第四章 エロ本を買おうとした結果
第93話 変調?
この不思議な共同生活が始まって、今日で何日目だろうか。
……ちょっと考えてみたけどわからん。ただ、とある夏の暑い日が始まりだった気はする。
となると、もう一月近くになるのか。実態はともかく、今や季節は秋。具体的には九月ももう半分ほど終わってしまった。
それはすなわち危機的状況を意味しており――
「だぁー、もう無理。書けない。何も思いつかない。やってられない。初めからあたしには無理だったのよー」
「先輩、気色の悪い悲鳴を上げないでください。瑠璃にチクりますよっ!」
「へっ、やれるもんならやってみな!」
「なんですか、それ。えっとぉ、瑠璃は今部活中だからとりあえずメッセを――」
「すみませんでした、望海さん。後生ですからそれだけはご勘弁ください」
「えー、どうしよっかなー。――美桜先輩はどう思います?」
瞬間、夕暮れ近づく文芸部室に静寂が訪れた。
グラウンドの喧騒がよく聞こえてくる。一番賑やかな時間帯かもしれない。この空間とは対照的だ。
後輩がその名を口にした人物の方に、俺はそっと視線を向けた。
彼女は外の賑やかさからも、俺たちのくだらないやり取りからも隔絶された場所にいた。ソファにはもたれず、背筋はピンと伸びたまま。その視線は、膝の上に置かれた文庫本に注がれている。
「映画のワンシーンのような美しさで、私は思わず見とれてしまう」
「……今日の浩介先輩かなりおかしいですよ。何か悪い物でも食べました?」
「昨日の夕食はクリームシチューだった。妹の手作りで、私はとても愛を――」
「いい加減、その劣悪なモノローグ口調やめてもらっていいですか」
いつも明るい後輩の声がワントーン落ちたところで、俺は小さく謝った。大文豪の独り言シリーズはしばらく封印しよう。
しかし、やはりというか、目前の人物は何ら反応しない。もとより積極的に割り込んでくることは珍しいが、それでもこちらに目を向けたり聞き耳を立てていることはままあるというのに。
かといって、あえて無視するという風でもなく。小ボケの片手間に観察していたが、第一本を捲るようなことすらしていない。
まさに上の空といった感じなのだ。
ただならぬ気配に、俺は今いるただ一人の後輩と顔を見合わせた。ちなみに、先輩はそもそも来ていない。
「どうしちゃったんでしょう、美桜先輩」
「さあな。悪い物でも食ったんじゃないか」
「どこかで聞いたようなことを……そういえば、先輩お弁当少し残してました!」
「……マジか」
思わずつぶやくと、後輩はしきりに頷きだした。
冗談のつもりだったが、意外と的を射ていたのか……? いやでも、俺の弁当は普通だったし、
いや、それはただの傲慢だ。自分が作ったものがいつも完璧だなんて、自惚れが過ぎる。改めて弁当の中身を思い浮かべて、逐一検討しなければ――
「で、なんで浩介先輩がそんな深刻そうな顔を?」
「……生まれつきだ」
「はいはい。――美桜先輩、どこか具合でも悪いんですか? 先輩?」
二度目の呼びかけで、ようやく五十鈴が反応を示した。パチパチと何度か瞼が上下した後、その大きな瞳にはっきりと光が宿った。
おそらく、肩を叩くという実力行使がよかったのだろう。どれだけ自分の世界に入り込んでいたんだか……少し心配になる。
「ええと、何かしら。原稿のトラブル?」
「それは先ほど、この男が大騒ぎしてました。気色悪い声で、情けない泣き言を」
「……あの、のぞさん? 辛辣過ぎません?」
「そうなの。大丈夫、根津君」
先ほどまでの無反応が嘘のように、五十鈴の顔が今度はしっかりとこちらを向く。今のところはまあいつも通りだ。
たださっきの話はまるで聞こえていなかったようだが。その反応に嘘っぽいところはない。
「この場合、そのセリフはそっくりそのままお届けするぜ」
