第84話 紐を解く

 胴着姿が横一線に並ぶ。誰ともなく、射るための動作に入っていく。そこには当然のように個性があって。

 道場はすっかり静寂に包まれていた。少しずつ張りつめていく空気。射手が替わるインターバル時の緩んだ雰囲気はもうどこにもなかった。


 的までの距離は二十八メートルらしい。数字だけ聞いても、それが近いのか遠いのか、あまりしっくりこない。


 けれど――


 バラバラに響く弦音。その数と的を貫く音の数は一致しない。少し遅れて、控える部員たちの「よし」という掛け声が続く。


 この的中具合を見れば、弓道という競技の難しさはよくわかる。中り外れを基準にすれば、私にだって上手じょうず下手へたの判断ができるかもしれない。

 でも、観点はそれだけじゃない。素人にはわからない何かがある。例えばフォームとか。あるいは気構え。経験者にしか見分けのつかないことがきっと。


 だからこそ、私にすらわかるくらいにその人は際立っていた。


 射手は通常持つ本数は四本。その四射を全て中てることを、皆中かいちゅうと呼び、達成した場合には拍手が起こる。


 次々に射場から射終わった部員が出てくる。その中で最後まで残っていたのは、一番左の的に向かう男子。バタつく周囲を歯牙にもかけず、彼は静かに矢を番え的の方に顔を向ける。


 ギリギリと、ここまではっきり弓を引く音が聞こえてくる。矢はどこまでも並行を維持して、彼の口元の高さまで達する。

 そこが果て。一点を引き延ばされたつる、壊れんばかりにしなる弓、射抜くべき物を捉える矢。

 誰かが停止ボタンを押したように、彼には微塵も動きがない。伸びた左腕と右肘がまっすぐな線分を作り出す。目が奪われるほどに見事な姿勢。


 終わりは突然訪れた。あるいは、経験者にはきっかけがわかるのかもしれない。

 放された弦が、「キャン」と澄んだ音を立てる。弦音はやはり他と比べると聞き心地がいい。

 的は使い古されていて、小気味のいい音はしない。代わりにか、矢同士が触れる音が微かに聞こえる。


 そして、締めくくるのは掛け声ではなく拍手だった――

 

「ふーっ」


 長く息を吐きだして、部誌から目を上げる。まだ文は続いているが、とりあえず小休止することにした。


 五十鈴の作品は短編集だった。いわゆる、みたいな名前の奴。一つ一つの話は共通のテーマを基にしている。

 そのテーマとはおそらく部活動……だと思う。とにかく、弓道部の以外にも様々な部活が取り上げられていた。

 さらに言うと、焦点となっているのは部全体じゃなくて個人。エースと呼べるような存在やひたむきな努力家が話の中心だ。


 作品自体の善し悪しは俺にはよくわからない。ただスラスラと読み進められたのは事実だ。引き込まれた、と言うべきかも。

 やろうと思えば、弓道部以外飛ばすことはできた。読む前の一番の関心毎はそれ。五十鈴美桜が部活見学をしてまで作り上げたものはなんだったのか。


 でも、一行目を読んで流れるように続きに目を通した。そしてようやく最後の話。すなわち、弓道部のパートまでやってきた。

 よほど懸命に取材したんだろう。あちこちにその痕が見て取れた。まあその割に、俺はやはりその時のことを覚えていないんだけど。自分の非人間っぷりを改めて自覚し、いたたまれない気分になる。


 他のパートはまだしも、やはり弓道の話となれば実体験を重ねてしまう。当時のことを思い浮かべるが、果たしてこのモデルは誰なのか。

 いやそもそも、現実の人物を念頭にしているかもわからない。五十鈴が各部活動を見て構想を得ただけかもしれない。

 元我が部においては、まるで見当がつかないし。皆中が当たり前なんて化け物、先輩にだっていなかったぞ……。


 さすがにくたびれてぐっと身体を伸ばす。軋み声を上げる背もたれ君が、一段と癒しに貢献してくれる。


 再び机に向き直して、俺は改めて目次を開いた。


『キラキラを集めて』

 読んでみれば、なるほどタイトルは意外としっくりくる。『集めて』というのは、短編集だからか。

 でも、じゃあキラキラ、とは。作者の意図が――五十鈴美桜という人物が何を思って、一連の作品をかき上げたのかは見えてこない。


 ちらりと後ろを振り返る。扉の奥にあるリビング。まあ今はその前にまた扉が立ち塞がっているんだろうけど。

 労力を厭わなければ、作者にすぐに会いに行ける。開口一番聞けばいい、お前は何を書きたかったんだ、と。


 でもそれはあまりにも乱暴すぎる気がする。なにせ、お邪魔虫がいるのだから。無用な力技は避けたいところだけど。


 コンコン。


 扉を睨んで思い悩んでいると、ノックする音が聞こえてきた。併せて、扉が小さく振動するのが目に入る。

 これはもしや、渡りに船。いや、噂をすれば影が差す?


