第94話 助け舟
秋の夜長に執筆活動に勤しむ。うん、少し前の自分からは考えもつかないことだ。一年前の自分に教えてやったら、どんな反応をするだろうか。
コンコン。
なんて逃避的思考に取り掛かっていると、扉を叩く音が聞こえてきた。いいタイミングではある。
問題は訪問者が誰か、ということだが。まあ何となくアタリはつく。
「浩介君、ちょっといいかな?」
立ち上がろうとしたところ、ノックに続く形で声がした。幼いころからもう十二分に聞いた声音。
先の予想は見事に外れたというわけだ。
「ああ、大丈夫」
「失礼しまーす」
キャスター付きの椅子を回すのと、扉が開くのはほぼ同時だった。ちょうどよく、来客とばっちり目が合った。
菫姉は躊躇いなく部屋に入ってくる。とても真面目な表情で、いつもの気安い感じはない。
頃合いを見て、俺はクッションをテキトーなところへ放った。
少し調整してから、菫姉がその上で正座を組んだ。とても姿勢がいいのは、元弓道部ゆえか。でも、俺はこんなに綺麗には座れない。
きっと何か大事な話があるのだろう。最後にこうした雰囲気を見たのは、五十鈴を招くことに決めたとき以来……そう考えると、結構最近だな。
「で、ご用件は?」
「美桜ちゃん。なんだか最近元気がないと思わない?」
「……ああ、それか」
今日の部活でも話題になった件。あのまま有耶無耶にいなって、ここまで当人と話す機会はなかった。一度終わった話題を蒸し返すのは、割と精神的ハードルが高かった。瑠璃の目もあるわけで。
俺の答えが意外だったらしい。菫姉がちょっと驚いた顔をした。
しかしすぐに、その顔に笑みが宿る。かなりムカつく類いの。
「あー、気づいてたんだ」
「これでも同じ部活の仲間なんで」
「ふーん、仲間想いですなぁ」
「ニヤニヤするの止めろ」
だが、向こうはそのニヤケ面をすぐには正そうとはしない。煽るように身体を揺らしながら揶揄うような視線をぶつけてくる。「ほー」とか「はー」とか意味不明に呟きながら。
この女、そろそろ叩き出してやろうか。真面目に対応しようとした自分がとてもアホらしくなってきた。
「もういい。出てけ。こっちはやらなきゃいけないことがいっぱいあるんだ」
「そうなの? あ、もしかして勉強してた? それならお姉ちゃんが見てあげよっか。安くしとくよー」
「身内から金を取るな。いよいよ、脱線が激しくなってきたな……五十鈴の話はどこ行ったんだよ」
「うーん、浩介君も気づいてたならいいかなって」
「なんだよ、それ」
わけがわからない。あっさりした物言いに戸惑ってしまう。
すっかり拍子抜けだ。面倒ごとを押し付けられなかっただけいいが、かといって意図がわからないのも困る。
だが、やはり話は終わったのだろう。
菫姉はすっかり足を崩して、いつものゆるふわおねえちゃんモード(瑠璃命名)に戻っている。
こうなれば、確かに話は終わりだろう。
わざとらしくため息を吐き捨てて、俺は姉君に背を向けた。
一休みしていたのに、気分はモヤモヤしたまま。手元のタブレットに文字を打ち込む気力は湧かない。
少しして、菫姉が立ち上がるのが気配でわかった。
「それじゃ、美桜ちゃんのこと任せたから」
「いや、任せたって……菫姉の方が適任だろ」
再び椅子を回して姉と向き合う。今度は一転、俺の方が見上げる形……それはわずかにだが。
「あたしなんかより、同級生で部活仲間の根津君の方がいいってば」
「でもなぁ……」
「貴方だって心配なんでしょう?」
嫌になるほど図星だった。
部室での一幕以来、あいつの様子が気になっている。帰ってきてからも、それとなく様子を窺っていた。
結論、やはり本調子ではないと思う。何かを悩んでいるようなそんな感じ。
「だったらなおさら、ね」
言葉を返せないでいるのを、菫姉は肯定と受け取ったようだ。
「……余計なお世話じゃないか、そういうの」
「かもしれないけど、少し話をするくらいはいいでしょ。こうして、一緒に暮らしてるわけだし、心配するのは当然よ。それであの子が大丈夫だと言うのなら、大人しく引き下がればいい」
そこまで言うなら、やっぱり菫姉が話を聞けばいいのに。確かに、俺の方が付き合いがあるのは事実だ。
