ると、やはり五十鈴の祖母なのだと変な実感が生まれる。

 俺に病状のことはわからない。でも、なんとなく以前よりも元気そうに見えた。少なくとも顔色はいいのではないか。


 近づいていくと、向こうもこちらに気づいたようだ。本を閉じてそばのテーブルへ置くと、あのどこか落ち着く感じのする笑顔を向けてくれた。


「あらあら、今日は大所帯だこと」


「お久しぶりです、しづ子さん!」


「すみません、ご迷惑だとも思ったんですけど。それと、これつまらないものですが」


 菫姉が余所行きの喋り方で、提げていた紙袋を差し出した。こうして見れば、真っ当な大学生に見える。


 しづ子さんは微笑みを絶やさすことなく、やや遠慮がちに受け取った。とても上品な所作だった。またしても、五十鈴との血縁をよく感じる。


 学校祭が無事に終わった一週間後の土曜日。日常が落ち着くのを待っていたら、術後のお見舞いはこの日になってしまった。以前から心配していた姉妹すみるりも自ら率先してついてきた。


「ふふっ、別にいいのに。来てくれてありがとう。正直、いつも美桜ばかりだから退屈していたの」


「……おばあちゃん。わかったわ、もう来ないから」


「そうね。それくらいの方がいいかもね」


 孫娘の脅しをしづ子さんはまるで相手にしていない。目を細めて素知らぬ顔。

 むしろ孫娘の方がダメージを受けていた。不機嫌そうに軽く頬を膨らませている。これを見て真っ先に可愛いと思ってしまう辺り、俺は相当毒されているのだろう。


 おおよそこの場所にふさわしくない感情を抱いた自分を恥じるように、気持ち新たにしづ子さんに話しかける。


「ご無沙汰してます。お元気そうでよかったです」


「ええ、この通りピンピンしているわ。浩介君が手術前に会いに来てくれたおかげね――っと、ちょっと美桜をからかいすぎたかしら」


「別になんとも思ってない」


「この子、意外と子供っぽくて皆さん大変でしょう?」


 苦笑しながら、五十鈴のお祖母様は根津家をねぎらってくれる。

 その当人は今もそっぽを向いたりしていた。


 伶佳さんのときもそうだが、親しい大人を前にするとこいつは途端に年相応の振る舞いを見せる。それをもっと俺にも見せてくれればいいのに、と思うのはやはりエゴなんだろう。今はその片鱗だけ我慢しておくが。


 和やかな雰囲気で、話が弾んでいく。専ら話をしているのは五十鈴と、それに謎に瑠璃だ。しづ子さんはニコニコしながら相槌を打って、ときに素朴な質問をぶつける。妹は割とご年配の方に気に入られがちなのだ。