「五十鈴か」

「…………うん。なんでわかったの?」

「我が身内に、ノックなんて上品な習慣はないからだ」


 扉を開きながら答える。すかさず、居候の姿が視界に紛れこむ。

 ちょっとは驚いてると思ったが、残念ながらそこにあるのはいつものポーカーフェイス。今ではそこまでの鉄仮面ではないと知ってるが、五十鈴ちゃんはこの程度では動揺しないらしい。そう認識を新たにしておく。


「で、用件は?」

「菫さんと瑠璃さんが言い争いを始めて」

「……よくある話だな。今日は大人しいと思ってたんだが」


 腕組みをしながら、渋面でため息をつく。今まで何もなかったから、それが逆フラグだったか。


「迷惑かけるな」

「ううん。止めに来ないんだ」

「放っておけそんなの。どうせ瑠璃の方が菫姉泣かせて終わりだ」

「ばいおれんす」


 ロボットのように無機質な口調で言うと、五十鈴はまばたきを繰り返した。無表情のままだと、ちぐはぐさがより際立つ。


 耳を澄まして聞こえてくるのは、専ら妹君のけたたましい声ばかり。それを聞くだけで、首を突っ込む気は全て失せる。昔ならまだしも、最近の瑠璃を相手取るのは俺だって骨が折れるんだから。


「ところで、何か取り込み中だった? てっきり、すぐ飛んでくると思ったのだけれど」

「ん、ああ。それはな――」


 ちょうどいい。こちらから切り出そうと思ってたくらいだ。

 いい機会を得て、俺は踵を返して机にも戻る。そして、右手に部誌を握るとまた五十鈴と向かい合った。


「これを読んでたんだ」

「…………どうして持ってるの」


 これにはさすがの五十鈴さんも驚いたらしい。珍しく目を見開いて、動揺のままにこちらを見てくる。


「変な言い方だな。部誌は部室にあるもんだろ」

「嘘。だってそれは――」


 言いかけて、容疑者は口を閉ざした。さすがに直前で、決定的な言葉だと気づいたらしい。


 いやまあ、もうこの時点でバレバレだけど。だてにここ最近の読書でミステリばっかりかじってるわけじゃない。名探偵根津、ここにあり、だ。


「おやおやぁ? その口ぶりからすると、五十鈴さんは思い当たる節があるみたいですね」

「……別に何も」

「端的に言うが、部室にあった去年の部誌を隠したの、お前だろ」


 もったいつけたまま推理を披露しようと思ったがやめた。難しそうだし、第一面倒くさい。

 よくまああいつらは、目の前の真実を前にして回りくどいことができるもんだ。


 会心の指摘に、意外と相手は表情を変えない。観念したのか。それとも、完璧な言い訳でも持っているのか。

 とにかく、向こうの出方が楽しみだ。ニヤニヤと、余裕たっぷりに反論を待つ。


「家に持って帰ったまま忘れてただけよ」

「学年一の才媛が?」

「うん。私、意外と忘れっぽいの」

「全くそんな風には見えないけどな。忘れ物とか、お前から最も縁遠い言葉だろ」


 険しい顔で五十鈴を睨む。この期に及んでなんと往生際の悪いことか。ちょっと子どもっぽい一面を見た気分だ。


 そのまま少しの間にらめっこは続いたが、やがて相手の方が顔を逸らす。視線が逃げた先で捉えるのは、俺の手にある去年の部誌だ。


「それで、読んだの?」

「ああ、当然」


 またしても不自然な沈黙が訪れる。先ほどとは違って、俺の方に優位性はない。かといって、それは向こうも同じだが。


 五十鈴はやっぱり表情を変えない。その涼しい顔の裏で、今何を考えているのか。こいつが居候してきてそれなりに経つ。でも、やはりまだ掴みどころがないところがいっぱいで。


 何かをあきらめたように、五十鈴が吐息をこぼした。それが沈黙の終わり。気まずい空気は次第に薄れていく。


「弓道部の見学、来てたんだな」

「やっぱり覚えていなかったんだ」

「……やっぱりって」

「本屋の時はまだしも、始業式の日だって少しも反応してくれなかったでしょう、キミ」


 くすりと、五十鈴は唇の端を曲げる。こいつにしては珍しく、底意地の悪さに溢れていた。


 そうか。こいつはずっと俺のことを知ってたんだな。見学に来た時にでも見かけた……って、やっぱり記憶力いいじゃないか。

 ひたすらにバツが悪い。直接的に責められてるわけじゃないけど、どうしても負い目を感じてしまう。


「言ってくれればよかったのに」

「別にいいかなって。あのときだって何か話したわけじゃないし」

「そうか」


 まあ言われても困惑してただろうが。実際、その事実を知った今でさえどう扱えばいいか困っているのだから。


 というか、そもそも本題はこれじゃない。俺と五十鈴が一年前に道場ですれ違ってた。思いもしなかったことだが、ただそれだけのこと。

 本当に確かめたいのは――


「なあ、五十鈴。キラキラってなんだ?」

「…………根津君って、意外と意地悪だよね」


 これまた珍しく五十鈴は顔を曇らせた。恨みがましく半目でこちらを睨んでくる。


 やっぱり直接訊くのはまずかっただろうか。二人きりということで、一応配慮はしたつもりだったんだけど。

 まあ、部誌を隠すくらいだもんな。そんなに読まれたくないなら、部誌にするなよ、と思わないでもないが。


「言いづらいんだったら」

「――私には目標がないの」


 いいけど、そう言う前に五十鈴の言葉が被さった。行き場を失った言葉を飲み込んで、俺はあいつの顔を見る。


 どこか深刻そうな言葉とは裏腹に、やはり五十鈴は涼しい顔をしているだけだった。

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