でも、菫姉だって一緒に暮らしているわけで。それも年長者で頼りがいがある。
そもそも、あいつに何か悩みがあるとして、相談役として適役なのは他にいる。美紅先輩や静香先輩の方が相応しい。もっとも、あの人たち最近部活に顔を出してはいないが。
部屋の中はすっかり静寂に包まれていた。
菫姉はずっとこちらを見つめて微動だにしない。弟が何かを発するのを待っているらしい。おそらく、本心を。
沈黙の追及が苦しくなってきて、俺から視線を外した。心を落ち着けるために、小さく息を吐きだす。
――結局、俺は恐れているのだ。
もっともらしい理屈を並べて、これ以上あいつに近づこうとするのを避けている。
これが中学からの悪友たちや、クラスの友人たちならここまで悩んだりしない。容赦なく、何かあったのか話を聞こうとするしできる。
でも、相手が五十鈴ということで、つい遠慮してしまう。
俺とあいつの関係性がよくわからないのだ。最悪な出会い方をして、なぜか今ではこうして共同生活を送っている。
ただ毎日のらりくらりやってきた結果だけど、振り返れば結構なことだ。半年前の自分では決して想像できないだろう。
「とにかく、あたしからのお願い――命令ということで。ちょっと美桜ちゃんに話を聞いてみて。いくらでも、ダシに使っていいから」
心の内を見透かされているような気がした。今の自分にこの上なくふさわしい大義名分だ。
つまるところ、行動あるのみか。五十鈴とちゃんと話してみないと何もわからない。
今までだってずっとそうしてきた。とりあえずやってみる。何か問題があったら都度考える。
ある意味では、それが俺の生き方だ。そうした積み重ねが現状に繋がったわけだし。ホント、なんで俺は文芸部に入って部誌の原稿を書いているんでしょうか。
「わかったよ。やってみる」
「ん、よろしい」
ポンポン。
姉の手がなぜか数回、俺の頭を触れた。とても優しい手つきで。とてもリズミカルに。
反射的に手で払い、頭を横に振る。
「止めろよ、子どもじゃあるまいし」
「えー、瑠璃ちゃんは結構喜ぶんだけどなー」
「嘘つけ。スキンシップ過剰だってウザがられてんぞ」
「…………それほんと?」
先ほどまでの頼もしい姿はどこへやら。
姉君の顔は今にも泣きだしそうなほどだった。いや、実際のところ少し目の端が謎の液体で滲んでいる。
ささやかな抵抗が、思いのほかクリーンヒットしてしまったか。まあ、いいクスリだろう。
というか、その辺割とあからさまだろうに。瑠璃は菫姉から子ども扱いされるのを何よりも嫌がる。そうした戦いを何度も目撃した。
「泣くならよそでやってくれ」
「ないてないもん! 別に瑠璃ちゃんにも嫌われてないもん! 今から確かめてくる!」
「勝手にしろ……と言いたいけど、ほどほどにな」
逃げるように出て行こうとする背中に、諦めがちに声をかける。
とりあえず、このあとのオチは容易に想像がつく。なるべく穏便に済ませて欲しい。
ドアの前で、菫姉がくるりとこちらを振り返った。
「そうだ。今なら美桜ちゃんリビングでゆっくりしてるよ?」
「そうか。まあ話は明日以降にするよ」
「意気地なし」
「うるせー。ちゃんと考えてあんだよ、こっちも」
菫姉はこちらを見ることなく、そのまま部屋を去っていた。ご丁寧にドアを全開にしたまま。
一人残され、そのままドアの先を見る。リビングにつながるドアは閉じたままだ。訪ねる者を頑なに拒んでいるようだ。
別に姉の言葉に触発されたわけじゃないが、リビングに行ってみることにした。左手にしっかり、空っぽのコップを持って。これまたもっともらしい理由づけ。
入ってすぐ、奥のソファが目に入る。同時に、そこに座る人物の姿も。
五十鈴は体育座りをして、組んだ腕の中に顔半分を沈めていた。どことなくその雰囲気は近寄り難い。
何かを考え込んでいることは明らかだった。俺がいることに全く気づく様子はない。
——やはり今じゃない。
これは臆病ではなく、戦略的撤退。あの神聖な時間を、邪魔してはいけない。そもそも、ここじゃ落ち着いて話はできそうにない。
別の部屋から感じる騒ぎの気配に、俺は苦笑するのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます