幕間話その11 ドキドキお料理教室

「料理を教えて欲しい?」


 思わず聞き返すと、五十鈴さんは至極大真面目な顔で頷くのだった。


 とある昼下がり……いや、もはや夕刻と表した方がいいのか。

 大事なのは、何もやることのない貴重な時間を過ごしていたということ。これぞ、夏休みの宿題をさっさと済ませておくことの最大のメリット。妹に声を大にして伝えたい。


 そんなときに、この居候系クラスメイトがやってきたのだ。ノックの音でドアを開けると、いつもの無表情で立っていた。

 ここまでは予想通りだ。現在、我が家にノックなどという当たり前の作法を身に着けた奴はいない。


 けれど、その続きは混乱することばかりだった。

 頼みがある、と平坦な口調で告げられ身構えていたところにこれ。

 さっきから眉間に寄った皺が戻らない。


「いったいどういう風の吹き回しで? そもそも、五十鈴さんって料理苦手なのかしらん?」


「……うん」


 先ほどとは違って、今度は俯き加減で答えが返ってきた。声はか細く、表情もどこか芳しくないように見える。本当に微々たる違いではあるのだが。


「パッと見た感じ、バリバリ料理得意ですって見えるけどな」


 五十鈴美桜は文武両道、才色兼備の完璧美少女だ――なんてのたまわっていたのはどこの誰だったか。いや隙のないクール美人だったかもしれない。

 ともかく学校での評判とその実態は大違い。それをこの数カ月の間で、俺は嫌というほどに知ってしまった。暴露本とか出せば、一部の層に需要がありそうだ。

 もっとも、当人にしてみればどこまでも自然体なんだろうけど。イメージとのギャップを指摘したところでどこ吹く風。


「そう? 全然そんなことないわ。本当よ」


「だろうな」


 俺は腕組みしながらしみじみと頷いた。今のは民意の代弁というやつだ。

 代償として、不審がるような視線を貰ってしまった。これもいつものこと。


「で、なんだっていきなりこんなことを?」


「根津君も瑠璃さんもいつも大変そうだから。私も何か手伝えないかなって」


「食器の準備とか後片付けとかよくやってくれてるじゃんか」


「そうだけど……でも一番大変なのは料理自体だわ」


瑠璃あいつはどうだかわからんけど、俺は特に大変なんて感じたことはないんだけどな。もう慣れたっていうか、意外と楽しいし」


 初めは、三人で暮らすことになり必要性に駆られてのことだった。特に年長者が全く当てにならなかったから。

 当時は確かにしんどかったし、面倒でサボることもあった。ただ、弓道部を辞めてから時間ができて、半ば趣味のような形になったのは事実。本格的にやってみると、奥深さに魅了されてしまった。

