第83話 他人と身内

 ガタンゴトンと揺れる地下鉄車内。休みの日の夕方、しかも中心地からの下り線とあれば、かなり混んでいる。

 俺と深町は、乗降口近くに並んで立っていた。見上げればそこには駅名を示す電光掲示板。


「俺、次の駅だから」


 声をかけると、深町は微笑みながら静かに頷いた。

 別に話ができない雰囲気でもないが。座れないぐらいの混雑具合だが、ぎゅうぎゅう詰めにはほど遠い。


 降りる駅が近づくにつれて、くたびれた気持ちが強くなっていく。午前中そこそこから日が沈みかけるくらいまで活動していたんだから当たり前か。


 にしても、今年の夏休みはまたずいぶんと充実している気がする。クラスメイトと一緒に遊びに出かけるなんて、これで何度目か。とりあえず、過去最高記録は更新だ……だって去年はゼロだからね。

 

 独り妙な感傷に浸っていると、機械音声が次の駅名を無感動に告げる。

 手すりを握る手にぐっと力を入れて、何となく姿勢を整えた。ドアの窓はただ飽きもせず暗闇を映すだけ。


「あの、根津君」

「ん」


 ちらりと、視線だけ深町の方に向ける。どこか躊躇ためらいがちだったのは車内だからだけじゃなさそうだ。彼女の顔は少しだけ強張っていた。


「今日はその……楽しかったですか?」


 伏し目がちにおずおずと。すぐさま周りの雑音に飲み込まれてしまうような小声で。


 でも、しっかりとこの耳に届いた。


「ああ、楽しかった。興味深い話も聞けたしな」

「…………そうですか」ちょっと間が空いて、曇ったままの表情で受け止める深町。だがすぐに「ならよかったです。あたしだけじゃなくって」とはにかんだ。


 何か言わないと、でも何を――わからなくて、俺は相手の顔をただ黙って見ていることしかできない。

 もう見知ったはずなのに、クラスメイトの雰囲気がいつもと違うような気がする。この場所か、服装か、あるいは初めて見る表情のせいか。きっとそれらの合わせ技なんだろう。


 沈黙と戸惑いはそう長くは続かなかった。

 電車がゆっくりと減速し始める。俺たちの一日の終わりへ向けて。


「えっと、ありがとな誘ってくれて。じゃあまた学校で」

「それはあたしのセリフだよ、根津君。付き合ってくれてありがとう。それと、ひとつ間違ってる」

「……間違い?」

「また明日、道場で」


 にこっと、どこか冷やかすように女子弓道部員は笑う。顔の右側で小さく手を振りながら。


 俺としては、乾いた笑みを漏らすことしかできない。ちょうどドアが開いて、救いを求めるように車外へ飛び出した。

 電車が発車するまで、邪魔にならないところで待つ。深町の方も、にこやかにこちらを見ていた。

 ドアが閉じればあとは速い。あっという間に、彼女の姿はスライドして消えていく。激しい音と風が起こったかと思えば、残るのはちょっと恐怖を感じる薄暗い空間だけだ。


 ちゃんと約束したことだから、破るつもりはないけど。まあ有耶無耶になってないかなぁ、と少しは期待したのは事実なわけで。

 がらんとしたホームを歩きながら、別れたばかりのクラスメイトのことを考える。大人しいタイプと思っていたが、それは間違いだった。意外と積極的なんだ、と人物評価を改めるのだった。




