第103話 戻りかける日常

 停車ボタンを押してから、改めて左肩に目を向ける。いつからか、ずっと重量感をか覚えていた。


「おい、起きろ。もう着くぞ」


 バス車内なのを考慮して、そっと声をかけた。たぶんダメだろうな、と半ばあきらめながら。


 案の定、眠り姫は全く目を覚ます様子は無い。聞こえてくるのは穏やかな寝息だけ。完璧な熟睡状態。


 ……はぁ。参った。もっと早くに着手するべきだった。

 寝起きの悪さはよく知っていたのに、余計な親切心が働いた。僅かな隙間時間でも寝かせてやろうと思った。おそらく、昨日ろくに眠れなかっただろうから。


 こうしている間にも、刻一刻とタイムリミットは迫っている。

 このまま放置するか。あるいは、間違えました、と運転手さんに謝罪するか。一応、最悪の結末だけは想定しておく。


「五十鈴ちゃーん、頼むから起きようねー」


 肩を揺らして呼びかけてみるが、効き目は薄い。ん、とちょっと艶めかしいうめき声が漏れるだけ。寝顔はどこまでも気持ちよさそうだ。


「五十鈴、ほら、五十鈴っ!」


 今度は肩をポンポンと叩いてみる。直接的な衝撃の方がいいと思ったが、少し強さが足りないか……これが姉妹すみるりなら容赦はしないが、やはり気を遣う。

 だが、なりふり構っていられない。そろそろ、バスが最後の信号を抜ける。


 ――バチン。


 我ながらいい仕事をした。小気味よい音に達成感すら覚える。


「――った!?」


 とても物静かな美少女のものとは思えない声が上がった。車内に同じ高校の人間の姿が見えないのが、ある種の救いだろう。


「うぅ、いたい……」


 ようやく目を覚ました五十鈴さんはおでこに手を当ててうずくまってしまった。

 これでも威力は控えめにしたつもりなんだが。まあ、よしとしよう。


「こうすけ、くん? あれ、あたし……ここどこ」


「盛大に寝ぼけているところ悪いが、下りるぞ」


 ふわふわした雰囲気の同居人の手を取って立ち上がる。バスはタイミングよく停車していた。


「そっか、寝ちゃってたんだ。ごめんなさい」


「いいよ。疲れてたんだろ。ずっと緊張もしてたろうし」


 バスが去っていくのを見送って、ようやく五十鈴は目が覚めたらしい。先ほどよりも、顔は少しシャキっとしている。ほんのりと、耳の辺りに赤みが差しているが。


「歩けるか?」


「……もし無理だ、って言ったらどうしてくれる?」


「容赦なく置いてく」


「ひどい人ね」


 無感情に吐き捨てると、五十鈴が歩き出していく。颯爽と、肩で風を切っている。少し前の痴態を録画して見せつけてやりたいところだ。


 しかし、さっきのは冗談として。本当にあいつが歩ける状態になかったらどうしていただろう。現実的なところとしては、タクシーでも捕まえるか。

 これが、ドラマとかならおぶって帰るんだろうか。まあ、あいつがそんな答えを求めていたはずはない。そんな乙女思考を持つ奴じゃあるまいし。

 そもそも、悲しいことに私はそんな屈強な肉体は持ち合わせていないのよね。

 なんてくだらないことを、遠ざかる五十鈴の背中に思いながら追いかけた。


 特に言葉を交わすことなく家に着いた。なんだかようやく帰ってこれた、という気分だ。いつもの下校時間より早いのに。


「少し寝ようかな。やっぱりまだちょっと眠たい」


「ああ、いいんじゃないか。かなり疲れたろ。夕飯前には起こしてやるから」


 玄関で会話して、先に俺が中に上がる。

 だが、五十鈴はなかなか動こうとしない。


「どうした?」


「勝手に入っていいのかしら」


「いまさら何言ってんだ。もう一か月以上この家で暮らしてるだろ」


「そうだけど……やっぱり瑠璃さんの部屋だから、当人がいないのに入るのも気が引けるというか」


「そっちか」


 思わず口に出すと、五十鈴は不思議そうに首を傾げた。

 なんでもないと声にしながら、首を振る。この家自体に上がりこみたくないのかと思った。自分でも言ったが、冷静に考えればおかしな話だ。

 このちぐはぐな感じが少し懐かしい。最初の五十鈴とのやり取りって、だいたいこんな感じだったよな。


「あいつも別に気にしないと思うけど。逆に、じゃあどこで寝るって言うんだよ」


「根津君のベッド」


「……は?」


「オーガイはよく潜り込んでいるじゃない」


 五十鈴さんの頭があまりにも良すぎて話についていけない。どう考えても飛躍している気がする。飼い猫が許されてるから自分もという論調はおかしいと思うですが、どうでしょう。


 というか、仮にも異性のベッドを使うということに対して抵抗はないのだろうか。いくら今一緒に暮らす家族のようなものとはいえ……そんなことを考え出すとキリがない。保留にしてきた数々の問題まで、連鎖的に喚起されそうだ。