 なので、五十鈴の申し出はありがたいが、まあ杞憂というものだ。今のままでも、十分助かっているわけで。


 けれども、向こうの方は簡単に引き下がるつもりはないようだ。テキトーな思い付きで行動するタイプじゃないのはすでに知っている。


「でも、私もできるようになれば確実に二人の負担は減るわ。いざというときのバックアップにもなるだろうし」


「それはそうかもだけどな。けど、俺も瑠璃も何もできないってときは、適当に総菜買って並べてるしなぁ。五十鈴にそんなに頑張ってもらわないといけないってことはないし」


「頑張るとかそういうのじゃなくて。私はただ……」


 それ以上言葉が続くことはなかった。

 五十鈴は口を閉ざして、少しだけ視線を逸らした。


 ここまで食い下がってくるとは……さっきから予想外れが続く。いやそれは、今日に限った話ではないのだ。

 同居人が一人増えて以来、一層そうしたことが増えている。そしてそれを、俺はそこまで嫌に思ってない。


 ――夕飯の支度にはちょっと早い気もするが、いい暇潰しにはなるか。


「わかった。教えるなんて大したことできないけど、一緒になんか簡単なものでも作るか」


「本当? ありがとう、根津君。でも私からしてみれば、あなたは十分に料理上手で適任だと思うけれど」


 真っ直ぐな言葉が飛んできて、たちまち言葉を失ってしまった。いつもなら、軽口を叩いてやり過ごしていたはずなのに。


「んなことねーよ」


 なんとかぶっきらぼうに返して俺は部屋を出た。なるべく、あいつの方は見ないようにして。




        ※




 そもそもにして、断ろうとしたのには確固たる理由があった。

 相手をするのが面倒だからとか、教えるなんてできないと思ったからなどではない。

 教えを請われたとき、いつかのキッチンの惨状が頭を過ったのだ。

 まああそこまでヤバイ奴がそうゴロゴロ存在するはずがない。いや、いて堪るか。最後には、そう高を括ったわけだが――


「指、気を付けろ! そんな押さえ方だと、スパっといくぞ」


「お嬢様、なんともまあその独創的な形ですね」


「油を怖がってちゃ何もできんぞ」


「待て待て待て! それのどこが中火だ!」


「あのー、五十鈴さん。お願いですから調味料は少しずつ入れましょうね……」


 一応人が食べられそうな見た目のものは完成したから、いつかの誰かよりもだいぶましだ。それでも、滅茶苦茶大変だったわけだけど。


 とりあえず一品目を作り終え、俺と五十鈴はダイニングテーブルで向かい合っていた。闇落ちした中華風野菜炒め君は、今中華鍋でエネルギーを発散中だ。


「いいか、料理は化学。決められた手順をまず守ろう」


「そうなのね。でも私、化学は苦手なんだけど」


「よくそんなんで学年一位取れるな」


「もう一位じゃない」


「おかげで私のプライドはズタボロよー」


「……? どうしたの、大丈夫?」


 元学年一位は気の毒そうな視線を送ってくる。

 心配するべきは他にあると思うんだが。まあ、これ以上脱線する気力はなかった。


「あの、ごめんなさい。私、散々迷惑かけて」


「まあ初めてだからしょうがねえよ。それに思ったほどじゃなかったから」


「そう言ってもらえると救われるけど……」


「気にするなって。次頑張ろう!」


 表情はまだ暗いままだったが、それでも五十鈴は小さく頷いた。気持ちはまだ折れていないようだ。


 実際、誰かさんに比べれば一般的料理下手の範疇には収まっている。ただ、恐ろしいまでに不器用ではあるが。ホント、雰囲気だけはなんでもそつなくこなせそうだから誤解してた。あの包丁さばきとか、なかなか見れない。

 元々要領はいいタイプだし、ちゃんと経験を重ねればまだ何とか……あれ、おかしいな、あの人もかなり要領いいんだけどなー。いい大学通ってるんだけどな—。


 ともかく、少しずつでも現状分析できるだけ見込みがある。問題の人物は、それすらも許してくれなかった。気がついたらダークマターができていた。あの日のことを俺は未だによく思い出せない。


 さて次はどうするかと思ったところ、玄関の方から物音が聞こえた。

 時計を見ると、瑠璃が帰ってくるには少し早い気はするが――


「ただいまー。あれ、二人とも何していたの?」


 正体は、今最も会いたくない人物だった。バイトは早上がりだったのか。しっかりしたスーツ姿だ。


 疲弊しきった脳みそを必死に動かして、急いで言葉を紡ぎにいく。なにかうまい言い訳を――


「菫さん、お帰りなさい。今、ね……浩介君に料理を教えてもらっていて」


「えー、そうなの!? いいなぁ、羨ましい。浩介君は、あたしには何も教えてくれないんだよ。ひどいよねぇ」


「……菫姉、あの時のことまさか忘れたのか?」


 一手遅かった。話が怪しい方へと進みかけている。

 それを必死に止めるべく、まず馬鹿姉を牽制。怒りを滲ませた口調で、もう見飽きた顔を睨む。


「ま、まっさかー。確かにあのときは浩介君にいっぱい迷惑をかけました。でもあたし、ちゃんと反省したから! 時々、お勉強したりもするのよ。いつまでも、あなたたち二人に頼ってばかりもいけないし」


