第97話 雨上がりの気持ち

 機械音声が次の停留所を告げて、反射的に停車ボタンへと手を伸ばす。


「――悪い」


「ううん、私こそ」


 空中で隣りの人物と手がぶつかった。バツの悪さから、慌てて手を引っ込める。向こうも何事もなかったかのように、お行儀良く座っていた。両手を膝に乗せ、背筋はピンと。

 考えてみれば、今のが本屋を出て初めて聞いた五十鈴の声だった。そもそも会話自体もほとんどなかった。事務的なものばかり。どれも、相手は無言で頷くだけ。


 車内の音は、バスの駆動音だけになった。窓の景色は静かに変わっていく。もうすっかり夜が来ている。


 結局、ボタンを押さないと晩飯抜きだ。うちで、おなかの空かせた妹が待っているんだ――


「次止まります」


 覚悟を決めた矢先にボタンが赤く光る。矢継ぎ早に渋い男性の声が響く。

 爪先が微かに触れていたのに……惨めに感じて、ついそのまま固まってしまう。

 そのうちに、五十鈴がこちらに顔を向けてきた。一見すると無表情だが、何か含みを感じてしまう。


「なんだよ」


 低い声で尋ねると、相手は小刻みに首を横に振った。そして、今度は窓の方へと視線が向く。


 こんな風に、すっかり五十鈴さんは無口モードなのだ。まあ、その気持ちはわからなくはないけれど。


 ほどなくして、バスを降りた。そのまま二人で行きつけのスーパーを目指す。

 雨はすっかり止んでいた。時間帯も相まって、少し肌寒い。そんなに歩かないとはいえ、ちょっとだけ面倒になってきた。


「やっぱり先帰ってればよかったのに」


 ちらりと振り返る。バスに乗る前に同じことを訊いていた。

 そもそも、もう言ってもしょうがないが。ここまでくれば、家まで少し歩くことは確定。


「一緒に考えて、って根津君が言ったのでしょう」


「あれはその場のノリってやつだ」


「ごめんね、そういうのわからなくて」


 ちょっとムッとしたような言い方だったのは気のせいか。とりあえず、表情に変化はないが。

 それにしても、意外と会話が続いた。てっきりまた、顔の動きだけで終わらせられると思ったのに。


 何か返そうかと思ったが、止めておいた。すでにスーパーの敷地内に入っていた。入り口はすぐそこだ。


「さ、パッパと決めて早く帰るぞ。刻一刻と瑠璃様の機嫌は悪くなっていく」


「それは恐ろしいわね」


「米は炊くよう頼んだから、おかずだけ選ぼう」


「わかった」


 カートにカゴを載せて、総菜コーナーへ。下の空いているところに、俺たちはそれぞれ荷物を置いた。


 売り場の中を、薫風高校の制服姿が忙しなく動き回る。俺は付き人のように、ひたすら従うのみ。

 基本的に、選ぶのは五十鈴にお任せだ。瑠璃と好みが近いので、この方が角が立たないだろう。


「あ、これとか美味しそう」


「えー、カニクリームコロッケかよ」


「あなた、嫌いだった?」


「そうじゃないけど、白飯にあうかというと……」


「じゃあ牛肉コロッケにしましょう」


「まあそれなら……」


「微妙そうね」


 五十鈴さんは伸ばした手を空中で引っ込めてくれた。


 とまあ、時には俺の意見も反映してもらう。このころには、もうすっかり五十鈴とのコミュニケーションはすっかりいつものに戻っていた。


 空っぽだった買い物カゴが今やすっかり充実している。見ているだけで、さらに空腹が加速する。


「ふぅ、こんなものね」


「いいんじゃないか。いくらか、明日の弁当にも回せそうだし」


「瑠璃さんに満足してもらえたらいいんだけど」


「私が選びました、文句ある? って強気に行けば大丈夫さ」


 せっかくのアドバイスは無言で封殺されてしまった。少しずつ調子を取り戻しているらしい。


 そこに安堵を覚える。五十鈴の心配事が残ったままなのはわかっている。それは誰にもどうにもできないものだ。

 けれど、少しくらいはその負担が和らいで欲しい。独りで悩まないで欲しい。話を聞かせて欲しい。

 あの感情の発露を見て、俺は強くそう思う。


「それで、みおちゃんやい。お菓子は買ってかなくていいのかい?」


