第102話 接近

 この場所では、いつも誰かの後ろを引っ付いてばかりだ。

 目の前のビシッとしたスーツ姿にそんなことを思う。

 まあ何一つ勝手がわからないんだから仕方ないんだが。


 雄哉さんについてやってきたのは、たくさんの椅子と机が並ぶ大部屋だった。ちらほらといくつかの席は埋まって、談笑する声が小さく響いている。

 ラウンジ—―いまいち使いなれない言葉が頭に浮かんだ。


「何か飲むかい?」


 入り口の自販機前で、ようやく雄哉さんがこちらを振り返った。手には年季の入った小銭入れを握っている。


「いえ、そんな申し訳ないです」


「遠慮しないでくれ。と言っても、大したものではないがね」


 冗談めかした口調で言うと、雄哉さんは少し目を細めた。

 五十鈴といたときよりも雰囲気が柔らかい気がする。もう少し怖い……厳しい人だと思っていた。

 町の人たちから好かれるいいお医者さんなんだろう。なんとなく、そう感じた。


 結局、勧められるがままに、俺も飲み物を買った。

 お互いに湯気の上がるカップを手にして、手ごろな席へと移動する。


 改めて向き合うと、緊張がピークに達した。いやもう限界突破、青天井、鰻登りでてんやわんや。自分の父親と同じくらいの年齢の大人というだけでも十分なのに、加えて五十鈴のお父さん。魔王を超える大魔王みたいなもんだ。


「昔ここで働いていたことがあってね。美沙みさ――美桜の母親との出会ったのもこの場所だ」


 感慨深げに言って、雄哉さんはコーヒーを啜った。ほぅと息をつくその姿は、昔を懐かしんでいるようだった。


 話しの切り口が、あまりにも予想外過ぎて戸惑ってしまう。待合室の一幕の言い訳でいっぱいだった頭の中に、少しずつ隙間が広がっていく。


「お医者さんなんですよね。診療所をやっているとか」


「ああ、しがない町医者さ。結婚を機に地元に戻った。父親の跡を継ぐ必要もあってね。今でも思うよ。その選択は正しかったのか、と」


 雄哉さんが、ぐっと拳を握る。俯くその先には、紙コップがあった。黒い液体の中に果たして何を見ているのか。少しの想像すらもつかない。


 賑わうラウンジの中で、俺たちのいるテーブルだけが隔絶されていた。重苦しい雰囲気が漂い、周りの音がひどく遠く聞こえる。


「なんて、君にする話ではなかったな」


「いえ、そんなことは……。あの、いす――美桜さんから聞きました。お母さん……奥さんが亡くなったときのこと」


「そうか。あの子はそんなことまで君に話しているのか。もう十二年前のことだ。あの頃の私は毎日のように仕事に追われていて、家庭を顧みないダメな父親、夫だった。こんなことを言えば、また美桜には嫌な顔をされてしまうだろうね」


 卑下するような言い方をして、五十鈴の父親の顔が少し歪む。強い苦悩が滲み出ている。初対面の時の鉄仮面はどこにもない。

 遠くから見ている分には冷静沈着で何事にも動じなさそう。だが、近づいてみれば、人並みに――それ以上に人間臭い。やはり二人は親子なんだ、となんだか妙に納得してしまう。


 ただひたすらに、向こうから言葉が出てくるのを待つ。重たい沈黙が続く。目の前の思い悩む姿を目に焼き付けるように見届ける。

 それくらいしか、できることはない。この吐露に対面すべきは、決して自分ではないのだから。


「父親の私が言うのもなんだか、あの子は本当にいい子でね。幼くして母親を亡くしたというのに、泣き言一つ言わなかった。それで勘違いしたのだろうね。いや、甘えていたんだ。その虚勢に。結果として、一番多感な時期に寄り添ってあげることができていない」


 そんなことはないです――なんて、どこまでも軽い言葉なのだろう。でも俺には、この人がそんなにひどい父親には思えなかった。娘のことを誰よりもよく考えている。それは確かに伝わってくる。


 ふと、両親の声が聞きたくなった。今は海外で暮らしているあの二人が、俺たち三姉弟のことをどう思っているのか。離れる選択肢をどうして取れたのか。今まで少しも気にしていなかったことが、心の中で膨らんでいく。


