第95話 天の助け
「……最悪だ」
正面の窓にポツリポツリと水滴が打ち込まれていくのが見えて、俺は思わず声を上げてしまった。
それが契機となったようだ。部屋にいる他の人間も一斉に動き出す。
室内の雰囲気はあっという間に緩まった。まあ経過時間的にも良い頃合いだったのだろう。
「予報通りだねぇ」
「えー、ホントですか? あたし、そんな予報見なかったなぁ」
「うん。今日は晴れだって言ってたよね……」
謎にガールズトークが始まった。こうなると肩身が狭い。たとえ話題が、ごく一般的世間話の範疇だとしても。
手持無沙汰も相まって、俺はスマホで今日の天気を確認してみた。
……真っ先に目に入ったのは、一日晴れなんですけど。色々見れば違うのかもしれないが、なにせ発言者が発言者なだけに。
何とも言えない気分で、その方を見た。室内で最もしっかりしたデスク。部屋の主に与えられるそこは、今日は珍しく埋まっていた。
「お、なんだいなんだい、ねづこーさんよぉ。何か文句があるってのかい?」
「いや、ないっすよ。ただ久しぶりだってのに、部長殿はいつも通りだな、と」
「いやぁ、そんなに褒められると照れるよぉ」
この通り、今日も文芸部部長は絶好調なのだ。さらに悪いことに、今日はこの暴挙を止められる存在はいない。この人がいて、なぜ静香先輩はいないのか。
ぐっと伸びをしてから、再び窓の方に視線を向ける。
水滴の数は先ほどよりも増えている。少しずつ降り方が強くなっている気がする。
自転車で来てしまったことを思って、気分がまた少し落ち込んだ。
「そうだ、こーすけ君。みおっち迎えに行ってあげてよ」
「……なんすか。突然」
「あの子たぶん傘持ってないからさー」
「はぁ。いや、なんで俺が」
「帰る場所同じなんだからいいじゃん。そんなに手間じゃないっしょ」
「……まあ、確かにそうですけど」
文芸部の中では、五十鈴が根津家に居候しているのは周知の事実だ。割と早い段階でバレてしまった。
半ば不可抗力だったが、今でもなんとか秘密にできなかったか、と後悔はしている。特にこの人にバレたのが痛い。
「あの美紅先輩。あまりその話題を持ち出されるのはちょっと……」
「えー、別にそんな必死に隠すようなことでもないじゃん?」
「ありますよ! こんなことクラスの連中に知れたらどんなことになるか……ただでさえ、友人の一人が熱狂的五十鈴マニアだってのに」
「いすずまにあ……」
「望海ちゃん、凄い顔になってるよ!」
なぜ俺が冷たい目を向けられないといけないのか。それは、ぜひ我がクラスメイトに向けてくれ。
「とにかく、秘密でお願いします。二人もな」
「わかってますよー」
「はい。そもそも、言いふらすようなことでもないですし」
うんうん、二人ともいい子だ。そもそも、初めから心配してなかったんだけど。でもこうして確認できてよかった。
だが、もう一人のほうから返事はない。まさかこの人もしかして――
「……ベラベラ喋りましたか」
「うんにゃ。今のところは」
「あの、なんですかね、今のところはって」
「だってわかんないじゃん。二人に愛が芽生えて、実は本当に同棲し始めたーとかになるかもしんないじゃん。いや、もしかしたらすでに。こーすけ君のみおっちを見る目に変化があると思ってたんだ!」
「え、そうなんですか、根津先輩!」
「待て待て待て、三田村、お前そんなキャラか。そもそも、今の発言に何ら信憑性はないぞ。この人の感想だけで構成されてる」
まさか、火のないところに煙を立てようとしてくるとは……。本当にそこが知れない人だな、現文芸部部長は。
「ま、あたしだってね、良識はあるから。ちゃんと、心のうちに秘めてますとも!」
「だったら初めから変なこと言わないでくださいよ……」
うんざりして、俺はソファへと沈み込んだ。妙な発言のせいで、もうくたくただ。
「あらら、だいぶお疲れモードだ。もう今日は上がった方がいいんじゃない?」
「誰のせいだと……」
「誰のせいでもないよねー」
のほほんと言って、部長は湯飲みに手を伸ばす。どこまでも自分のペースを崩さない人だ。
呆れ半分、尊敬半分でため息をつく。そして、話の方向性を正しいものへと戻すことに。
「で、迎えにってなんですか。あいつ、今日はもう帰ったんじゃ」
「違うよ? バイト先に顔を出すって言ってたかな」
「……あいつ、バイト再開したんですか?」
「うーん、ちがうっぽい。というか、同棲してるのにそんなことも知らないんだ」
「同棲言うな」
きゃー、とか、ひゃーとか、黄色い声が向かい側のソファから聞こえてくる。ちらりと視界入った一年生ズの顔は、どちらも微かに赤い。すっかり、美紅先輩のせいであらぬ風評被害が……。
雨音がさっきよりも大きく聞こえる。確かにこの雨だと、傘なしで帰るのは苦労するかもしれない。
気持ちは、少しずつあいつを迎えに行く方に傾いていた。菫姉にああ言っておきながら、今日までちゃんと話す機会を持てていなかった。
ちょうどいいかもしれない。家や学校じゃ、やはりなかなかきっかけが難しい。
しかし、それには一つ大きな問題がある。
「あの、そもそも俺今日自分の傘すらないですけど」
「それならだいじょーぶ! ほら!」
美紅先輩がデスクの一番大きな引き出しを漁り始めると、ほどなくして黒い折り畳み傘が一つ出てきた。続いて、もう一本、女性用らしい可愛いものも現れる。
「準備いいでしょー、あたし。ほら、もっと讃えて」
「――今までずっと忘れてただけでしょうに。だらしないの間違いだよ」