 心のつっかえが取れた思いで、揶揄い半分に尋ねてみる。こいつのお菓子好きは折り紙付きだ。一緒に買い出しに来ると、いつもかなりの時間をかけて吟味する。


 しかし、なぜか今日の反応は鈍かった。どこかその顔は驚いているように見えた。


「どうした?」


「……う、ううん。なんでもないから気にしないで。いいの、買っても」


「一つだけだぞ!」


「はい」


 五十鈴は大真面目な顔をして頷いた。

 いや、ただボケただけなんだけど。高校生にもなって、お菓子は一つだけなんてどれだけ厳しい家庭だよ。


 前を行くクラスメイトの足取りは軽やか。理由はともあれ、ちょっとは元気そうな姿を見れてよかったとは感じる。


 カートに身体を預けながら、五十鈴の真剣な作業風景を見守ることに。

 総菜を選んでいるときより機敏だ。棚に並ぶ数々のパッケージを見比べては、ときおり考え込むように立ち止まる。顎を指で叩いたり、首を傾げてみたり、いつもより仕草が大げさだ。

 こういうところは、本当に子供っぽいよなぁ。遠巻きに見ている分には、とてもしっかりしている風なのに。まあそこが、親しみの持てるところなんだけど。


 やがて、候補を絞り込んだらしい。大きいパッケージを二つ持って、こちらに戻ってきた。マジでお菓子をねだる小さな子供じゃないか、こいつ……。


「根津君はどっちがいい?」


「好きに選びな」


「決めかねてるから、訊いてるの」


「だったら――」


 五十鈴の持つ二つの商品を奪ってカゴにシュート。悩んでいるところをつい面白くて眺めていたが、もとより好きに買わせるつもりではあった。

 根津家にとっても、こういうお菓子は重要なブツなのだ。


「いいの、両方?」


「金を出すのは菫姉だからな。というか、いつも気にしてないじゃないか」


「そうだけど、さっきは一つだけって……ああ。あれは冗談だったのね」


「逆に訊くが、今まで制限をかけたことあるか」


「ないけど……さすがに、遠慮しなきゃなのかなって」


「そんなこと菫姉は気にしないさ。別に、お前ひとりが食べるわけでもないだろ。いつも言ってるよ、『美桜ちゃんはセンスいい』って。もちろん瑠璃もな」


「そうなんだ」


 どこか五十鈴は嬉しそうである。いきなり褒められたからか、それとも欲しいお菓子が買えたからか。普通に考えたら前者だが、こいつの場合後者も普通にありえそうなのが恐ろしい。


 とにかく、これでようやく買い物も終わりだ。まあだいたい予想していた時間。今のところ、瑠璃から催促するようなメッセージはない。


 会計も済ませて、二人で協力して買い物バッグに品物を詰めていく。


「根津君、あの、ありがとう」


「……なにが?」


 作業中、唐突に五十鈴が話しかけてきた。こちらを見ることなく、手を絶え間なく動かしながら。


 本当に心当たりがない。だから俺も、手は止めず答えた。


「話、聞いてくれて。励ましてくれて、嬉しかった」


「励ました覚えはないけどな」


「ううん。そんなことない」


 ここでようやく五十鈴が手を止めた。

 つられて、俺は顔を上げた。

 五十鈴はじっとこっちを見ていた。その顔に、あのときの涙の痕跡は微塵もない。代わりに、柔らかな笑みが浮かんでいる。


「ちょっとだけね、気持ちが楽になった。誰かに――ううん、あなたに聞いてもらえてよかった。もっと早くに、話せばよかったかな」


「……まあ、少しは元気になったみたいでよかったよ。菫姉もかなり心配してたから」


「そうなんだ。それは申し訳ないことをしたわ」


「気にすんなよ。そんなことより、あんまり無理するなよ。どうしても辛いときはその……また話聞くから」


「うん、そうする。よろしくお願いします」


 突然頭を下げられて、思わずドギマギしてしまう。あまりにも素直すぎる五十鈴の姿になれるのは、しばらく先のことかもしれない。


「あのね、よかったら一つお願いがあるんだけど」


 動揺しているところに、何か予感めいた言葉が飛んでくるのだった。

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