第108話 答え

 翠は黙ってこちらを見つめ続ける。言うべきことを口にして、ただひたすらにこちらの返事を待っている。


 視線が痛い。心臓はうるさいくらいに高鳴って、身体が不自然な熱を帯びる。それでいて、自分がここにいるという実感がひどく希薄になっていく。


 何か言わなければいけない――わかってはいても、言葉が口から出てこない。頭の中で、浮かんでは消えてを繰り返している。それでまた焦燥感が増す。


「もしかして、もう五十鈴さんと約束しちゃってますか……?」


 やがて、翠が痺れを切らした。

 軽い安堵を覚えながら、そんな自分に嫌気が差す。耐えきれなくて、つい相手の顔から視線を外す。


「いや、そんなことはないけど」


「だったら他の人とはどうですか?」


「それもない」


 学祭当日、特に二日目をどうするかの予定なんて決まっていなかった。去年は修や周五郎とテキトーに彷徨っていた。

 今年も同じようになる。卓や晴樹、裕太と気の合うクラスの友人と暇潰し感覚に巡る。でも、それはたぶん何も望んでいなければ、の話だ。


 改めて、翠翠を直視する。若干潤んだ瞳、耳まで真っ赤になって、肩は小刻みな隆起を繰り返す。それでも、その視線がぶれることはない。


 想いに気づいていなかった、と言えば嘘になる。決定的だったのは、やはりあの弓道場での一幕だろう。

 あの対話が、彼女にとってどんな意味を持っていたのか。それは当人にしかわからない。けれど、自分の推測がそこまで的外れではないと思っている。


 だからこそのこのだ。学校祭なんて、まさに格好のイベントだ。巷には、学祭マジックなんてふわふわ言葉が出回っている。誰が言いだしたのか、二日目の花火を好きな人と見れなかった者は化石、と。


 そんなもの、俺には無関係なはずだった。どちらかといえば、やっかむ側の人間だった。一年前なんてまさにそう。

 でも今は違う。目の前には、勇気を振り絞ってくれた女の子がいる。俺の言葉を期待と不安で待ちかねているのだ。


「――誘おうと思っている相手がいるんだ。だから、翠とは回れない。せっかく誘ってくれたのに、ごめん」


 なんとか言葉を吐き出して、深く頭を下げる。胸が詰まり、腹の底が重い。誰かと向き合うのがこんなにしんどいことを、俺はこのひと月でよく理解していた。


 翠が息を呑むのがわかった。

 空気がひときわ重さを増す。のしかかる重圧に、身を固くしてひたすらに頭を下げ続ける。


「謝らないでください」


 沈黙を破る彼女の声はとても優しかった。一切の動揺を感じさせず、諭すように穏やかで。


 頭を上げた先にあったのは、脆い笑顔だった。実際、端々は崩れ始めている。決壊寸前のダム、爆発直前の爆弾。奥にある感情が目に見える形で膨れ上がっている――そんな錯覚を抱く。


「さっき五十鈴さんの名前を出したときに、もうすべてわかったんです。ううん、違う。本当は、もっと前から気づいてた。知ってたから、最近の浩介君が五十鈴さんを見る目が前とは違うことを。でも、あたしは何もせず諦めるなんてしたくなかったんです。もう二度と、あのときと同じ気持ちを味わいたくはなかったから」