「でも、大事に至らなくて本当によかったね。美桜ちゃん、すっかり元通りだ」


 窓辺に寄りかかり遠巻きに五十鈴たちを眺めていたら、姉が抜け出してきた。


「そうだな。そういや、菫姉に迷惑かけたって謝ってたよ」


「本人から聞いたよ~。別にいいのにね。未来の妹になるかもなんだから」


「……そういう冗談は心臓に悪いからやめてくれよ」


「浩介君、ちょっと」


 いいタイミングで、五十鈴からお呼ばれした。馴染みの薄い呼ばれ方に、ちょっと落ち着かなさを感じながらベッドの近くへと戻る。

 馬鹿姉がとんでもないことを言うものだから、妙に意識してしまう。気持ち五十鈴よりも、妹の近くへで立ち止まる。


「おばあちゃん、あのね、私たち付き合うことになったの」


「――はっ? っと、ええと、その、はい。あの、美桜さんとお付き合いさせてもらってます」


「お兄ちゃん、慌てすぎ—」


 ケラケラと、お構いなしに笑ってくる瑠璃。その頭を軽く叩いてやりたいが、TPOを弁えるくらいの理性は辛うじて残っていた。


 何もこのタイミングでカミングアウトしなくても……恨みがましく恋人の方を見るが、どこか誇らしげだった。そんな風にされると、もうこれ以上言葉は出ない。

 まあ隠すようなことでもなし。むしろその方が不誠実、か。でも、事前に少しくらい相談してほしかった。俺にも心の準備というものがあるのだし。


 さすがのしづ子さんもこれには少し驚いたらしい。瞼がしきりに上下を繰り返している。やがて、どこか納得したように何度か頷いた。


「あら、よかったわね。とってもお似合いよ。そうね、だったらもうちょっと入院していないといけないかしら。一緒に暮らす大義名分がなくなってしまうもの」


 反応に困る意地の悪い冗談に、ただひたすら肝を冷やしてしまう。

 ふと見ると、五十鈴の方も真っ赤になって俯いているのだった。




        ※




 先ほどから喉が渇いて仕方がない。でも目の前にあるカップに手を伸ばす気にはなれなかった。

 完全に雰囲気に呑まれていた。軽い情けなさを覚えてしまう。


 軽い挨拶を交わして以来、すっかり沈黙が続く。五十鈴親子は共々無表情を決め込んでいる。数時間前の病室のひと時が懐かしい。


 夕方でも食事時にはまだ少し早いからか、ファミレスはそれほど混んでいない。いっそのこと、もう少し賑やかだったらこの気まずさも薄れるのだろうか。

 いや、きっと変わらない。これは結局、俺が根本的に部外者であることに由来するのだから。

 それでも、今までの二回とは少し違う。あれから時間が経ち、俺たちの関係は明確に変わった。美桜さんと付き合っている――宣言する心の準備はできている。現実、まだ実現していないが。


 なんにせよ、この沈黙を破れるのは五十鈴しかいない。話があると言い出したのは彼女だ。こっちまで出張ってきたのは、雄哉さんが望んでらしいが。

 本当は何か言葉のひとつでもかけてやりたい。でも、それはたぶん余計なことだ。だから代わりに、ぎゅっと手を握ってやる。頑張れと、背中を押すように。それが俺に同席を頼んで理由のはずだ。


 気持ちが伝わったのか、五十鈴はようやく視線を上げてはっきりと父親の方を見た。


「お父さん。あのね、ずっと言いたかったことがあるの。志望校を決めるとき、私嘘をついた。地元にレベルの合う高校ないからっていうのと、街に出たかったっていうの。本当は違う。ただお母さんの影を追いかけていただけ。お父さんと向き合うのを避けて、愛情を信じられなくて、ずっと逃げてた。大好きなお母さんとの思い出に甘えてた。でも本当はわかっていた。お父さんが私を大切に想ってくれていたのを。だって、こうして今があるのはお父さんのおかげだから」


 堰を切ったように、五十鈴は語る。内なる感情に突き動かされるみたいに、いつもの冷静さなどすっかり忘れて。痛いくらいにひたむきさは伝わってくる。


 雄哉さんはすぐには言葉を返さない。気持ちの全てを汲み取ろうとするように、真っ直ぐに五十鈴のことを見つめたままだ。

 やがて、長い沈黙の後にふーっと息を吐きだした。


「……わかっていたよ。美桜がずっとあいつのことを求めてたことは。決して逃げ、などではない。当たり前のことだ。私はいい父親ではなかったから。だから、向き合うべきは私の方だった。ありがとう、本当の気持ちを話してくれて」


「お父さん……それでね、やっぱり私はこの街を離れたくない。でもそれはお母さんのことがあるからじゃなくて、私にとってここは大切な場所になったから。かけがえのない人がそばにいるから」


 一瞬五十鈴がこちらに視線を寄越す。続くようにして、お父さんもこちらを見る。

 カーっと身体が熱くなる。どういう顔をしたらいいかわからなくて、思わず目を背けたくなる。

 でも覚悟はとうの昔に決まっていた。


「俺からもお願いします。雄哉さんが美桜さんのこと心配してるのはわかります。でも、どうか美桜さんを連れて行かないで欲しい。俺に何ができるかわからないけど、出来るだけのことはします。美桜と一緒にいたいから、俺にとってもかけがえのない人だから」


 勢いのままに思いの丈をぶつける。青臭いことはわかっている。滑稽なことはわかっている。こんな口添えは、もしかすると父親には逆効果なのかもしれない。

 けれど、これが俺の本当の気持ちなのだ。美桜ともっと一緒にいたい。離れたくない。もう、彼女のいない日常なんて考えられなかった。


 またしても、雄哉さんは言葉を紡ぐ。今度は目を閉じて腕を組んで何かを考え込むようにしている。

 やがて瞼が開いたとき、予想とは違い彼はとても穏やかな表情を浮かべた。


「しづ子さんともよく話し合ったよ。とりあえずはあの話はなしだ。今まで通り、美桜の面倒を見ると言ってもらえた。医者の目から見てもそこに疑いはない。私からも改めてお願いした。むろん、これまで以上にサポートはさせてもらう」


 淡々と語ると、雄哉さんがコーヒーに手を付けた。顔を顰めたところを見ると、あまり美味しくはなかったようだ。まあかなり放置されていたわけだし。


 しかし、いやにあっさりと終わってしまった。もっと複雑な話し合いになる可能性も考えていた。病院のラウンジのときはともかく、親子が一緒にいたときの雰囲気はとても険悪だったから。