        ※




「ただいまー」


 玄関のドアを開きながら小さく声を出す。ようやく辿り着いた我が家に、心の底からホッとした。


 当たり前のように、誰も出迎えてはくれない。そもそも、俺の帰宅を連中は認識しているかすら危うい。

 そう思っていたが、視界に飛び込んできたのが一人、いや――


「にゃあ」


 一匹。居候が持ち込んだ黒猫さんだ。我が姉妹のアイドルだが、実際には俺の方に懐いている節がある……自意識過剰かも。

 とにかく、やってきたオーガイは玄関マットの上で停止した。つぶらな瞳がこちらを見上げてくる。もしかすると、お出迎えのつもりだろうか。

 思わず顔が綻んでしまう。靴を脱ぐのも忘れて、しゃがみ込んでその頭へと手を伸ばしてみるが。


「オーガイ、待って」


 その声でなんとなく手を引っ込めた。

 ちょっとぎこちなくなっているうちに、声の主が静かにその姿を現す。


「あら、根津君。お帰りなさい」

「……ああ、ただいま」


 黒猫の飼い主は、俺の姿を認識して少しだけ意外そうな顔をした。グレーのパーカーとジーンズというラフな服装。


「どうしたの、その顔。もしかして、オーガイが何か迷惑をかけたかしら」

「いや。ただなぁ、実の姉妹ではなくよその猫と居候に出迎えられるとは……世の中、世知辛いなぁと」

「呼んでくる?」

「いいよ」


 オーガイに気を付けながら靴を脱ぐ。未だ、胸の中では微妙な気持ちが燻ったまま。あいつらの薄情さ、ではなくこの事態の珍妙さに。


「……ねえ、お兄ちゃん帰ってきたっぽくない」

「え、ホント!?」


 畳みかけるように、とんでもない話し声がリビングから聞こえてくる。

 とりあえず、聞き耳を立ててみることに。


「ヤバ、隠さないと!」

「お姉ちゃん、こっちも!」


 バタバタと、するべきじゃない音がリビングの方から聞こえてくる。えげつないほどに騒がしい。


「……何してたんだ、お前ら」


 一応、抱っこした猫を可愛がっている居候に尋ねてみる。しかし、返ってきたのは疑問符いっぱいの反応だけ。

 後ろめたさを覚えているのは連中だけか。見当はつかないものの、ろくでもないことだけはわかる。


 呆れながらも、俺はリビングへと向かった。入るや否や、瑠璃から先にすっ飛んでくる。


「お、お、お兄ちゃん! お帰りなさい!」

「こ、浩介君、早かったんだね!」


 姉妹すみるりは少しも動揺を隠せないでいた。もうちょっと何とかならないのか、と身内ながら心配だ。

 二人の肩越しに奥の方へと目を向ける。よくは見えないが、食卓に何かが並んでいるようだった。

 時刻は六時半過ぎ。まあ十中八九夕飯だと思うけど。


「隠さなきゃ、ってのは?」

「何のことでしょう?」とへたくそな口笛を吹くるり

「そんなことより、まずお着替えでしょう、浩介君」と保護者モードなすみれ


 付き合っていられなくて、二人を押しのけて食卓へ。


「わあ、ダメだってばお兄ちゃん!」

「そうだよ、こんな乱暴に……お姉ちゃん、悲しい!」

「やかましいっ!」


 バイオレンスな掛け合わせもそこそこに、なんとか目的地に到達した。

 そこで目にしたものは、スーパーのお寿司のパック三人分。しかも、ちょっと高めのやつ。寿司パーティ、そんな楽し気な言葉が脳裏を過る。


「……ふむ。で、誰の分がないわけ?」

「もちろんお兄ちゃんだよ!」

「なぜ開き直る……」

「だってさ、翠先輩とご飯食べてくるはずじゃん。なんでそうじゃないわけ。もしかして、何か変なことして幻滅された?」


 瑠璃は鋭い目をしてぐいぐいと詰め寄ってくる。先ほどまでの劣勢ぶりはどこへやら。

 あらぬ疑いを掛けられるとはまさにこのこと。振り返ってみても、特に問題行動はしなかったし。そもそも、夕食を食べるのの字も出なかった。


「そもそも向こうの方から『いい時間だから帰ろう』って言いだしたぞ」

「え、ホント? ……ううん、翠先輩にはちょっと荷が重かったか」

「まあとにかくだ。俺の晩飯はない。そういうことでいいかな、菫姉」

「……うん。遅いって聞いたから、浩介君の分省いて奮発しちゃった」


