第96話 実像

 腰を下ろすと、一気に疲れがやってきた。とりあえず、しばらくは動きたくない。心だけでなく、身体もかなり悲鳴を上げている。

 作業というのは、本屋らしい仕事ではなかった。バックヤードの整理。勝手がわからない俺は主に荷物運び。

 普段は体育の授業が関の山な俺にとっては、かなりの重労働だった。少しは筋トレとかするべきだろうか……。


「おつかれさま。妙なことに巻き込んでごめ――」


「それはもう聞き飽きたって。別に無理やりやらされたってわけじゃないしな。俺が自分から手伝いたかっただけさ。金と早く帰るためにな!」


 あえて大げさな言い方をすると、五十鈴の表情が少しだけ緩む。前で組んでいた手を解くと、そのまま首筋の辺りを触れた。


「そっか。じゃあありがとう。根津君のおかげで予想してたよりも早く終わったわ」


「なによりだ」


「ちょっと待ってて」


「あ、ああ」


 髪ゴムを外すと、五十鈴が部屋を出ていった。声をかける暇もなかった。遮るように、静かに扉が閉まる。


 本日二度目の展開。この本屋の人たちはかなり行動的なようだ。

 やはりすることもなくて、少し部屋の中を見回してみる。


 文芸部の部室よりも少し広いくらいの大きさだ。作業を始める前にも、一度案内された。さしあたっての荷物置き場として。

 中央に縦長のテーブルが一つ。椅子は両側含めて八つほど。壁には棚がいくつか並んでいる。

 いわゆる事務所なのか、休憩室なのか。奥の方にもうひとつ部屋があるらしい。謎の扉がある。


 あいにく暇をつぶせそうなものもなくて、俺はスマホを取り出した。もう結構いい時間だ。夕飯は、帰りのスーパーで適当に出来合いのものを買おう。

 その旨を家族グループに流す。正確には、今一緒に暮らしている三人だけのグループだ。両親を含めたものは別にある。もっと言うと、現在のメンバーは四人になっていた。

 俺の贈ったメッセージに、一件だけすぐに既読が付いた。


 背もたれにぐっと身体を預けて、長く息を吐きだす。身体を伸ばしてみれば、あちこちに、かなりダメージが蓄積しているのがよくわかる。ポキポキと鳴るのがどこか心地よい。

 久しぶりの肉体的疲労に、つい夏の日々が蘇ってくる。連鎖するように、文芸部に入ってからのイベントの数々。

 俺の日常はこんなにも充実していたのか――


「飲み物と甘いものを買ってきたわ」


 物思いに耽っていたところ、不意に入り口のドアが開いた。

 ゆっくり視線を向けると、五十鈴はコンビニの袋を提げていた。示すようにちょっと持ち上げてから、そそくさと俺の隣りに座った。


「おー、助かる。――ミルクティーか」


「コーヒーの方がよかった?」


「いや、一息つければなんでもいい。ありがとな」


 受け取ったロイヤルなパッケージのペットボトルの蓋を開けた。上品な甘さで飲みやすい。いい感じに気分がリフレッシュしていく。

 五十鈴の目の前にも同じものがあった。なんならそれが一番のお気に入りの銘柄だということを、今の俺は知っている。

 ついでに受け取った小分けのチョコレートも口に運ぶ。疲れた身体には甘いものがよく効く。空腹にいきなり糖分をぶち込むと少し不安だけど。五十鈴さんの方は気にせず、パクパク食べていますが。


「伶佳さん、もう少しかかるって」


「そうか」


「夕飯の準備、大丈夫?」


「帰りに弁当と総菜買うだけだから」


「みたいね」


「一緒に考えてくれればなによりっす」


「頑張る」


 不慣れな場所のはずなのに、不思議と居心地の悪さは感じない。隣りにいる人物のおかげだろう。この淡々な感じが本当にしっくりくる。


「五十鈴はさ、いつからここでバイトしてるんだ?」


 自然と言葉が出た。穏やかな雰囲気。二人しかいないという安心感。今なら、気兼ねなく話ができる……と思う。


「高校入ってすぐからかな」


「そんなに早くから」


「高校入ったら、ここでバイトしようって決めていたの。伶佳さん、お母さんの知り合いでね。ここにも、お客さんとして何度も来たわ。いつもあの人はキラキラ輝いていて、本屋さんでも仕事って本当に楽しそうで。憧れ……みたいなものかしら。それに、本も好きだからちょうどいいかなって」