 もしかすると、俺たちが深刻に受け止めすぎていただけなのか。思わず顔を見合わせると、五十鈴の方もどこか拍子抜けした顔だ。


 さっきまでの緊張感はどこへやら。俺たちのテーブルには、すっかりおかしな空気が流れていた。


「それで、浩介君。美桜とはいつからなんだい?」


「……こ、この間の学校祭からです」


「そうか、ちょうど一週間か。美桜のメイド服姿はよかったが、親としては複雑だったね」


「え、なんで知ってるの? というか、見に来たの?」


「もちろん。ちらりと様子を窺っただけだが」


 何を馬鹿なことをとでもいうように、したり顔でお父様は頷いた。この娘にして親あり……雄哉さんもつかみどころのない人だと思う。


「事前に言ってくれれば――」


 言いかけて五十鈴は言葉をしまい込む。だとしたらどうだったのか。自分でも判断がつかなかったのだろう。

 なにせずっとわだかまりを抱えていたのだ。その解決の糸口は今日になってつかめたわけで。


「しかし、なんだ。美桜にとうとう彼氏か……。もっとこう色々な感情が沸き上がると思っていたが、今は何も浮かばない」


 それに対して、俺も五十鈴も何も言えなかった。

 というか、俺の方はさっきまでとは違う焦りを覚え始めた。冷静になってみれば、この状況はとても心臓に悪い。


「まあとりあえずは美桜のこと、よろしくお願いするよ。しづ子さんの退院もまだ先だ。根津さんには、また迷惑をかけてしまうが」


「いえ、そんなことは……うちは全然構いませんから。姉も妹も大喜びですし」


「そう言ってもらえると助かるが、彼氏ということを考慮すると少し複雑だね。――くれぐれも、間違いのないように」


 にこっと笑いかけられたが、その笑顔はこれまでの人生の中で最も恐ろしかった。今日だけでこんなにもひやりとするのは、それだけ秋が深まったということだろうか。




        ※




 その帰り道のこと。

 送っていくという雄哉さんの申し出を断り、ファミレスから五十鈴と一緒にゆっくりと歩いていた。


 通りを離れて路地に入ると、ふいに五十鈴が数歩先へと駆けていく。人通りのほとんどない、知る人ぞ知る抜け道的なところで。スーパーに行くときの近道でもある。

 不思議に思っていると、立ち止まってくるりとこちらを向いた。白いロングスカートの裾がふわりと宙を舞う。今日の格好はどこまでもお嬢様めいていた。


「ねぇ、一つお願いがあるんだけど」


 照れた顔で、躊躇いがちに言ってきた。服装と相まって、とてもお淑やかに見える。


「ああ、いいぞ。この際もうなんでも叶えてやる」


 やけくそだった。恋人として、父親とも向かい合ったのだ。もはやこれ以上なんてない。


「もう一回言って欲しい」


「……何を?」


「お父さんに言ってくれたこと」


 果たしてどのことを言っているのだろう。本筋以外も含め割と色々な話をした。なんなら、今後に関わるパートの方が結局少なかったくらいだ。


「こ、は私と一緒にいたいんだよね……ずっと」


 その呼ばれ方はやはりしっくりこなくて、でも心が弾んでしまう。

 向こうの方もまだまだ恥ずかしさはあるようだし。真っ赤になりながらたどたどしく口にしたその姿は、いじらしくて……抱きしめたくなる。


 ともかく、全てがわかった。背筋を伸ばして、改めて彼女のことを見つめる。

 しかし、ずっととまで言っただろうか……そんな記憶がなくて、つい苦笑しまう。まあでも、その気持ちに嘘はないからいいか。


 ふっと息を吐いて、表情を引き締める。まだ少し気持ちはふわふわしたまま。心臓はやけにはしゃいでやがる。


「ああ、そうだ。俺はお前と一緒にいたい。大好きだ、


 胸の辺りがすごく痛い。

 全身がありえないくらい熱い。

 立っている感覚が恐ろしいほどに希薄だ。


 でも幸せだった。

 面と向かって初めて口にした響きは、愛おしくてたまらなかった。


 美桜はすっかり顔をほころばせていた。えへへ、と嬉しそうな呟きがこぼれ出しそうなぐらいに。


「私も大好きよ、浩介君」


 俺の言葉を一通り味わい尽くしたところで、美桜が勢いよくこちらに抱き着いてきた。甘い香りが漂ってきて、全身に柔らかい感触を感じる。


 ――夕飯の買い出しに出かけた妹に見つからなければ、たぶん一週間ぶりにキスしてたと思う。

 こればかりは、あいつに感謝するべきだろう。たとえ、その晩に菫姉に二人でたっぷり怒られることになったと言えど。

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