 翠は最後まで微笑みを絶やさない。どこまでも丁寧に、落ち着き払った態度で語ってくれた。それでより、その真摯な想いが伝わってくる。


 ふと思う。部を辞めるとき、もし翠が引き止めてくれたら、と。ひと月半ほど前、道場で言ってくれた言葉がもっと前にもたらされていたら――


 きっと全ては現在いまと違っていた。先の翠の言葉に確かな実感を覚えた。


 でも、それは仮定の話に過ぎない。実際はこうして、彼女の気持ちを受け止めることができない。


「先に教室戻っててもらえますか。あたし、忘れ物しちゃったみたいで」


 えへへ、とはにかんで彼女は取り出した鍵をふるふるかざした。金属のぶつかる音が、やけに虚しく廊下に響く。


「ああ、わかった」


「ちゃんとホームルームには間に合うと思うので」


 忘れ物なんて、明らかに嘘だ。出る前に何度も確認した。でも、あえて何も触れなかった。

 ……いや、優しさに甘えただけだ。どこまでもずるい人間だと、自分の卑怯さにうんざりする。


 翠が来た道を引き返すのを見て、俺は踵を返した。自分の教室が遥か遠くに見える。


「そうだ、浩介君。余計なお世話ですけど」


 声に振り返ると、数歩先にまだ翠がいた。けれど、彼女は決してこちらを見ようとはしない。


「五十鈴さんを誘うなら早い方がいいですよ。人気あるから、あの人。あたしみたいに手遅れにならないように——」


 翠が駆け出していく。遠ざかる背中を、俺は居た堪れない気持ちで見送ることしかできなかった。




        ※




 その日の夜。夕飯を済ませ、十分時間を置いてから俺はリビングに戻った。こういう日に限って、瑠璃が当番で居候と仲睦まじくダラダラと後片付けをしていたのだ。


 五十鈴はソファではなく、それにもたれて足を伸ばしてカーペットの上に座っていた。結構楽なのよ、と数日前に教わった。

 おかけで、見下ろす形で声をかけることに。ちかづいても、五十鈴ちゃんは熱心に御本を読んだまま。


「今いいか」


「うん」


 尋ねると、本を閉じて応じてくれた。ブックカバーのせいで、タイトルはわからない。

 ちょっと横にずれてもらったこともあり、俺もカーペットに胡座をかいた。


「今日は話しかけてくれるのね」


「どういう意味だよ」


「だって、見るだけ見て何も言わずに去っていくのを最近繰り返してばかりだった……ストーカー?」


 とんでもないレッテルを貼られてしまった。というか、気づかれていたんだな。いつ来ても、何かに夢中だったくせして。


 ともかく、五十鈴の言うことは事実だ。数日前から、こいつに話しかける機会を窺っていた……学校祭を一緒に回るのを誘うために。

 その度に失敗して、まあまだ先だと逃げていたら今日まできてしまった。


 翠との一件が関係してないと言えば嘘になる。でも触発されたとして、それはまた最低な話で……この期に及んでさっきまでベッドの上で煩悶してた次第なのです。


「はぁ」


 と、思い出していたらついため息が溢れた。


「さっきのジョークよ。そんなこと思ってないから」


「いや、わかってるって」


「そうよね、あなたの得意技だもの。突拍子のないこと言って人を混乱させるの。本当に悪趣味」


「そこまで言われるのか……以後気をつける」


「ええ、ぜひ」


 そう言うと、何かおかしかったのか、五十鈴はくすりと笑った。すっかりマイペースさを取り戻したようだ。


「それで、何か悩みでもあるの? わ、私でよければ聞くけど」


 五十鈴が髪を耳に掛けながら続けた。

 本人としてはさりげなくできたと思っているのかもしれない。でもだいぶ言い方や仕草がぎこちない。


 お前だよ、なんて言えればいいんだけどなぁ。あまりにもカッコつけすぎというか。とても俺のキャラじゃない。下手すると、冗談として流されかねない。


「昼間何かあった? 楽しそうにしてると思ったけど」


「いや、それは問題ない。見てたのか?」


「看板づくりの方は。だいぶ賑やかだったし」


「……なんかすみません」


「いいえ。そのあとはお茶会したんでしょ」


 五十鈴にしては珍しく棘のある言い方だった。言葉こそ稀に強いものを使うが、基本的にいつも淡々と言う。それが彼女なりの冗談だと、なかなか見抜くのは難しいが。

 今のだって、その一環っぽい。でもなんとなくこちらを見るその目には含みがあって。


「よく知ってるな」


「私にも色々教えてくれる友達はいるわ——って、何その顔」


「いや、別に」


 どこかで聞いた言い回しだと思っただけだ。こいつに限って、あえてということはないだろうが。それでも少しびっくりした。


「信じてないのでしょう。本当にいるから」


「そこは疑ってないって。実際、若瀬とか仲良さそうじゃん」


「そうね、沙穂さんはいい人だわ。よくお菓子くれる」


「懐柔されてる……!?」


 冗談だと思うが、こいつの場合は本気でその可能性がありそうなのが恐ろしい。お菓子への執着は尋常じゃないから。


「ねぇ、幼馴染なんですって?」


「ああ、そうだよ。でも何もないからな。ただの腐れ縁だと思ってるし。そもそもあいつ彼氏いるし。いやいなかったとしても、別にあれだし」


「なにそんなに慌ててるの」


「……なんでだろう。俺にもわからん」


 たぶん、向こうには特別な意図なんてなかったはず。柔和な表情がそれを物語っている。

 でも万が一にも誤解されたくなかったのだ。他の誰よりも、五十鈴にだけは。


 そんなことを強く自覚して――


「あのさ」


「うん」


「学祭のその、二日目なんだけど。よかったら、俺と一緒に回らないか?」


 言ってみれば、意外とすんなり口に出せた。目を見ながらでもしっかりと。こうして、ありありと五十鈴の顔だってみれ……まずい、遅れて恥ずかしさがやってきた。自分は今とんでもないことを言ったと、脳がようやく自覚した。


 なのに、こっちがかなり動揺しているのに、五十鈴美桜はどこまでも涼しげに——


「いいよ」


「そうだよな、やっぱりダメ……って、いいのか!?」


「またベタな反応ね。いいわよ。私も根津君と一緒したいって思ってたから。だから、よろしくお願いします」


 五十鈴は正座をして畏まると、バカ丁寧に頭を下げてきた。このままドラマや映画のワンシーンになれるんじゃないかと思うほど、どこまでも綺麗に。


 勢いに負けて、見様見真似に真似をする。この慌てぶりは自分でも無様だと思う。あいつにはしっかり笑われた。


 そうしてひとしきり笑い合って、再び楽な姿勢で向かい合う。


「でも、根津君は私が断ると思ってたんだ」


「まあそりゃあの天下の五十鈴美桜様だからな」


「なにそれ」


「ホント、そういうのには無自覚というか興味無しというか」


 不思議そうな態度に、思わず苦笑する。無駄に緊張して損した、それは今だからこそ思えることか。


「よくわからないけど、断る理由がないもの。文芸部の当番あるし、その方が都合がいいじゃない」


「……え? そういう理由だったのか」


「なんて、いつもの仕返しよ」


 そう言って、彼女は楽しそうに微笑んだ。


 五十鈴美桜の意地悪は心臓に悪い。それを今日、嫌というほど学ぶのだった。

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