第92話 大切なもの
「ただいまー!」
猛然とリビングに飛び込んできたのは瑠璃。相変わらず騒々しい奴だ。着替えもせずに来るなんて、よほど腹ペコらしい。
「お兄ちゃん、晩ご飯な――」
不自然に言葉が切れて、もう一度妹の方を見た。キッチンの入り口でなぜに呆然と立ち尽くしている。
「どうした。石化ごっこか」
「……そんな意味不明なことしないってば。なに、美桜先輩に手伝わせてるの?」
とんでもない指摘に顔をしかめてため息をついた。人を極悪人みたいな言い方、しないでいただきたい。
「俺が強制したわけじゃねえよ。こいつが自分から言い出したんだ」
言いながら、身体を少し捩じった。
話題に上ったというのに、五十鈴は黙々と作業を続けている。俺たち兄妹の揉め事なんて、全く興味がないようだ。リズミカルな包丁の動きは見事。
「ホントかなぁ。お兄ちゃんがそういうふうに仕向けたんじゃないの」
「お前は実の兄のことをなんだと思ってるんだ?」
「ひとでなし」
容赦のない鋭い言い方に、さすがに怯む。
「……あの、なんかしました、俺」
「うーん、ストレス発散?」
「俺はサンドバッグかなにかか……」
にんまりと笑う瑠璃様。もはや悪魔にしか見えない。そういうのは姉に向けろ、姉に。バイトで今いないのが恨めしい。
「瑠璃さん、お兄さんの言っていることは本当よ。私が自分から手伝ってるの」
「フォローが遅い……ってか、聞いてたんだな」
「うん」
五十鈴は静かに頷く。こういう控えめな仕草を最近よく見る。
今更なんだと思ったが、すぐに納得がいった。作業が終わったから首を突っ込んできたのか。まな板の上にはもう何も載っていない。
ずいぶん手際がよくなったものだと感心する。暇を見て、料理教室を開いた甲斐があった。もう一人の方は、変わらずてんでダメだけど。
「大丈夫ですか、美桜先輩。お兄ちゃんになにか弱みでも握られてない?」
「おい、瑠璃。そろそろいい加減にしておけよ。だいたい弱みを握られてるのは俺――」
流れでつい言いそうになったのを慌てて止めた。こんなところで自爆するわけにはいかない。
当然、瑠璃の疑うような眼差しが飛んでくるが無視。腕を組んで視線を逸らす。さらに、口笛までつけておこう。
しかし、それで引かないのが我が妹様なのだ。追及の対象は、自然とキッチンにいるもう一人へと移る。
「美桜先輩、教えてください! ぜひとも兄の弱点は知っておかないと」
「ええと、それは……」
五十鈴が困惑気味にこちらを見てきた。
「瑠璃、お前もう向こう行ってろ。邪魔だから」
「えー、ひどい! 泣くよ?」
どの口が。さっきからずっと楽しそうな表情のままじゃないか。少しくらいはそういう素振りを見せろ。
「勝手に言ってろ。というか、お前こそ手伝え」
「えー、三人だと狭いじゃん。ムリムリ」
「じゃあ俺と替われよ」
「なんで? 今日はお兄ちゃんの当番の日じゃん。ダメだよ、ちゃんとやらないと」
どうして俺が怒られるんだろうか。完全にこいつを責め立てる流れだったはずなのに。
久々の学校プラス部活というフル活動だったくせに、ずいぶん元気いっぱいだな。小柄なくせに、意外と体力がある。
「じゃあ五十鈴とだな。手伝わせてるだとか文句つけてきたの、そっちだろ」
「そうだよ。だからほら、美桜先輩もあっちでゆっくりしましょうよー」
「え? ちょっと、瑠璃さん」
一歩踏み込んでくると、瑠璃は五十鈴の腕を掴んだ。そのままグイっと、自分の方へと引っ張ろうとする。
もはやキッチンは軽いもみくちゃ状態に。
「おい、やめろって。狭いんだから」
何とか身を縮こまらせる。そうでもしないと、さっきから五十鈴と身体がぶつかってしょうがなかった。これは非常によくない、色々と。
結局、しばらく押し問答を続けて、ようやく妹を追い出すことに成功した。いつにもまして、こいつはろくなことしないな。
「もうっ、暴力振るうことないじゃん。お姉ちゃんに言うから」
「大したことはしてないだろ。――悪いな、五十鈴。ほれ、瑠璃も謝れって」
「うぅ、あたしはただ先輩としんこーを深めようと思っただけなのに……ごめんなさい」
「気にしないで瑠璃さん。いきなりで驚いたただけよ。もうちょっと待っててね、そろそろ終わると思うから」