 しばらく項垂れていた雄哉さんがようやく頭を上げた。ふーっと気持ちをリセットするように息を吐くと、紙コップを勢いよくあおった。


「回りくどいのはここまでにしようか。――君は美桜とどういう関係なんだ?」


 雄哉さんの目に鋭い光が宿る。


 いきなり核心。達人じみた踏み込み。刃が喉元に突き付けられているかのような緊迫感が蘇ってきた。

 まさしく、俺が覚悟していた話題でもあった。でも決して待ちかねていたわけじゃない。全くもって、ノー歓迎。


「どうやら、美桜の方はかなり君を信頼しているようだ」


「え、ええ。そうですかね……」


「まあこれはただの直観めいたものだが。さっきだって、ねえ」


 あえてぼかすことにより圧を与える高等テクニック!


 効き目は抜群だ。とてもよく自覚があるから。あのときの恥ずかしさが、ありありと蘇ってくる。

 こうなると、温かいコーヒーを選んだのは失敗だった。今これで喉を潤そうとしたって、火に油を注ぐようなものだ。俺はなんとかして、この熱を収めたいんだ。


 改めてよく考える。何とか言葉を吟味する。

 だが、結局は俺とあいつは特別な関係じゃない。雄哉さんが訝しがるようなことは一切ない。

 クラスメイトで部活仲間。ここまでくると、もしかすれば友人と呼んで差し支えないかもしれない。


 そういう表現ならいくらでもできるだろう。

 でもたぶん、この人が待っているのはそういう言葉じゃない。求められているのはそういう態度じゃない。

 俺自身も、いい加減このあやふやな気持ちにケリをつけたいと思ってる。


「大切な……存在です。それは別に同級生だからとか、部活が同じとか、今一緒に暮らしているからとか、そういうことじゃなくて」


 自分の気持ちをまとめながら話す。我ながらたどたどしいと思いながら、しどろもどろだと思いながら、それでもしっかりと言葉を紡いでいく。目の前の人物への答えとしてでなく、自らの決意を固めるものとして。


「――そうか。美桜のこと、よろしくお願いします」


 やや間があって、五十鈴のお父さんが深々と頭を下げてくる。


「はい」


 その短い言葉を、今までの人生で一番力強く言うことができた。




        ※




 がらんとした部屋に一人取り残されてどれくらい経っただろうか。

 やろうと思っていた問題集のページが少しも変わっていないところを見ると、全く時間が経っていないのかもしれない……だったらどんなによいことか。原稿こそ無事に上がったものの、今度は期末テストがピンチだ。


 それでも、ペンを持つ気力は湧かない。しづ子さんの手術の行方、そればかりが気になってしまう。


 PHSに連絡が来て、五十鈴とお父さんの二人は部屋を出ていった。さすがにデリケートなことなので、俺の方はここで待つことに。

 一応、ほぼ予定時間通りに終わったのだから、なんともなかったとは思うけど。でも、ここまで空白の時間が続くと心配にはなる。


「お待たせ」


 もう何度目かの思考を繰り返していたところ、ようやく扉が開いた。もう二度と開かないと思ってすらいたけど、扉の動きはスムーズだった。


 五十鈴が近づいて来るのを待たず、俺は立ち上がって彼女の方へ。そのときになって、雄哉さんの姿がないことに気が付いた。


「どうだ——」


「うまくいったって。おばあちゃん、よくなるって」


 こちらが言い終わらないうちに、五十鈴が勢いよく抱き着いてきた。その言葉には、涙が少し交っていた。


 とりあえず、黙って泣かせてあげよう――多少気後れしたが、その頭を軽く撫でてやる。見た目以上に、その髪はサラサラだった。


 堰を切ったように、五十鈴美桜が泣いている。それは、あの本屋での小部屋の一幕よりも激しく、全ての不安を押し流そうとするように。


 よかった――と、俺は心の底から安堵した。すぐに、いつもの姿を取り戻してくれるとは思わないが、少しずついい方向には向かっていくだろう。そんな予感がした。


 ――ぐう。


 今の雰囲気に似つかわしくない音がする。


 ピタッと、五十鈴が泣き止んだ。おずおずと顔を上げて、こちらを見る。

 器用だなぁ、と間延びした感想が浮かぶ。現実逃避気味に。


「根津くん?」


「…………すみません」


「サイテー」


 赤い顔で涙を浮かべながらも微笑むその姿は、どこまでもいじらしく美しかった。

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