「……いや、まあいいけどさ」


「ありがとう。安心して、ベッドの下は見ないから」


「どういう意味だ、それ」


「男の子にとって、格好の隠し場所なんでしょ」


「もう古くないか、それ……そもそも、隠すようなものは持ってないです」


「私にエッチな本突き付けてきたの、誰だっけ」


「語弊のある言い方をするな!」


 そんな風に軽口を叩き合って、俺の部屋の前で五十鈴と別れた。リビングで適当にグダグダ過ごそう。さすがに、あいつの眠っている隣で寛げない。


「おかえりー」


「菫姉、いたんだ」


「うん。火曜日のこの時間は講義ないの」


 なんて、自由気ままな大学生がソファでノートパソコンと向かい合っていた。顔だけこちらに向けて、キーボードを打ち込む手は動き続けたまま。

 だが、いきなり作業の手が止まる。明るかった表情が少しかげる。


「……美桜ちゃんは一緒じゃないの」


「今寝てるよ。安心して、どっと疲れがきたのかもしれない」


「よかった。手術は上手くいったんだね」


「みたいだな。詳細はさすがに俺は知らないけど」


 ひとまず喉を潤そうと冷蔵庫を開けながら応じる。麦茶がもう僅かだ。作っておかなければ、と同時にたぶん洗い物は溜まっているのだろうと億劫になった。

 容器とグラスを持って、俺は食卓の方に陣取った。菫姉が気を遣って場所を開けてくれたが、隣りに座る気にはなれなかった。


「なんか浩介君、逞しくなったね」


「何言ってんだ、アンタ……」


「せっかく褒めてるのに~」


「へいへい、ありがとうございやす」


「しょうがない、そんな浩介君を讃えるために今晩はお姉ちゃんが腕によりを――」


「かけるな。へし折るぞ」


「家庭内暴力……!」


 全く意味不明なこと言いやがって。でも姉とのこうしたやり取りもずいぶんと久しぶりな感じだ。


 今日までずっとひとつの――ひとりのことだけを気に掛けていた。その契機となったできごとも無事に終わり、また日常が戻ってくるのだろう。

 そのはずなのに、なぜか少し心がざわついている。

 逞しくなった、という姉の指摘はデタラメだ。でも、変化があったという意味でなら正しい。

 俺の胸には、知らない感情が芽生えようとしているのだから。




        ◆




 ふと様子を窺うと、五十鈴は無表情でくるくるとペンを回していた。もう片方の手の甲で頬杖をつきながら。


「大丈夫か?」


 尋ねると、五十鈴は頬杖を止めて素早く首を横に振った。一つ結びにした髪がリズミカルに揺れる。

 まあそうだろうな。似たような姿をここまで何度も見てきた。


「見せてみ」


「ん――172番」


「ああ、これ」


 食後のひと時。日中あんなに大変なことがあったというのに、五十鈴の目はもう前を向いていた――期末テストは週明けから始まるのだ。


 受け取った問題集を一瞥する。今までとは系統の違う発展問題系。どこぞの大学の過去問らしく、確かに一筋縄ではいかなそうだ。

 それでも、すぐに説明を開始する。伝え終わると、五十鈴は少し目を丸くした。


「凄い」


「さっき解いたからな。解説も熟読した」


「感動して損した」


「辛辣……!」


