第91話 心穏やかならず

 ……ついに来てしまったか、放課後が。ギュッと目を閉じて、ひそかにため息をつく。

 帰りのHRが終わっても、なかなか次の行動に移れずにいた。忙しなく動き回るクラスメイトをよそに、腕組をして渋面を作る。


 おおよそ俺のこれまでの人生において、放課後の訪れはいつも喜ばしいものだった。弓道部時代は当然、帰宅部時代だと完全なフリーだからなおさら。


 ただ、今日だけは心の底から忌々しい。六時間目の授業の終了間際、秒刻みで壁時計を睨んだくらいには心に荒波が立っている。


「浩介君、すごい怖い顔してますね」

「……ん、ああ、深町か」


 突然、視界に長身の女子が入り込んできた。

 ゆっくりと顔を正面に戻す。夏休み中もそれなりにあっていたので、久しぶり感は少しもない。


 相手はなぜか不服そうな表情をしていた。具体的に、目元の辺りにそれが強く表れている。怒っているというよりかは悲しげ。

 ううん、まさかこの短いやり取りで何か不備が生じたとは……。コミュニケーションって難しい。


「あの、深町――いや、翠、か」


 もう一度彼女に呼びかけたとき、ようやく原因に気が付いた。露骨に顔色が変わったのだから、まあ気づかざるを得ない。


「はい、翠です!」

「繰り返さなくてもわかってるって。悪い、つい今までの感じが抜けなくて」

「大丈夫、気にしてないですから」

「……そ、そうか」


 とりあえず、愛想笑いで誤魔化すことに。

 これ以上、この問題に深入りするのはやめよう。笑顔のクラスメイトをなんとなく恐ろしいと思うのだった。


「それで、何かあったんですか? もしかして、具合が悪いとか」

 ひとしきり笑みを交わし合ったところで、相手が切り込んできた。

「いや、身体はめちゃくちゃ元気だ。ただ、ちょっとな」

「ちょっと、ですか」


 顎に手を当て、怪訝そうに首を傾げる翠。興味はありそうだが、訊くのは躊躇っているらしい。なんとなくそういう奥ゆかしさは、翠らしい。


 しかし翠には悪いが、そんな大した理由はない。ただ部活に行きたくないだけ。もはや、駄々をこねる子どものそれみたいなもの。

 当たり前だが、はっきりと口にするのは憚られる。翠には悪いが、謎は謎のままということで。


「そんなことより、そっちこそ俺になんか用か?」


 立ち上がりながら話を切り替えた。

 そろそろ廊下の方に移動しないと掃除の連中に迷惑がかかる。すなわち、下手をすれば余計な仕事を押し付けられそう。


「あ、はい。あのよかったら今日道場来ませんかって。阿佐美君に話したら、俺がいるときに連れて来いって」

 歩きながら、深町が話を続けた。

「へぇ、あいつがそんなことを」


 言いながらも、奴のその姿は容易に想像できた。部活を去る際、最も残念がってくれた人間だ。


 正直、これはもしかして渡りに船ではないか。

 用事ができたということで、文芸部のミーティングから逃れる……いや、無理だな。後でどうなるか。具体的には想像できないけど、ロクなことにはなるまい。特に部長を筆頭に、ありとあらゆる拷問が行われるだろう。


