第79話 突然のお出かけ
「あの、行きたい場所があるのだけれど」
夕飯時。沈黙を、やや高い声が斬り裂く。
それはあまりにも唐突だった。それでいて、あまりにも自然。思わず聞き逃してしまいそうになるほどに。
俺は口の中の物を飲み込んで、茶碗を置くとコップをあおった。やや居ずまいを正しながら、奴の顔を直視する。
本当に言葉を発したのか、不安になるほどの無表情具合。しかし、食事をする手が止まっていることから、それは確かなのだろう。
「それは俺に言ってるのか?」
「うん」
確認するまでもないことだ。その口調と、視線の先が、物語っていた。
おまけに、姉と妹は一切手を止めていない。先ほどちらりと視線を上げた程度。
「……で、どこに行きたいんだ」
「病院。おばあちゃんのお見舞い」
予想だにしない言葉に、ちょっと言葉を失いそうになる。
「どうして俺が」
「一度連れてきなさいって。お世話になってるから」
俺は思わず、食卓を見渡した。煮込みハンバーグを中心としたメニューが並ぶ中、姉妹の姿を確認する。
二人ともやはり平然と食べ進めている。よほど味わい深いのか、のろのろと。あるいは、聞き耳を立てているのかも。
「話はわかったが、姉貴たちは?」
「もうこの前一緒に行った」
「初耳だぞ」
流石に驚いて、目を見開いた。
「言ってないから」
何を当然のことを、というような表情。
そうだった、この五十鈴美桜って女は基本冷淡だ。共同生活が二週目に突入したせいで忘れていた。
実際には、感情の起伏が少ないだけだが。喜ぶときは喜ぶし、悲しい時は……どうなのだろう。
我ながらくだらないことを考えたものだ。ため息をついて、想いを振り払う。
「こいつらが行ったんなら、俺は別によくないか」
「誰がこいつ、よ」
「そうだよ、浩介君。口が悪いのはダメです!」
「ええ、目に余るわ、根津君」
「お前ら、いつの間にそんなコンビネーションを……」
まるで、部室にいる時のような気分だ。あそこの女子たちも、一人を除き、俺に対して辛辣な言葉を送ってくる。
というか、なぜに俺の周りにはこんなに女連中が多いのだろう。そんなのとは、無縁に生きてきたと思ったんだが。
まあ、姉妹は選べないけれど。でも、客人は選べたはず。家主によってねじ伏せられたものの。
どうやら、俺に選択肢はないらしい。残り少なくなってしまった夏休み。残念なことに、課題の追い込みも持ち合わせていない。
益体のない言い方をすると、暇だ。やることといえば、部室に入り浸るか、周五郎辺りとゲームに興じるか。
振り返ると、さもしい日常である。
「わぁーったよ。で、いつだ?」
「明日はどう?」
「そうだな、ちょっと予定を調整――」
「なに見栄張ってるのよ、万年暇人」
瑠璃はせせら笑ってきやがった。最近は、兄を軽んじる傾向がより増してきたと思う。
秘術でも使って、昔の純真無垢な姿を取り戻させたいところだ。
「菫お姉さま、この小娘の口のきき方はいいんですかね?」
「愛くるしいじゃない。ね、美桜ちゃん」
その顔が、賓客の方を向いた。
「ええ。あなたと話してる時の瑠璃さんは、とても楽しそうに見えるわ。お兄さんのこと、大好きなのね」
とんでもない爆弾発言が、クール娘から飛び出した。
「ちょ、ちょっと、変なこと言わないでください、美桜先輩!」
顔を真っ赤にして、あからさまに動揺する我が妹。リビングを、物騒な音が襲う。
露骨に顔を顰める姉君。澄ました表情で箸を進める、五十鈴ちゃん。
静かだった食卓は、たちまちにその様子を失った。
そういえば、天然のきらいもあったな、五十鈴には。初めは気のせいだと思ったが、もはやこの付き合いの中で認めざるを得ない。
俺は早急に食事を終えて、部屋に引き上げることにした。これ以上ここにいると、どんなトラブルに見舞われるか、わかったものじゃない。