美紅先輩が自分の手柄を誇るのと、部室のドアが開いたのはほぼ同時だった。
声の主がそそくさと入ってきて、部長机の前で仁王立ちを決める。
「げえっ、しずかっち! なぜここに」
「講習をサボった親友を迎えに来たのよ。塾までサボらないように」
「やだなー。あたしが菫ちゃんの授業休むわけないじゃん」
「今日は菫先生じゃないでしょ」
副部長の鋭い一言に、部長はすっかり黙り込んでしまった。やはり、美紅先輩にはこの人をぶつけるのが効果的だ。
惜しむらくは、もう少し早く登場してくれればよかったのに。
※
青信号を渡って、ようやく目的地へと辿り着いた。傘を少し上げて、改めてその建物を見上げてみる。
ここを訪れるのもずいぶんと久しぶりな気がする。
俺と五十鈴の因縁の場所――いや、俺が一方的にそう思ってるだけだが。あの日麻雀に負けなければ、誰かがあのふざけた罰ゲームを提唱しなければ、こんなに訪れることはなかったのだろう。
静香先輩が来たのを合図にして、文芸部の今日の活動は終了した。後者を出るまでは五人一緒。そのあとは、こうして雨の中をひたすら一人で歩いてきたわけだ。
店の中には、意外と客がいた。雨の日だというのに意外と盛況。いや、だからこそなのか。そもそも、雨と本の売れ行きの相関関係なんか知らなかった。あいつなら、ばっちり知っているのだろうか。
店内を一通りめぐってみたが、目当ての人物の姿は見当たらない。
一応来る前にメッセージを入れておいたが、反応はなかった。それで、てっきり仕事中とでも思っていたのだが。
もしかしたら、すでに帰ったあととか。学校が終わってから、結構時間は立っている。こちとら、部活を終えたばかりだし。その終わりはいつもよりは早かったけど。
メッセージに気が付かないのは、まあよくある話だ。
誰かに聞いてみようか。もう一度店の中を練り歩いて、なるべく責任者っぽいシルエットを探す。
「あのー、すみません。ちょっといいですか」
「はい、なにかお探しですか?」
話しかけたのは、仕事ができそうな雰囲気のスラッとした女性。年齢は……どうだろう。菫姉よりもかなり上だとは思う。いや、アレはあまりさんこうにならないか。
その雰囲気は、どことなく五十鈴に似ていた。遠目から見ているときの、あのきりっとしたクールな感じ。
よく考えながら、言葉を続ける。
「ええと、五十鈴――五十鈴美桜って、まだいますか?」
「あら、君は……その制服、美桜と同じ高校の子ね。お友達、いや、もしかしてかれ――」
「ただの部活仲間です」
物騒な言葉を感じ取って、先手を打った。全く、めったなことを言うのはやめていただきたい。
こちらの食い気味な返しに、店員さんは優しく微笑むばかり。かなり話しやすそうな人だ。少しだけ緊張が和らいだ。
「へぇ、文芸部にこんな素敵な男の子がいたんだ。初めて知った。美桜も教えてくれればいいのに」
「いや、あの……」
「ふふっ、ごめんなさい。ええと、美桜なら奥で作業してもらってるけど」
「そうなんですか。まだ時間、かかりそうですか?」
「うーん、どうだろう。ちょっと確認してくるわね」
「いや、別にそこまでしてもらわなくても――」
言い終わる前に、店員さんはどこかに行ってしまった。
一人残されて、少し途方に暮れる。仕事中というなら、傘だけ渡して帰ったのに。今回の本題はまさしくそれなのだから。
周りは難しい専門書のコーナーで、ぱっと見ても興味が持てそうなものはない。
だが、退屈な時間はそれほど長く続かなかった。
「根津くん?」
「おう」
声がして振り返ると、五十鈴がそこに立っていた。
制服姿で、珍しく髪を一本にまとめてある。店員さんがしていたエプロンは身に付けていない。
「雨だから迎えにきたんだけど……一応メッセ入れたんだが、気づかなかったか?」
「ごめんなさい。作業中だったから。——そうなんだ、ありがとう」
五十鈴が表情を緩めて、軽く頭を下げてくる。
「その、まだ時間かかるのか」
「もう少し、かしら」
「そっか」
なぜかいつもよりぎこちなくなってしまうのは、五十鈴の後ろの方で店員さんが見守っているからだろうか。その眼差しはなんだか温もりを感じる。
だからだろうか。俺は完全に言葉選びを間違った。
「何か手伝おうか」
その必要はない。さっき考えたばかりじゃないか。このまま傘を渡して帰ればいい、と。
でも、口を出た言葉はまるっきり違った。
「ううん、そんな悪いから」
「えー、うち的には男手があるとすっごく助かるんだけどなぁ」
「
「でも彼がこう言ってくれてるんだし、ねぇ。美桜だって、早く帰れるわけだし」
「はぁ、まあ、はい。俺は別に全然」
「だったら、お願いしようかしら。もちろん作業代は弾むわよぉ」
「伶佳さん……」
五十鈴は同じ言葉を繰り返したが、口調はまるっきり違っていた。どちらも、今まであまり聞いたことのない感じで新鮮だ。
この二人はどうやらかなり親しいらしい。おそらく、この人は店長……責任者なのだろう。だから、それなりの関係性にも納得はできる。
俺はまだまだ五十鈴美桜という女子のことを知らないんだ。改めてそう思う。
「根津君、変なことに巻き込んでごめんね。せっかく迎えにまできてもらったのに」
「いいって、気にすんなよ」
ついには、謎の労働に駆り出されることになったが、なぜか私はやる気に満ちているのでした。
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