「悪い。今日はダメなんだ。文芸部、謎に活動があって」

「あ、そうなんですね。今日はてっきり休みかと」

「ああ、本当ならな。――ということで、また誘ってくれるとありがたい」

「はいわかりました。じゃあ今度は絶対、ですよ?」


 翠は一歩踏み込んできた。意味ありげな笑みを浮かべて、ちょっと身体を前に傾けて。芝居がかった動作だが、その分強い圧を感じてしまう。


 曖昧に頷いてから、部活に向かう翠と別れた。俺もまた仕方なく文芸部室に行くことに。遅れるよりかはマシ、か。


 どこかで五十鈴様を捕まえたいところだったが。せめて、議題を訊いて心構えの一つや二つをしておきたい。

 だが、あいつはどこぞのメタリックなレアモンスターの如く、逃げ足が速い。さっき見たときには、教室にその姿はなかった。


「あ、浩介先輩! おひさっす!」

「……なんだその体育会系みたいな気合の入った挨拶は」


 部室近くまで来たとき、いきなり後ろから声を掛けられた。元気いっぱいなその声は、相手が誰か確認せずともわかる。

 案の定、振り返るとそこにはのぞがいた。そして、近くには三田村がちょこんと。相変わらず、対照的なコンビだな。


 しかし、おひさって……最後に会ってから三、四日くらいだと思うんだが。いまいち、こいつの時間感覚が掴めない。


「根津先輩、お疲れ様です」

「おう、おつかれさん。のぞの方もな」

「うっす!」

「さっきからなんなんだ、いったい……」


 日頃から元気が取り柄な後輩だが、今はとにかく意味不明。困惑のままに、隣の相方へと目を向ける。

 だが、彼女にもその異変の理由はわからないらしかった。ただちょこんと首を傾げるだけ。


「やっぱりほら、始めよければなんとかって言うじゃないですか。だから、元気よくと思って」

「ダメだ、よくわからん。三田村はどうだ?」

「ええと、わたしもちょっと……」

「二人してなんなの、もうっ!」


 同期の賛同すら得られなかったからか、のぞはわざとらしく頬を膨らませた。大げさな手ぶりつき。これもまた、元気よく活動の一環か。


「まあいいや。お前らは、今日のテーマ知ってるか?」

「はい。昼休みに訊いたので」

「そうそう! まったく、浩介先輩も来ればいいのに」

「やだよ、わざわざここまで来るのは面倒くさい」

「でも楽しいですよ、お喋り」


 こくこくと、隣で控えめに三田村も頷いている。あまり話す方じゃないのに。まあ、聞き上手ではあるか。


 どうせあれだろ。とかいうやつだ。そんなもの、いつも以上に疎外感しか覚えない。せっかくの昼飯、どうして気まずい中で食べなければいけないんだ。


「まあ考えておくさ。で、結局のところ答えは?」

「ふっふっふ、それは聞いてからのお楽しみってやつで」


 のぞは仁王立ち姿で不敵に笑い出した。お調子者な態度には、怒りを通り越して呆れるしかない。


「三田村、教えてくれ」

「えっ!? ええと、そのぉ……」

 物静かな後輩はちらりと友人の方を見た。

「ダメだよ、詩音!」

「いいから、詩音!」

「浩介先輩、その気持ち悪い声やめてもらえます?」

「――はーい、廊下でギャーギャー騒がなーい!」


 部屋の中まで丸聞こえだったらしい。突然、突き当りにある部室の扉が開いた。

 顔を突き出してきたのは、他でもない我らが部長殿。いつもそっちが大騒ぎする側なのに、と思ってしまうのは、さすがにマズかっただろうか。




        ※




 ふと窓の外を見ると、そろそろ暗くなり始めていた。ちょっとくたびれた感じがして、小さくあくびをする。


「おっ、余裕たっぷりだねぇ、大将!」

「いきなりどうしたの、美紅ちゃん」


 しまった、マズいところを一番見られたくない人に目撃された。慌てて引っ込めたが、もはや取り返しはつかないだろう。

 