その後、多少の問題はあったものの、無事に夜は明けた。
「じゃあ行ってくる」
「うん、きをつけてぇ」
朝食を済ませて、午前十時をちょっとすぎた頃。玄関口に並び立つ俺と五十鈴を、姉貴が送り出しに来てくれた。
もう一人の小娘は、相変わらず部活に励んでいる。今日も二時間ほど前に家を出て行った。直近の大会で、好成績を収めたとかなんとか。
「姉貴、まだ寝ぼけてやがるな」
靴を履いて振り返ると、菫ちゃんは寝ぼけまなこを擦っていた。
「そんなことないよぉ」
「説得力が皆無だ」
力なく首を振るが、それ以上に返ってくる言葉はなかった。
「行ってきます」
五十鈴が最後を締めくくって、俺たちは外に出た。
ガラスには、制服を着た男女の姿。その奥の空は、とても晴れ渡っていた。
*
五十鈴の祖母が入院しているのは、この街の市立病院だった。我が家からはバス一本。並んで座り、二十分ほど揺れに身を任せた。
外観は巨大で真新しい。道には石畳が敷かれている。ここに来たのは初めてだった。そもそも見舞いすら。
きっとそれは、幸せなことなのだろう。十七年生きてきて、今のところ、誰の不幸にも遭遇していない。
五十鈴は臆することなく中へと入っていった。奇麗なエントランスを抜けて、受付にいる女性と何かを話す。
手持無沙汰に待っていると、程なくして戻ってきた。
「こっちよ」
「あいよ」
五十鈴は、人の多い院内を進んでいく。毎日のように通っているからか、その足取りに迷いはない。
やがてエレベーターに乗ると、五階の文字盤を押した。
廊下を抜けて、辿り着いたのは大部屋。白を基調として、清潔感に満ち溢れている。
「あなたが、浩介君?」
一番奥に、その人物は寝ていた。開放的な窓のそばのベッドで。わきの棚には、花束の挿してある花瓶。
俺たちが傍らに立つと、彼女は身体を起こした。
皺の少ない顔に、柔和な笑みを浮かべている。どこか上品な雰囲気。たおやかで落ち着いた感じは、少しだけ五十鈴に似ていた。
「はい。ええと、この度は、その――」
「いいのよ、堅苦しいのは嫌。初めまして美桜の祖母のしづ子です」
しづ子さんは、ひょうきんに顔をくしゃっと歪めた。そして、ゆっくりと右手を差し伸べてくる。
俺はそっと手を握った。がさついた肌、決して嫌ではなく、とても暖かみがあった。
「お姉さんも妹さんも可愛らしかったけれど、あなたもなかなかハンサムね」
「……はあ。どうもです」
当たり前だが、真に受ける俺ではない。平々凡々なのは自分でよくわかっている。俺はどこにでもいるような、ありふれた人間だ。
「この子からよく話は聞いているわ」
「ホントですか」
「ええ。例えば新歓を手伝ってもらった、とか。勉強を教えてもらった。他には、ソフトボールの話とか」
こいつ、何から何まで話しているみたいだな。大体のエピソードが網羅されてるじゃないか。
横目で睨むも、奴の顔は涼しげだ。
「別に俺は何もしてませんけど」
「そうなの?」
彼女の顔は孫の方を向いていた。表情が完全に愉しげなものに変わっている。
話している感じ、とても悪い病気に罹っているとは思えなかった。顔色もいい。とても元気そう。ともすれば、一昨日、その前の日と会った、うちの祖父母よりも。
「うちの美桜の面倒を見て頂いて、本当にありがとう。この子、結構迷惑かけてるでしょう?」
「そんなことないです。むしろ、助かってるというか」
「助かる? ろくに家事もできないのに」
「おばあちゃん!」
馬鹿にしたように鼻で笑った祖母のことを、五十鈴は睨んだ。目を細めたムッとした表情は、初めて見るもので、ちょっと新鮮だ。
「浩介君は料理上手だと聞いたわ。この子にも、あなたのお姉さん、妹さんにもね」
「いや、それほどじゃ。簡単な中華料理しかできません」