 気のせいか、昼間から時折五十鈴さんの当たりが強い気がする。最も表情を見るに、完全に冗談、揶揄っているだけっぽいが。


 テキストを返して、自分の勉強に戻ろうとした。

 だが、五十鈴はこちらを見続けたままだ。真剣な視線に、少しだけ身構えてしまう。


「昼間、お父さんと何話してたの」


「うーん……身の上話?」


「なにそれ」


「いや、親父さんがあの病院で昔働いてた、とか。お前のお母さんとの出会い話、とか」


「本当に身の上話ね……」


 意外だったのか、少し五十鈴は驚いている様子だ。

 実際にはそれだけではなかったが、少なくとも嘘は言ってない。


「そっちこそどうなんだよ。親父さんと話したのか?」


「話すようなことないもの」


「そんなことないだろ。とりあえず、これからのこと、とか。親父さん的には、お前を地元に戻そうとしているみたいだけど」


「戻らないわ」


「いや、そりゃお前の気持ちはそうなんだろうけどさ……でも、ちゃんと話さないといけないことだろ」


「それは……そうだわ。うまくできる自信はないけど」


 リズミカルだった言葉のテンポがいきなりおかしくなった。五十鈴自身、父親との関係を何とかしたいという気持ちはあるのかもしれない。


 少しだけ傲慢になってみる。身の丈の合わないことをしてみる。それは相手が他でもない五十鈴美桜だから。わかっていても止められなかった。


「親父さん、だいぶ五十鈴のこと気に掛けてるみたいだったぞ。ちゃんと話せばわかってくれるって。――なんて、俺が言うことじゃないけどな」


 真っ直ぐに五十鈴の目を見つめながら言い切った。顔から火が出そうなくらい熱い。


 五十鈴は何も言わない。じっと見つめ返してくるだけ。


「……うん、わかった。一回連絡してみる」


「ああ」


 その答えにホッと胸を撫で下ろす。違う反応も頭にあった。完全な拒絶、それが何より恐ろしかった。


 再び、のんびりとした空気が流れ出す。五十鈴の様子がさっきよりも軽やかに見えるのは、俺の気のせいだろうな。

 なんかいいな、こういう時間——心はとても穏やかだった。


 だが、ここは根津家である。


「何してるの、瑠璃ちゃん」


「げっ、お姉ちゃん……今いいところだからじゃま——」


「なーにしてるのかな、瑠璃ちゃんは」


 騒がしさに目を向けると、入り口で愛する我が姉妹が揉めていた。妹君の方は、どう考えても覗きだ。参考例として事典に載せたい。


「ひぃっ、ご、ごめんなさい。お兄ちゃん。ち、違うんです、別に覗き見とかではなく。た、たまたま飲み物でも飲もうかなーと思ったら入りづらくて」


「とりあえず、こちらの方で話聞くから。菫姉、そんな感じで」


「オッケー。さ、瑠璃。おこごとの時間だよー」


 こういうとき菫姉は鋭くて助かる。身内の不始末には、かなり厳しいお方なのだ。その割には、キッチンで大暴れするのに。


 根津家の日常風景を、五十鈴は微笑ましそうに見ていた。

 いっそのこと、参戦してもらうのも悪くない。その微笑みに、ぼんやりと思い浮かべるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る