第90話 そして新しい日常が始まる
始業式の朝というのは、とてつもないほど憂鬱で。何度も何度もついため息を
もっとも気分が落ち込みがちなのには、あと二つほど理由があるわけだが。
ちらりと、食卓の方を覗き見る。食事中のはずの二人はどこかうつらうつらしているように見えた。
「おい、なんださっきから。まさか寝ながら食べてるんじゃないだろうな。人類の新たな挑戦のつもりかよ、ったく」
「にゃむん……」
応答があったのは妹の方だけ。もう一人の方はだんまりを決め込んでいる。
「いいから起きろって!」
ふざけた返事に、くたびれた気持ちでキッチンを出た。全くもって作業が一向に進展しない。所狭しと並んだ弁当箱は完成までほど遠い。
ただでさえ、なぜか今日は余分があるのに。姉様が気まぐれに『わたしもお弁当が食べたい』とか、ふざけたことをのたまったせいだ。
俺が近づいていってもなお、朝食組は壊滅状態のまま。
とりあえず、妹の方から手を付けることに。二人同時に捌くのはなかなか厳しいものがある。
「ほれ、瑠璃ちゃん。目を覚ませ」肩を強く揺すりながら声をかける。「いつも以上にひでえな。遅くまで起きてたのか?」
「……ん。しゅくだい、おわんなくて」
「ため込むからだろ。ホント学習しないのな」
「だってぇ」
「今日の実力テスト大丈夫かよ、そんな調子で」
「へーきだよぅ」
残念ながら、今の様子のどこにも安心できる要素はない。赤点なんか取った日には、久しぶりに姉上が大暴れすることだろう。
その辺のこと、おそらくこの寝ぼけ頭はわかっていないっぽい。まあ、俺には関係のない話だが。
なんとか箸を握らせると、瑠璃はロボットのように食事を再開した。
少しも不安は拭えないけども、まさか一から十まで世話するわけにもいかない。久しぶりに学校のある朝だから、本当に忙しいのだ。
さて、次は……。
妹の正面に座る人物へとため息交じりに視線を向ける。
いつも通りの澄ました座り姿勢。もはや見慣れてしまった可愛らしい感じのあるパジャマ姿。
しかしこの女、根津家の日常風景に馴染みすぎだろう。居候感はだいぶ薄まってきていた。
「お前もいいかげんにしろってば」
さすがに身内とは違い、身体を触るのは気が引ける。代わりに、椅子を揺らして衝撃を与えることにした。
ゆらゆらと力感なく揺れる中、普段の声色とは全く違う可愛らしい声が漏れだす。ほんと調子が狂う。これから学校だと思うとなおさら。
「もしかして、瑠璃の巻き添えで寝るのが遅かったのか?」
「……瑠璃さん、リビングにいたから。ちょっと本読んでてやめられなくて」
「お前って、結構自制心ガバガバだよな」
「うるさい」
ぎゅっと目を閉じると、五十鈴は軽く頭を振った。その語気は意外と強く、あからさまに不機嫌そうだ。
ただ、それで完全に目が覚めたらしい。ピンと背筋を伸ばすと、奴はしっかりした顔つきでやや冷めかけのパンに
それにしても、この奇妙な同居生活が今日まで続くとはな。いきなり決まったときには、夏休みの間だけの短い期間だと思ったのに。
まあ、五十鈴のおばあさんの具合がまだよくならないから仕方のないことだが。学校が始まれば、なおさら一人暮らしはしんどいだろう。
困ったときは助け合い。菫姉の言うことは理解できる。その肝心の姉様はまだまだ夢の中だが。大学生は夏休みが長くて本当に羨ましい。
「お前さ、くれぐれもうちに住んでること、誰にも言うなよ」
五十鈴のゆったりした食事姿を見ながら、思いついた言葉をぶつける。
「うん、わかった。でもどうして?」
「どうしてって……」
素朴に聞き返されて、言葉に詰まる。顔をしかめながら、思わず頭を掻いた。こいつ、頭いいくせして意外と勘の悪いところあるよな。
「どう考えても噂話の格好の餌食になるだろ。自覚ないかもだが、お前一応人気者なわけだし」
「そんなこともないと――」
「あるんだってば。第一、俺が困るんだ。あの五十鈴美桜と一緒に暮らしてるなんて周りに知られたらいったいどうなることやら」
「ふうん。そういうものなのね。……私は別に気にしないのだけれど」
何言ってんだか、このマイペースお嬢様は。みそ汁の器に口を付けるのほほんとした姿がなんともまあ素敵なことで。
「とにかく、この件は他言無用。いいな」