「菫さん……」


 もっともらしい演説に、クラスメイトが感銘を受けている。どうもこの子は、根津菫という人物を少し勘違いしているみたいなのよね。


 俺としては、そんな言葉を信じるわけにはいかない。あの日は本当に大変だったのだ。出来上がった料理を必死に腹に収め、その後は戦場と化したキッチンの片づけ。余波で数日、自分の身体は使い物にならなかった。

 その再現など、万が一にもあってはいけない。俺は改めて気を引き締める。


「……なんでもいいけど、菫姉は部屋で休んでてくれ。バイトでお疲れだろ」


「大丈夫だって。いい機会だし、あたしも混ぜてよー。戦力になるよ?」


「なるか!? アンタ、少しも反省してないな」


「してるよ! だからこそ、生まれ変わったあたしの姿を今こそ。今度は、浩介君の教えを完璧に体現して見せる!」


「いい、そんな必要はない。生徒は一人でじゅうぶ――なんだよ」


 白熱の攻防を繰り広げていると、左の袖を引っ張られた。

 見ると、いつの間にか五十鈴がそこに立っていた。どこか申し訳なさそうな顔をしている。


「根津君は大変だと思うけど、私としては初心者仲間がいると心強いというか……それに、菫さんがちょっと気の毒」


「……美桜ちゃん! そうだよ、浩介君。すみれさん、きのどくっ!」


 味方を得て、ここぞとばかりに勢いづくすみれさん。まさしく、火に油が注がれた。

 五十鈴め、余計なことをしやがって……こうなると、場を収めるにもかなりの労力が必要となる。


 もはや取るべき道は一つなのかもしれない。せめて瑠璃がここにいてくれれば、菫姉を封じることもできたのに。

 ここは、我が姉を信じるしかない。そうだよ、この人ここぞというときは頼りになるんだ。昔から、俺はそんな菫姉に憧れていた――


 そんな風に自己暗示をかけて、俺は戦地へと向かう覚悟を決めた。

 あまりにもやけくそすぎて、何の役にも立たなかったけれど。






「もしもし、瑠璃か。……悪いんだけど、夕飯は外で済ませてきてくれ。金はいくらでも菫姉が出すから」


「ちょっと浩介君!」


「何か? ――ああ、なんでもない。オーガイがちょっとな。うん、じゃあよろしくー」


 向こうはまだ話を続けようとしていたが、俺はやや乱暴に通話を切った。

 名前を呼んだからか、五十鈴の飼い猫がそばまでやってきた。その頭を、愛おしさを込めて撫でてやる。


 瑠璃を巻き込んではいけない。これは俺が始めたことだ。押し切られる形にはなったとはいえ、最終的には自分で決断した。


 だから、後始末は我々ですべきだ。


 やや薄暗いリビングには、すっかり異臭が立ち込めている。換気扇の音は心なしか寂しい。

 食卓に並ぶ二つの顔はどちらもかなりげっそりとしていた。自分のしでかしたことはわかっているのか、かなり悪びれてはいる。


「ということで、これに懲りたら、菫姉は金輪際キッチンに出入り禁止な」


「……はい。本当にすみませんでした」


「それと、五十鈴」


「は、はい、なにか――なんでしょう、根津さん」


「下には下がいる。五十鈴のセンスは絶望的じゃない。練習すればきっとうまくなるよ。……ただしばらくはやめておこうな」


 クール系クラスメイトが申し訳なさそうに頷く。

 今にしてみれば、彼女が初めて作った料理はそこまで悪いものじゃない。間違いなく今日のメインディッシュではある。なにせ、ちゃんと料理名を認識できるのだから。


 ソファから立ち上がると、オーガイは今度足元にすり寄ってきた。

 それ以上進んではいけない、と俺の足を止めるようだ。その優しさが心に染みる。


 それでも向かわなければならないのだ。

 すっかり魔境と化したキッチンを、元の姿に戻すためにも。

 俺たちの戦いは今始まったばかりなのだから——

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る