 ペロリと舌を出す現役女子大生。年齢を考えろ、と言いたい。子どもじゃあるまい――見た目だけなら瑠璃よりも幼く見えるか。

 語尾が上がっているのもまた腹が立つ。自然と眉間に皺が寄って、ちょっと端の方がぴくつくですけど。


 釈然としないまま黙り込んでいると、ポンポンと肩を叩かれた。

 振り返ると、五十鈴がリビングへとやってきていた。オーガイはその手の中にはもういない。


「根津君、私の分わけてあげるから大丈夫よ」

「お、おお。ありがとう、五十鈴」


 戸惑いながら、素直に感謝の言葉を述べる。今日はよく他人のやさしさに気が付かされる日だ。血のつながった姉妹がこれだからなおさら。


「ったく、赤の他人がこうなのにこいつらは……」

「うわっ、そういうこと言うんだ。美桜先輩、ダメですよ、甘やかしちゃ!」

「そうそう。美桜ちゃんは気にしないでもいいからね~」

「そうじゃねえだろ」


 ポンポンと、リズミカルに姉妹の頭を小突く。ここぞとばかりに謎ムーブをかますんじゃない。そろそろ、自分たちが元凶だという自覚を持ってほしい。


「五十鈴、とりあえず気持ちだけ受け取っとく。俺の分はこのボケどもから強奪するから」


 心優しき居候に声をかけてから、姉妹すみるりを改めて睨みつける。

 

「うぅ、おねえちゃん、こわいよぉ」

 さっと、瑠璃は姉を盾にした。

「大丈夫よ、瑠璃ちゃん! お姉ちゃんがなんとかするから!」

「張り切りどころがおかしいだろ、このシスコンバカ姉」

「……シスコンなのは根津君もよね」

「ちがわいっ! ってか、お前まで妙なことを言うんじゃねえ」


 結局、帰宅してからもすぐには心は落ち着かないのだった。学年が上がってから、日常が騒々しくって仕方がない。




          ※




 ひと悶着あったものの、俺も無事に今日の夕食にありつけた。もちろん、姉妹すみるりから強奪した……のではなく、新しいのを自分で買いに行って。

 しかし、一回帰ってからすぐ出かけるなんて一層疲れた。美味しいものを食べた今、少しは癒されたものの、ちょっとリビングで寛ぎたい。


「はい、お兄ちゃん。さっさと出てって」

「……は? お前、喧嘩売ってんのか」

「きゃー、今日のこーすけおにーちゃん、ほんとこわいよー」

「こら、浩介君。瑠璃ちゃんを怖がらせないの!」


 この種の茶番、今日何度目だろうか。いつもはここまで仲良くないくせに。瑠璃のやつ、菫姉を弄びすぎだろ。


 何はともあれ、そのまま俺はリビングを追い出される羽目に。男子禁制――なんか女子会っぽいことやるんだって。

 たぶん、もともとそのつもりだったんだろう。俺の帰りが遅いから、女三人盛大に羽を伸ばす……いや、二人に一人が付き合わされる、か。

 俺が突入する前に隠したものにヒントがあるんだろうが、まあどうでもいい。寿司が食えただけで満足だ。


 それよりも―― 


「あった……って、なかったら大問題だよな」


 鞄の中身を丁寧にベッドの上に広げていく。いつもならこうざーっと、ひっくり返したりなんかして確かめるけど。

 探し物は学校の図書室から借り出したもの。ぞんざいな扱いは許されない、と司書の中野さんの顔を浮かべながら思い直した。


 取り出した去年の文芸部部誌を手に机に向かう。ベッドの上を片すのは面倒なのもあるが、なんとなくちゃんとした態度で読まないといけない気がした。

 何の因果か、今の俺は一応文芸部員。先人たちには敬意を払わねば。


 凝ったデザインの表紙を開くと、すぐのページが目次だった。上から指で謎って、逐一作家を確認していく。


 見覚えのない名前が並ぶ中、今の三年の先輩たちを発見した。当然、三井先輩のもそこにある。なんだか不思議な気分……。

 そしてようやく――


『キラキラを集めて』


 ずいぶんとファンシーなタイトルだ。これだけだと、とてもあいつは連想できないけれど。


 でも確かに、その下に『五十鈴美桜』の名前は記されているのだった。


 逸る気持ちを抑えつつ、俺はそのページをゆっくりと開いた。

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