「うん」
大丈夫だろうか、本当に。すまし顔はどこまでも疑わしい。まあでも約束は守る奴か。ふと出会いのきっかけとなったできごとを思い出す。
ともかく、口止めすべきなのはもう一人いるか。
気を取り直して、再び背後に目を向ける。
――そこには軽い絶望が広がっていた。
「だから、早く食べろってば! 間に合わなくなっても知らんぞ」
五十鈴とは違って、瑠璃の方はまだ完全覚醒にはほど遠いようだ。さっき見た時から少しも朝飯の状態が変わっていない。
この調子じゃ何を言っても無駄だな。
諦めて、首を左右に振りながらキッチンへと戻ることにした。
※
昼休みも当然久しぶりだ。だからか、いつもよりだいぶくたびれた気持ちがする。午前中の授業は特別メニューだったわりには。
「で、お前らテスト、どうだったよ?」
話を切り出してきたのは卓だ。同じ机を囲む俺たちの顔をぐるりと見回してくる。
こうして四人で昼飯を共にするのもずいぶんと懐かしい気分だ。どいつもこいつも、大して変わっていないところがまた面白い。
「僕はまあそれなりかな」
「俺も晴樹に同じく」
「じゃあ俺も」
「ユータ、今更見栄を張るなって」
俺に便乗してきた押元を、より付き合いの長い卓が諫める。息ピッタリなタイミングだった。ツッコミの動作があれば完璧だったのに。
若干残念な気分になっていると、斜め前に座る晴樹と目が合った。すかさず向こうは苦い表情になる。
果たして、なにか気に障るようなことをしただろうか。
「でもさ、浩介君。本当のところは同じじゃないでしょ」
「何がだよ。俺の方は本当にそれなりだって」
「いや、そもそも僕とじゃそれなりの基準が違うって話だよ」
「そういや、根津って地味に頭いいもんな」
「そうそう。だぁから晴樹君は厭味に思ったんだもんな?」
「い、いや、そうは言ってないからね!?」
卓の悪意に満ちた指摘に、晴樹はギョッとした声を上げた。否定の仕方で逆にそう見えてくるが、まあこいつに限ってはそんなことないだろう。おそらく俺の友人の中で一番心優しい性格をしている。
諸悪の根源は陽気なサッカー部だ。しかし、いくら睨んだところでスカされるだけ。
仕方なく、怒りの矛先をまた別の人間へと向ける。
「押元、なんだよ地味にって。逆に訊くが、派手に頭いい奴って誰だ?」
「そりゃもう、美桜ちゃんに決まってるだろ!」
バシン――机を叩いて、押元は勢いよく立ち上がった。毅然とした表情で、なるほどパッと見だと雰囲気がある。
ああ、また始まったか。それを見て、俺は冷ややかな気持ちになっていた。
他の二人も同じように、どこか呆れ顔である。
「あんな美人で、しかも頭いいなんてまさに完璧! いいよなぁ、根津は。文芸部でいつも一緒なんて羨ましいぜ」
「じゃあお前も入ったらいいだろ。文芸部はいつでも新入部員歓迎だ」
我ながら、ずいぶんとテキトーなことを言ったもんだ。実際のところは不明だ。
まあ深町の例があるから、あながち間違いじゃないだろう。
それに今は大丈夫とはいえ、依然として部員数が存続にギリギリなのには変わりがない。
おそらく、五十鈴フリークの押元には魅力的な提案だろう。にもかかわらず、奴の表情はとてつもなく苦しそうだ。
「……ぐ、ぐぐぐ。そ、それはそうだけどよ。やっぱブンゲーってのはハードルが」
「ユータの活字アレルギーは折り紙つきだからな。朝読書でこっそり漫画読むくらいには」
「そんなことしてるんだ、押元君。バレたら怒られるよ」
俺も昔、朝読書の時間絵本を読んでいたことがある。だが、まだまだだったんだな。変にビビっていた自分が少し恥ずかしい。
じゃなくって、押元の奴まさかここまでだったとは。仲良くなって、改めてこの男の面白さに気が付かされる。
「うるせえやい! 俺の本嫌いはどうでもいいだろ。正直なところ、バドで手いっぱいだっての」
「そうか、残念だな。せっかく男子部員の仲間が増えると思ったのに……」
「男女比すごいもんね、文芸部」
他に男子がいなくて寂しい。
なんて、思ったことは一度もない。ただそれでも、周りが女子だらけだと、たまには居心地の悪さを覚えるわけで。
なんにせよ、別に今の勧誘は本気じゃないが。
ひとまず話のオチがついたところで、押元が席に着いた。