 いつも通りの語り口調だったが、言葉の端々に感情が滲み出ていた。喜び、熱意、真剣さ……そういう綺麗な気持ちが。

 その姿が、とても眩しく映る。今まで見た彼女の中で、一番生き生きとして見えた。つい見とれてしまうくらいに。


「どうしたの?」


「……いや、別に。ただなんか、凄いなぁって」


「凄い? 全然そんなことないと思うけど」


「そうやって好きなものに一直線なのがさ。文芸部の活動にしたってそうだ。普通は、なんかこう、もっと……色々あるじゃん、高校生って」


 自分の感じたことと、発した言葉がぴったりとは重ならない。それがひどくもどかしい。何か違った言い方があるはずなのに。


 五十鈴が少し黙り込む。俺のちぐはぐな言葉の意味を、吟味してくれているのかもしれない。

 その姿を見て、不意に『特別』という言葉が浮かんだ。頭の中で、次第にそれは存在感を増していく。


「でも根津君だって、弓道がそうだったんじゃないの? あるいは、野球とか」


「どうだろうな。少なくとも、今の俺はそのどっちも続けてないから」


「だとしても、一度好きだった気持ちがなくなるわけじゃない。憧れに向かってした努力は決して消えない……って、私は思うけれど。だからその、私だけが凄いってことはない。みんな、同じよ。――そう言ってもらえたのは、嬉しいけれど」


 五十鈴にしては、やけに饒舌だ。最後の方は、微かに顔が赤くなっていた。そっぽを向かれたが、見逃さなかった。


 でもたぶん、感情的になっているのは俺も同じだ。さっきから、少し身体が熱い。

 そうした考えもあるのだと、相手の言葉がよく腑に落ちた。どこか胸がスッキリする。その問題は一度折り合いをつけたというのに。


 俺の中の五十鈴美桜像というのは、ずっと朧げだった。でも、日を経るにつれ曖昧なところは減っていく。それが今、ここにきて確かな輪郭が見え始めてきた。そんな手応えがあった。


 部屋が静かすぎるというのも考えものだ。距離が近すぎるというのも。

 動揺が向こうに悟られていないかと不安になる。話を続けるのが、ひどく難しく感じてしまう。


 それでも自分の中の熱が収まるのを待って、さらにその像のあり方を掴もうとする。躊躇う気持ちはなかった。


「あのさ、もう一つ訊いていいか」


「うん」


「やっぱり俺は、最近のお前の様子がおかしいと思うんだ。その、なにかあったのか?」


 はっきりと相手の目を見て、確かに言葉を口にした。

 こんなにも気になるのは、とても身近で大切な存在だからだ。そういう結論に至った。今日この瞬間に。

 だから、俺にできることなら力になりたい。さっきの一幕のように。


 少しだけ五十鈴の視線が下を向く。やはり訊くべきではなかったのか。迷いが心に広がっていく。でも、決して顔を背けてはいけない。


 やがて、五十鈴が再び目を合わせてくれた。


「…………実はね、おばあちゃんが手術をすることになったの」


「そう、だったのか……おばあさん、そんなに悪かったんだ」


「すぐに命に係わるようなものじゃないらしいんだけどね。手術自体もそこまで危険なものじゃないって。でも私、心配で。もしおばあちゃんに何かあったらって――」


 ボロボロと、その表情が崩れていく。学校で見る顔も、家で見る顔も、どちらも存在しない。

 まるっきり初めて見る姿。とても五十鈴美桜とは思えない弱々しい姿。


 小さな肩が震えている。長い黒髪が揺れいている。しきりに目の当たりを指で拭っている。

 全体は見えなくても、明らかに泣いていた。激しさはなく、ただ静かにさめざめと。


 こういうとき、俺はどうしたらいいかわからなかった。

 絶望の淵にいる人間にかける言葉を持ち合わせていなかった。振る舞いを弁えてはいなかった。

 ただなんとかしたいと、気持ちだけが胸に募っていく——


「……ねづくん」


「どうした? 俺、出てた方がいいか」


「ううん、ここにいて。て、にぎってほしい」


 こちらを見上げる目は真っ赤で、伸ばした手は震えている。

 泣き声混じりで、とても弱々しくて。

 でも、確かにちゃんと聞こえた。


 そっと、手に触れる。柔らかい感触があって、仄かに温もりを感じる。思っていたより小さくて、思っていた以上に繊細だった。どこまでも慎重に、そっと両手で包み込む。


 あとはただ、五十鈴の啜り泣く音が聞こえるだけ。俺は手を握ったまま、黙って見つめることしかできなかった。

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