五十鈴は少し身を屈めて視線の高さを瑠璃に合わせた。その語り口は言い聞かせるようでとても優しい。
それは文芸部の後輩たちに見せる顔ともどこか違う。同じく年下を相手にしているのに、今のはもっと柔らかい。それこそ、菫姉が瑠璃と話すときのよう。
もしかしたら、実家にいるときの五十鈴はこんな感じなのかもしれない。幼い弟妹がいると、かつて教えてもらったのを思い出す。
「別にもういいぞ。あとは俺一人でできるから」
「そう? けどまだやることはあるでしょう」
「まあそうだな。でも、一番はこいつのおもりだ」
騒動の元凶をきつく睨みつけた。一人で放置しておくと、また面倒なことになりかねない。
「なによ、おもりって! あたし、子どもじゃ——」
「うん、わかった。行きましょう、瑠璃さん」
「ちょっと、美桜先輩まで!」
まだ不満たっぷりな妹が引きずられていくのを見送った。
しかし、五十鈴のやつ。意外と楽しそうだったな。こっちの冗談に合わせてくれるなんて珍しい。
正直、五十鈴の手伝いはかなりありがたかった。調理時間がいつもより段違いに短くて済んでいる。
ほどなくして、切り終わっていた具材を炒めていく。メインディッシュは回鍋肉だ。
ひと段落したところで、カウンターに何かが置かれた。
「はい、お皿」
いつの間にか、五十鈴が向こう側に立っていた。
「お、サンキュー」
実にタイミングがいい。そろそろ出来上がるころだった。ちらりと確認したら、炊飯器もそろそろ仕事を終えそうだし。
「…………ううん、息ピッタリ」
遅れてやってきた瑠璃がぼそりと呟く。
「のぞから何か聞いたのか?」
「へ? なんのこと」
とりあえず、とぼけているようには見えなかった。妹は困惑したように首を傾げている。
全くどいつもこいつも意味不明なこと言いやがって。顔を歪めながら、中華鍋の火を止めた。
全く釈然としないままに、俺は最後の総仕上げにかかるのだった。
※
非常に居心地が悪い。さっきからずっと背筋は伸びたまま。こんなの高校受験のとき以来じゃないか。
それというのも——
「何か思いついた?」
ちらりと後ろを振り返ってみたものの、状況は全く変わっていない。
扉の前には、五十鈴美桜が陣取っている。どこからか持ってきて椅子に足を組んで深く座り、手には文庫本を持って。
俺の部屋のはずなのに、向こうの方が主に見えてくる。それほどまでに、堂々としすぎだ。
「……いえ、何も」
「そう。焦らせるわけじゃないけど、あんまり時間はないわ」
「へーへー、わかってますってば」
だからこうして頑張っているんだろう。まあ、成果は一つも出ていないけども。なので、口に出すのは厳禁。
そもそも、見張られてるとこう余計に緊張が……。
「にしても、美紅先輩め。余計なこと言ってくれたもんだ。お前に監視を頼むことないじゃないか」
「監視じゃなくてアシスト。一緒に暮らしてるんだから、手助けしてあげてって頼まれたの」
「暮らす……ねぇ」
なんかその表現に違和感を覚えるんだよなぁ。住んでるの方がしっくりくるというか。暮らすだと、何か距離が近すぎるような。
二つの言葉の違いは正確にはわからないが。あるいは、この女に訊けばばっちり教えてくれるのかも。ま、どうでもいいか。
「四六時中一緒にいるわけじゃないのにな。そんなこと頼まれたって、お前にとっては迷惑だろ」
「別にそんなことないけど。私としても、キミの部誌については気になるから……副部長として」
「そうですか。全く、美桜ちゃんは真面目だねぇ」
「浩介君が不真面目なだけでしょう。ここまでサボって、怠け者」
唇の端を曲げて涼やかに微笑む副部長殿。これまたプレッシャーが強すぎる。
分の悪さを感じて、再び机に向かう。ホント、今日はみんなして俺に当たりが強い気がする。呪われた日と呼ぶことにしよう。
白紙の用紙を前に、ぐるぐると頭を動かしていく。いくつか、よさげなアイディアはあるが、やっぱりうまくまとまらない。
後方からの無言の圧に、焦りだけが募っていく。思考はすぐに空中分解、霧となって散っていく。
「なあ、何かアドバイスとかないか?」
「アドバイス……ね。好きなものをテーマに据えるのは? ほら、だいたいみんなそうしてるし」
例えば、のぞはテニスのことを絡める。三田村は異世界ファンタジー物を書くとか。静香先輩だと、三年連続で恋愛小説。
確かに、どれも自分の好きが出発点なんだろう。というか、部誌を書くにあたり先輩たちからも一番に言われたことだ。
「根津君は好きなものとかないの? 趣味とか、ハマってるものとか」
「そう言われてもなぁ」
改めて考えては見るが、やはり何も浮かばない。心の底から好きだ、と思えるものなんて今は持ち合わせていなかった。
昔から、あんまり何かに熱狂的になる
「ところでさ、そっちはどうなんだよ」
「なんのこと? 部誌のテーマ?」
「そっちもそうなんだが……ほら、好きなもの」
付き合いもそれなりに長くなったが、相変わらず五十鈴美桜という人間のことは不明なことが多い。
味、については甘いものに目がないのは知っている。最近発見したところでは、辛い物もイケる口とか。
しかし、改めてこんなこと訊くなんて、自分でもどうかしていると思う。でも、最近はそんなどうでもいいことがなぜか気になるのだ。相手が居候してきてからはなおさら。
「本」
すぐに答えが返ってきた。文庫本を持ち上げるというオマケつきで。
「だよなぁ。聞くんじゃなかった」
「でも、根津君も本、好きでしょう? 最近も私に訊いてきたじゃない」
「そうだけどさ。じゃあなんだよ。俺の読書歴を赤裸々に記せ、と。そんなこと、できるわけないだろ」
「……エッチな本のことから始まるから?」
「五十鈴さん、そういう話は二度としないでいただければ」
真顔で言われると、本気なのか冗談なのか悩んでしまう。ただでさえ、日頃からわかりづらいというのに。
しかも、厳密にいえばあの本は買えてないじゃないか。他でもないこいつに止められて。俺は初めて、圧倒的な敗北を味わった。
そう、全てはあの日から始まった。罰ゲームであんなバカげたことをしたら、この超絶堅物女と知り合った。
そして、あれよあれよという間に文芸部に所属。さらに、最近では一緒の家に住んでいる。
風吹けば桶屋が儲かるもびっくりな意味不明の繋がり具合。自分の身に起こったことながら、不思議で仕方がない。
でも、悪い気はしていなかった。弓道部を辞めた後の日々とは大違い。毎日が充実……とまでは言わないが、それなりに楽しい。文芸部は、いつの間にか大きな存在になっていた。
「どうしたの、何か思いついた?」
「ああ、まあな。――去年、お前は俺のこと書いたろ」
「……あれは根津君のことだけじゃ」
「だから今年は、俺がお前のことを書く!」
これで去年の意趣返しができる。いつかやりたいと思ってたのが、こんな形で叶うとは。決して狙ったわけじゃないけど。
厳密には、テーマは五十鈴だけじゃなく文芸部全体のことだ。退屈な日常が次第に変わっていくのを描いてみたい。間違いなく、自分にとって大切なものだから。
とりあえず、始まりの出来事には大幅な脚色が必要だろう。これだけはありのまま書くわけにはいかない。墓場に持っていく秘密……いや、知っているやつはすでにいるんだが。
「あの、好きなものの話から始まったのよね」
「ん、そういやそうだな。きっかけはそれだったか」
話はだいぶ飛んだ気はするが、確かにスタート地点はそうだ。それに、文芸部自体好きなものといえなくもない。
「ありがとな、五十鈴。お前のおかげでなんとかなりそうだ」
「……ま、まあその決まったのならいいのだけれど」
なんとなく、相手の反応はぎこちない。視線は下を向いているし、どこか頬も赤らんでいる。
まあいいか。くるりと三度机へと向かい直した。
タイトルから決めなければ。名は体を表す、みたいな。何事も形から入るのは大切だ。
「『不思議な不思議な文芸部』ってのはどうだ?」
「……なにそれ」
「タイトルだよ、タイトル。いやぁ、我ながらなかなかだな」
「あの、改めて確認するけどテーマって」
「うちの文芸部だけど」
正式に告げると、五十鈴は瞬間目を見開いた。そして腕を組むと、次第に不機嫌な顔になり始める。
「そう。とりあえず、そのタイトルは却下」
その声はひときわ冷たいものだった。
とにかく、今日から始まる。俺の真なる文芸部ライフが——
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