そのまま、話題は夏休みのことへ。
俺以外の三人は、結構夏休み中も顔を合わせていたらしい。みんな運動部だから、練習時間の前後や曖昧に意外と遭遇したのだとか。
なんとなく疎外感。文芸部だって普通に活動していたのに、誰とも出合わなかった。旧友の三馬鹿を含めて。
「案外みんな退屈な生活送ってたのな」
一通り話し尽くしたところで、押元がそうまとめた。とてもがっかりしたような口ぶりだ。
真っ先に反応を見せたのは卓だった。その言葉にぐっと顔を曇らせる。不服そうに、彼は頬杖を突いた。
「お前だってそうだろ。部活三昧だったくせに」
「ま、そうなんだけどな。でもさ、俺たち高校生だぜ? 浮いた話のひとつやふたつあってもいいじゃんか」
「だからお前が言うかねぇ……。ま、そういうことなら一番の期待株は浩介だったのにな」
ニヤニヤしながら見られても困るんだが。あえて言うんなら、そのムカつく顔面に右ストレートを入れたい。
とりあえず暴力衝動は封印するとして、ずいぶんと的外れだなぁと思う。
それこそ、サッカー部でバリバリやってる卓や、イケメン(残念)な押元の方がモテるだろうに。
「どういう意味だよ、それ」
「文芸部だよ、文芸部。女子いっぱいだろ。ホントはなんかあるんじゃないのか?」
「だから何もねえって。休みはもっぱら家にいたわ」
嘘は言ってない。時になぜか五十鈴や深町と街へ行ったりしたが、語る必要もないだろう。この野次馬根性丸出しな友人と、五十鈴フリークの友人の前では。
「ふっ、悲しい日常だな。まあ俺としては安心だけど」
「どういう意味、押元君?」
「こいつと美桜ちゃんに何もなかったってことさ」
「……ユータ、まだ五十鈴のこと狙ってんのな」
「いいだろ、別に! カレシがいるってわけじゃないんだし」
「どうだろうな。――それこそ、浩介。何か聞いてないのか?」
「逆に、俺がそういう話すると思うか?」
ないない、と卓だけじゃなくほかの三人まで首を振りやがった。いや、正しいんだけど、それはそれで腹が立つというか。
しかし、ますます同居人の話はタブーだな。万が一にでも口を滑らせた日には、何が起こるかわかったもんじゃない。特に、押元の前だと。
これは墓場まで持っていくべき秘密……せめて、卒業までは。
改めて決意を固くするのだった。
だったのだが――
「根津君、お弁当ごちそうさま。とても美味しかったわ」
昼休みもそろそろ終わるころ。おそらく部室に行っていたであろう同居人が教室に戻ってきた。そしてなぜか、こうして真っ先に俺の元へ。
もちろん、友人たちは変わらず近くにいるままである。ちょうど午後の授業の文句をぶつけあっていた。
「……根津、今の話は――」
「はっはっは、何を言ってるんだか、五十鈴さん。人違いでしょうに」
「?」
とぼけたような顔をされてしまった。
……こいつ、もしかしてわざとやってるんじゃないだろうな。
とりあえず、その弁当の包みはしまっていただきたい。
こんなことなら、こいつの分まで用意するんじゃなかった。本人は別にいらないと言ってたのに、我ながら余計な世話を焼いたもんだ。今朝の俺をぶん殴って、土に埋めたい。
しかし、この状況は非常によろしくない。周りの人間からの圧がすごすぎる。特にある一人の目つきが……その、まるで人を殺しそうなんだけど。
「と、とにかく、自分の席戻れよ。しっし」
言いながら、手で払うような仕草までつけた。
「うん。――あ、それと、今日の放課後緊急ミーティングがあるって」
ようやく、五十鈴が去っていく。たぶん、こっちの方が本題だったんだろう。礼の方はついで。そのついでが、あまりにも強力過ぎたが。
にしても、緊急、か。その言葉を聞いて、悪いイメージしか湧かない。せめて、もう少し情報をよこせよと思う。……はぁ、ひたすらに気が重い。
「さあて、浩介。それはさぞ面白い話を聞けるんだろうな」
だが、差し迫ってはこの窮地をどうしたら脱出できるか、だ。友人たちの笑みがひたすらに怖い。
五十鈴の奴、覚えてろよ……恨みを静かに積み上げつつ、必死にいくつかの言い訳を練り上げるのだった。
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