「運送屋みたいな言い回しですね。もしくは、ラジオパーソナリティ?」
「よくわからないけど、頑張ってね、根津君」
なぜ俺は励まされたのだろう……。向こう側へと移動した後輩ガールも、憐れんだ目を向けてくるし。ちょっと言い間違っただけなのに、なんだかとっても辛い。
やはりただの杞憂だったのか。ちょっと考え事をしていて気づかなかっただけ。たまたま間が悪かった。それが二回重なった。
でも、俺はぎこちなさを感じていた。普段話しているときと、どこか様子が違う。それを上手く言語化はできない。完全に感覚の問題で、もはやただの気のせいとも思うけど――
「やっぱり、今日のお前なんか変だぞ」
「そんなことないわ。別にいつも通りよ」
彼女が大きく首を横に振る。長く艶のある黒髪がさらさらと揺れる。遅れて、その顔にわざとらしい笑みが浮かんだ。
とてもじゃないが、大丈夫な奴のリアクションじゃない。少なくとも俺には含みがあるように見えた。
「昼間、弁当残したらしいな。どこかおかしかったか?」
「ううん、とっても美味しかった。ただちょっとお腹いっぱいで……ごめんなさい、根津君」
「別にいいさ。もし何かあったら言ってくれ」
「うん」
そんなやり取りを、意味ありげな笑みで後輩が眺めていた。
非難を込めて睨み返すも、肩を竦められて終わった。
こうなると、これ以上話を進める気がなくなる。ひとまずは、本人もこう言っていることだし。
再び部室に沈黙がやってくる。作業中のときよりも気まずい。とてもじゃないが、原稿に文字を綴る気にはならない。
「ところで、のぞ。三田村ってなんで欠席なんだっけ?」
「沈黙に耐え兼ねましたね……風邪ですよ、風邪。いわゆる体調不良って、さっき伝えましたよ」
「……だったな」
言われて、すぐに思い出した。でも、仕方ないじゃない。それくらいしか、話題を思いつかなかったのだから。
だが、どうやら五十鈴の方は把握していなかったようだ。目を丸くして、そうなのと呟いたのを聞き逃さなかった。
のぞから話を聞いたとき、一緒にいたんだけどな。もはや、最初からおかしかったのか。その時は全く気が付いていなかった。あとはさっき限界を迎えるまで、ずっと原稿にかかりっきりだったわけだし。
となると、クラスではどうだったんだろう。
……ダメだ、わからん。もともと教室ではあまり関りがない。席が遠いし、休み時間は押元たちとつるんでいるから。
もっと前、それこそ朝の時点で――って、なんで俺は必死に記憶を呼び起こそうとしているのだろう。そんなにも、五十鈴の異変が気になるのか。自分でも不思議だ。
そんな何とも言えない思考の渦から引き揚げてくれたのは、のぞだった。
「どうします、ついでに先輩たちの欠席理由も確認します?」
「いや、それには及ばん。二人とも、講習だろ」
「はい。そのあと塾ですって。受験生って大変ですよねー。あー、やだやだ」
子供っぽい振る舞いを見せる一年生に俺は苦笑する。半年前まではそうだったろうに。もちろん、高校と大学で勝手は違うが。
五十鈴もまた後輩のことを微笑ましそうに眺めていた。でも、その目はどこか遠くを見ているようだった。きっと、俺の感じ方の問題だろう。
「はぁ。だから、美桜先輩が頼りだっていうのに。あたし一人じゃ、浩介先輩の面倒を見切れませんよ!」
「そうだったのね。ごめんなさい、文本さん。これからは頑張るわ」
「ええ、その意気です、美桜先輩!」
ガシっと、強引にのぞは五十鈴の手を握った。そのままぶんぶんと振る。
結局、話は元気いっぱいな後輩女子の思ったところに落ち着くのだった。
五十鈴の様子は気になるけれど、俺の思い違いということにしておこう。そもそも、深追いする理由なんてないのだから——たぶん。
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