 部長はニヤニヤしながらこちらを見てくる。この人って天性の煽り屋だなぁ、とその素敵な笑顔を目の当たりにして改めて思う。


 すると、当然部室中の視線は俺に集まるというもの。

 疑問を口にした静香先輩はすぐに納得がいったようだ。ははーん、となんとなく眼鏡まで光った気がした。


「なるほど、なるほど。浩介君、ぼーっとしてたんだ」

「あたし見てました! あくびもしてました!」

 元気な後輩はおちゃらけた敬礼を決め込んだ。

「バカお前、余計なことを……」

「あー、確かに。それは余裕かましてるねぇ」


 くすくすと、静香先輩がからかうように笑い始めた。それをきっかけに、室内に笑い声が広がっていく。


 当事者としては、本当に肩身が狭い。顔をしかめながら、少しだけ居住まいを正した。


「別にそういうつもりじゃ……たまたまあくびが出ちゃっただけで」

「ホントかねー。こーすけ君、いまいちやる気が感じられないんだよなー」


 ……ぐっ、そう言われると返す言葉がない。この人、的確に人の心を抉るの得意だよなぁ。ゲームキャラで言うと、クリティカル率の高さが自慢、みたいな。


 確かに、俺はあくびをしてしまった。さらには、実はその前によそ見までしている。

 この二つだけでも、まあ不真面目。そして極めつけには、夏を終えた文芸部員としては非常にまずい状況にある。


「こらこら、美紅ちゃん。あんまり意地悪言わないの」

「珍しくしずかっち、甘いねー。あっ、アタシがお小言の仕事取っちゃったからか」

「あのねぇ、人をそんな小姑みたいに……」


 やいのやいのと、三年生による即席の漫才が始まる。

 完全に、部室の空気は緩んでいた。先ほどまでの真剣なミーティングの姿はどこへやら……。

 もともと、終わりに向かっていたのだからいいのか。ただ、それを俺が思うのはさすがに筋違いというもの。


 ちらりと、俺は隣に座る同級生の方を見た。この騒がしい中でも、こいつだけが一人真面目なまま。姿勢よく座って黙り込んで、いったいその頭の中では何を考えているのやら。


「どうかした?」

「……いや、何も」


 素朴に訊かれたところで答えようがない。手持無沙汰だからただ見てた、なんて言ったら、疑問の無限ループが始まりそうだ。

 慌てて目を逸らし、何事もなかったかのように湯飲みに手を伸ばす。


 が、その前に目標物はひょっこりと宙に浮いた。


「根津君、さっき飲み干したでしょう」

「……ちっ、マジか。急須取ってくれ」

「ううん。私が淹れてあげる。――何かお菓子も食べる?」

「ああ。甘いのがいい」

「わかった」


 ということで、俺の湯飲みは五十鈴に回収されてしまった。代わりに、俺の前には個別包装のクッキーが三枚ほど。


「ねぇねぇ、なんか今日先輩たち息あってない?」

「え? ううん、いつもだと思うよ」

「……あれ? ああ、ごめんごめん。浩介先輩と美桜先輩の方」

「あ、そっちか。うーん、そうかも……?」


 今度こそ完全にぼーっとしていると、正面からそんなヒソヒソ話が聞こえてきた。横目で観察すると、一年生ズ――特に元気印の方はこれでもかと目を輝かせている。


「何アホなこと言ってやがんだ、お前らは!」

「ギャー、浩介先輩がキレた! 瑠璃に言いつけますから!」

「勝手にどうぞ」


 涼しい顔で、その脅しをね退けた。

 今更、あいつの何を恐れればいいのか。むしろ、あいつの方が俺を恐れるべき。なんてたって、こっちは兄なんだ。


「むっ、全く効いてない……。こうなったら、泣くんだ、詩音!」

「えぇ……いきなり言われても無理だよ。というか、ちゃんと謝ろう? 望海ちゃん。すみません、浩介先輩」

「三田村はホント素直ないい子だなぁ。お前らは少しは見習えって」

「らって、なんですか、らって! あたしと誰ですか!」

「それこそ、俺の妹でお前の友人のことだ」

「そう? 二人とも別に素直でしょうに」


 ことり、と目の前に湯飲みが返ってきた。いい感じの高さまで、薄緑色の液体が注がれてある。


「ありがとな、五十鈴」

「別にこれくらい気にしないで」

「ほら詩音、こういうのだよ。息ピッタリ!」


 まだ言うか、こいつは……。言われた方の三田村はちょっと困り気味だし。

 全く懲りないのぞを、強く睨みつけておいた。でもたぶん、少しも効果はないんだろうけど。


 もう一波乱起こりそうなところ、一つ大きな咳払いが聞こえてきた。


「はい、そこー。無駄話しない―」

「お言葉ですが、脱線にそれたのは部長の方です」

「……うぐっ、テキビシーなーみおっちは。――とにかく、一人を除いてみんな進捗は順調そうでなによりです」


 パチパチ、隣で静香先輩が手を叩く。自然と俺たちも真似をすることに。


 にしても、今日の美紅先輩はいつにもまして攻撃的だな。しかも俺に対してだけ。おかげで、私のガラスのハートは粉々。もう砂みたいになってる。


「じゃあ、月末までに第一稿の提出お願いね。ねぇ特に、こ・う・す・け・く・ん」

「……はっ、わが命に代えても」

「全く言うことだけは立派だなぁ。本当に大丈夫かい? 題材探しからとか、シャレにならないっしょ、ぶっちゃけ。ちゃんと前もってやっとけばよかったのに」


 今回の部会で発覚した事実。俺だけ部誌原稿の進捗具合が著しく悪いのだ。いやもはや、一ミリたりとも進んでいない。

 何か見えてきてはいるんだが、あと一押しが……しかし、まさかこんな抜き打ち気味に確認されるとは思ってなかった。事前にわかっていればまだなんとかなったかもだけど。


 でも、月末かぁ。残り十日もないくらいだ。マジでヤバイ。いや、ここ数日はずっとそう思っていたけど。

 激動の日々が幕開けそうだな……うわっ、気持ち悪くなってきた。


「いやー、ちょっと色々と立て込んでたんで」

「あのね、それはみおっちのセリフっしょ。しかも、そのみおっちはもうほぼ完成してるっぽいし」

「あれー、なんでですかねー」


 果たして、それは五十鈴が立派なのか。それとも、俺がひどすぎるのか。きっとその両方、いわゆる合わせ技だろう。


 なんにせよ、やるだけだ。なんとかして、この胸の内にあるモヤモヤを形にしなければ。


 ほどなくして、緊急ミーティングは終わった。だらだらと、それぞれ帰り支度を始めていく。全く解放感がないのはなぜでしょう。


「五十鈴、バス何時?」

「……キミ、自転車でしょう」

「どっちが先家着くかってこと。お前、鍵持ってないじゃん」

「ああ、そういう。大丈夫、エントランスで待ってるから」

「そういうわけにはいかないって。――ほれ、渡しとく」

「……ありがとう」


 ぐいぐいと差し出すと、ようやく五十鈴は家の鍵を受け取ってくれた。夕飯の買い出しをすれば、絶対こいつより後になるだろう。

 本来なら姉貴がバイトに出る前に家に帰れたはず。そうすると、この鍵問題は発生しなかった。……やはり緊急ミーティングは悪。 


「そっか。先輩たち同棲して――」

「次それ言ったら、埋めるからな」


 早いところ、五十鈴のおばあさんの具合がよくなりますように。

 俺はそう切実に願うのだった。

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