「ぜひ食べてみたいわ」
ありがとうございます、と曖昧に答えて、俺は頭を下げた。
正直に言って、ここに来てからずっと緊張しっぱなしだった。初対面、それも年長者とくれば、どうも話すのに気を遣ってしまう。
その後も他愛のない世間話が続く。もっぱらしづ子さんが話して、俺が答えるだけ。五十鈴は余程のことがない限りは、黙って耳を傾けていた。
「っと、そろそろお昼ね。あたしとしたことが、つい話しすぎちゃった。若い男の子が訪ねてくれることなんて、めったにないし」
「そう言ってもらえると光栄です。自分も楽しかったです」
「おべっかが上手いのね、あなた」
彼女は優しそうに目を細めて笑った。
本当に穏やかな人だと思う。それでいて、活力に溢れている。そして、時には、お茶目な一面をのぞかせも。
五十鈴が毎日のように、ここに来る理由が少しはわかる気がした。心配もそうなんだろうが、一番は落ち着くのだろう。
赤の他人の自分さえ、ここにいると、話を聞いていると、安らかな気持ちになれた。
「ほら、いつまでもこんな老人の相手はしないでいいわよ。せっかく天気がいいんだから、二人でどこかに遊びにでもいったらどうかしら?」
そう言って、しづ子さんは窓の外を見上げた。
「いや、でも、おばあちゃん」
「だいたい、何も一日中いることはないでしょう。どうせ、そのうちに本を読み始めるわけだし」
「そうだけれど……」
予期せぬ口撃に困ったらしく、五十鈴は弱々しい目をこちらに向けてきた。
しかし、俺にもどうしようもない。第一、こちらは初めから巻き込まれた身なのだから。
「この子がこんなんじゃ、浩介君も色々苦労が多そうねぇ」
呆れたように首を振るしづ子さん。
「いや、苦労だなんて」
濁してみたが、彼女の言葉の意味はよく分からなかった。
「この通り不束な孫娘ですけれど、これからもよくしてあげてね」
「その、こちらこそ」
「おばあちゃん、何を言っているの!」
悪戯っぽく笑うしづ子さんと、顔を真っ赤にする五十鈴。その光景が、最も印象的だった。
そのまま二人、病室を後にする。五十鈴の方はまだ残るつもりだったようだが、祖母から強く追い返されたら、従うしかなかったらしい。
病院を出たところ、ぬるい風に当たりながら顔を見合わせる。夏の正午過ぎの日差しは熱くて痛い。
俺たちは途方に暮れていた。正確に言えば、俺の方はあてがある。わざわざ制服を着てきたのは、別にこのおかしな女に合わせたわけじゃない。
当然、最近の日常の例に漏れず、部室に向かうつもりのため。そろそろ、部誌原稿のスパートをかけねばまずい。
「どうしよう」
「俺は学校行くぞ」
素っ気なく答えたが、五十鈴はただ、じーっとこちらを見てくる。
……無言の圧力を感じる。いや、俺が過敏になっているだけかも。こと、五十鈴美桜とうまく接するには、『察する』という能力が最重要になってくる。
「お前も行くか。みんなも、会いたがってんぞ」
「ええ、そうしよう――」
ぐぅ。誰かの腹の音が、五十鈴の言葉を遮った。
「腹減ってんのか」
「減ってない。根津君のでしょう、今の」
「自分のじゃないのはよくわかってる。そして、自分のなのもよくわかってるはずだろ」
「回りくどい話し方するのね」
きっと眉を寄せると、彼女はそのまま歩き出していってしまった。俺に対して怒りを見せる時は、決して声を荒らげたりはしない。ただ、不機嫌そうなオーラを纏わせるばかり。
仕方なく、俺も後ろについていく。どこへ行くつもりか、進行方向はバス停とは逆。
「お昼、食べるんでしょ」
「食べたいの間違い――」
「うるさい」
つっけんどんな五十鈴の後ろに、俺はただ付き従うしかないのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます