第80話 しばらくぶりは危ない

 ジト―、っと半目で正面に座る女子を眺める。その前には高さのあるガラスの容器。チョコレートパフェの面影はごく僅か。


「お前って、意外と甘い物好きだよな」

「そうかしら」


 言いながらも、決して五十鈴はスプーンを操る手を止めようとはしない。かさましの役を担ったコーンフレークと、淡々と闘い続けている。


 それを見ながら、俺はすっかりぬるくなったコーヒーに口を付けた。彼女が食後のデザートを注文する際、せっかくだからと頼まされたもの。待たせておくのも、申し訳ないから、と。結構強く勧めてきた。


 俺たちが昼食の場に選んだのは、結局、学校近くのファミレスだった。記憶の限りでは、中間テスト期間中に一度だけ来た覚えがある。

 

「ごちそうさまでした」


 背筋を伸ばして、ぴたりと手を合わせる五十鈴。古風というか、奥ゆかしいというか。日頃から、その礼儀正しさだけは一目置いている。


 俺も一気にカップをあおった。いっそのこと、デザートにすればよかったか。ただ、財布にあまり余裕があるわけじゃない。夏休み、というのは意外と恐ろしいものなのだ。


「もう少しゆっくりしていくか?」

「いいえ。平気」

「あいよ」


 返事を聞き伝票に向かってそっと手を伸ばす。

 だが、丸まったペラペラの紙は一足先に取り上げられてしまった。


 視線をすぐに、正面の女に戻す。


「いくらだっけ」

「ここは私が払うわ」

「まとめてってことか。じゃあ清算は店の外で」

「そうじゃなくて。……その、いつものお世話になってるから」


 五十鈴は言いにくそうにして身じろぎをした。俺と目を合わせることなく、すぐに視線を手元に落とす。


 つまりはご馳走してくれる、ということのようだ。はっきり言わないのは、またなんともこいつらしいことで。

 一つ納得したことがあった。どうりで、俺がコーヒーを頼んだ時、それでいいの、と念押ししてきたわけだ。その頃から、奢る心づもりだったのだろう。


 しかし、もちろん甘えるつもりはない。懐事情は厳しくとも、これくらいなら許容範囲。最悪、姉貴にせびる。


「いいから、別に。余計な気遣いだ」

「でも……」

「だいたい、姉貴ならともかく、俺はお前に何もしてないだろ」

「そんなことないわ。ご飯作ってくれるし、オーガイと遊んでくれるし、朝も起こしてくれるし」

 あわせて、彼女は数えるように指を折る。

「最後のは、自分でできるようになろうな」

「……善処は、する」


 口振り、表情共に、全く自信はさそうだった。最近では、よほどリラックスしてるのか。こいつもまた、他の二人の例に漏れず朝は遅い。


 だが、飯の件もそうだが、ただのついでだ。五十鈴がいなくとも、諸悪の根源は残ったまま。すべきことは変わらない。


「ともかく、そんなことしてくれないでいいから」

「ダメよ。ここは譲れない」

「意外と頑固だな……」


 居候はぎゅっと伝票を握りしめた。その顔は微かに強張って、ちょっとだけ眉が寄っている。見る人が見れば、怒っているのかと勘違いしそうだな。


 おそらく、この問答に終わりはない。奴が引くイメージが微塵も湧かない。

 ここは俺が白旗を上げることにした。それで気が済むんなら、好きにしてやろう。第一、俺が損するわけでもない。

 ただ、申し訳ないし、何より女子に奢られるってのは、なんとなく情けない……。


「わかったよ。じゃあ今回は頼むな」

「うん。初めから言ってるわ」

「そうだったな。ありがとう、五十鈴」

「こちらこそ、いつもありがとう、根津君」


 どうして、俺たちはこんなところで感謝の言葉を交わし合っているのか。

 いや、こっちの方は正当だ。向こうの方が……まあ、こいつの若干の天然具合は今更どうしようもない。


 先に出てるぞ、と断って立ち上がる。後ろで五十鈴の動く音を聞きながら、出口を目指した。

 ちらりとスマホを確認すると、時刻はもう二時近い。ちなみに姉貴から『おひる』という、意味不明なメッセージが来ていた。


 無事に会計を済ませた五十鈴を迎えて、一緒に学校に向けて歩き出す。一応、もう一度礼を言ったところ、彼女は黙って頷いた。どこか照れているように見えたのは、気のせいかもしれない。


「そういや、いつぶりだ、部室行くの」

「どうだろう。覚えてないわ」

「みんな寂しがってたぞ」

「そうなの?」


 ある種の社交辞令というか。真顔で聞き返されると、反応に困る。


 そんな風に時に会話を、時に沈黙を交えながら、部活で賑やかな我が薫風高校に辿り着いた。


「おそかったねー、こーすけくん……っと、みおっちも一緒だったんだ!」


 部室の扉を開けるなり、真っ先に部長の顔が目に入った。

 退屈そうにしていたのはどこへやら。勢いよくこちらに駆け寄ってくる。


「あ、ホントだっ! お疲れ様でーす、美桜先輩」

「おつかれさまです、根津先輩、美桜先輩」

 ああ、三田村はやはり文芸部のオアシス。


 騒がしくなるのを感じながら、無人のソファへと避難する。

 静香先輩の姿は見当たらない。おそらくまだ講習中だと思う。なにはともあれ、美紅先輩が存在することは何のたよりにもならない。


 入り口で盛り上がる部長とのぞを遠巻きに眺めていると、目の前に湯飲みが置かれた。並々に、ペットボトルのお茶が注がれている。


「サンキュー、三田村」

「いえ。お菓子も食べますか?」

「それはあいつにやってくれ。一番の大食いは奴だろう」

「私、そんなに食べてない」


 軽口を叩いていると、向こうにいる人気者から刺々しい声が飛んできた。二人と話しているのではなかったのか。

 勘がいい奴め……苦々しい思いで、ほのかな甘さが売りの緑茶に手を付ける。


 会話が変に途切れたためか、美紅先輩がこちらにやってきた。その顔には、どこか邪悪な笑み。

 背中に悪寒が走る。


「いやぁ、噂は本当だったんだねぇ。二人が同棲してるって」


 目を輝かせながら露骨な言葉を口にする様は、ここ数週間鳴りを潜めていた、トラブルメーカーとしての姿だった。





          *




 窓の外にはすっかり夕暮れがやってきていた。かぁかぁ鳴くカラスが、一層哀愁を感じさせる。


 一日が終わっていく。高校生の俺にとっては、学校にいる時間がほとんど。今は夏休みでも、もう少しすれば、また日常が始まる。


「わっ、もうこんな時間。美紅ちゃん、そろそろ」

「ん。じゃあ帰ろっか、みんな」


 三年生の先輩方が揃って腰を上げた。静香先輩は、まだ滞在時間が一時間ほどだった。


 俺たちも、バタバタと片づけを始める。

 といっても、俺がかつてやっていた部活に比べると、手間は少ない。お茶とお菓子、そして資料類を戻す程度。

 掃除だって、部屋がそんな広くないため、手分けすればすぐに終わる。


「でもよかったぁ、今日は久々に美桜ちゃんの顔が見れて。大丈夫、元気してた?」


 扉を出て、全員が揃うのを待つ間、雑談が始まる。

 もちろん、あの狭い通路ではない。あんなところで話し込んでいたら、人が詰まって仕方がない。


 普通の、長く伸びた廊下。ずらっと並ぶ教室には灯りはついていない。

 ただすぐ左手にある図書室にはまだ明るかった。閉館中、という看板はあるものの、おそらく中では、中野さんと図書当番が最後の仕事に取り掛かっているに違いない。


 ふと俺は、何か忘れている様な気分になった。だが、すぐに気のせいだと思ってて、軽く頭を振る。


「静香先輩、その質問はもう五回目ですよ」

「あれれ、そうだっけ」


 目をぱちくりさせるしっかり者な先輩の方を見ていると、後ろから袖を引っ張られた。

 なんだよ、と目を向けると、ニヤニヤした顔をしたのぞがそこにいた。


「なんか、親戚のおばさんみたいですよね、静香先輩」

「バカやめろ、聞こえるぞ」

「大丈夫よ、浩介君。ばっちり聞こえてるから」


 ゴゴゴ、そんな効果音が聞こえてきそうなほど、後ろからの圧が凄い。その声がいつもの調子なのが、これまたなんとも恐ろしい。

 とても振り向いて確認する気にはなれないが、のぞの表情からどんな怒り模様かはなんとなく察しがつく。


 最後に部室を出てきたのは、責任者でもある部長だった。しっかり施錠すると、確かめるようにノブを回す。当然、扉が開くことはない。


「さて、鍵はっと」

「私、戻してきます」

「そう? 悪いねぇ、みおっち」

「あの、先輩。私がやりますから」

「大丈夫よ、詩音さん。これくらい大したことじゃあないから」


 くるくると、部長の手遊びの道具にされていた鍵は、程なくして五十鈴に渡された。

 三田村はそれを申し訳なさそうに見守っていた。


 鍵返却、というのは意外と面倒くさい。目的地である事務室は、生徒用玄関からは少し遠い。おまけに、書き物をしないといけない。


 必然、じゃんけんの対象になるのだが。

 なぜか専ら、この心優しい一年生の仕事となっていた。あとついでに、のぞもそれについていく。


「では行きましょう、根津君」

「なぜ俺も」

「? 帰り道は同じじゃない」

「そうだけど。別に先に帰るだけだ」

「行ってあげたら、いいじゃないですか、先輩」


 ぐいっと、のぞに身体を押された。意外と強い力。

 顔だけで振り向くと、なんともまあ素敵な表情をしている。


 近くに迫った五十鈴は、黙ってこちらを見るだけ。ただ、物言わぬ迫力はある。大人しく従え、とその鉄仮面の下に文字が隠れてる気がした。


「それじゃあ決まりだね。後はよろしく、お二人さん」

「お疲れー。また明日ー」

 

 先輩方の言葉に続いて、後輩たちも口々に別れの挨拶をぶつけてくる。そのまま一団で、近くの階段を下りてくる。


 その姿が完全に消えるのを待って、五十鈴はくるりと身を翻した。誰もいない廊下を、つかつかと歩いていく。


 このまま逃げ帰れば、どういった反応をするか。気になるけれど、ここは素直に従うことにした。

 たぶん、よくないことが起こる気がする。


「失礼しました」


 事務室を出て、ようやく任務終了。

 後はのんびりとバスに揺られるだけ。なぜかいつもの三倍ほど身体は疲れているので、自転車じゃないのは楽でいい。


 玄関に向かおうと、踵を返したところ――


「お兄ちゃん。美桜先輩」


 後ろから、忌々しい女の声がした。

 無視して歩き出そうとするが、五十鈴に肩を掴まれた。


「瑠璃さんよ」

「知ってる」

「あと、深町さんもいる」

 

 深町も……? そういえば、彼女に会うのはずいぶん久しぶりだ。最後に会ったのは、夏休み序盤の講習期間中。


 そういうことなら、と俺もまた声のした方に身体を向ける。五十鈴の言った通りの女子生徒がゆっくりとこちらに近づいてきていた。

 ウンンドブレーカー姿なので、ちょうど部活が終わったところだろう。俺たちと合流すると、瑠璃は不躾な視線をぶつけてきた。深町は、少し元気がなさそうに見える。


「今帰り?」

「ああ。二人もか」

「うん、鍵返しに来て」

「深町も?」

 クラスメイトは、微妙な表情のまま頷いた。


 弓道部では、鍵の返却は一年男子に押し付け――任されることが多い。緩やかなっ上下関係がそこにあった。それとなんてことはない女尊男卑。


 だから、二人が来るというのは意外だった。

 もしかすれば、今日は女子の練習日、だったのかもしれない。この時期は百射会とかいう、素敵なイベントが男女別に行われる。

 ちなみに文字通り、百本矢を射る。ただそれだけ。


「お兄ちゃんにしては鋭いね。正解」

「そりゃ、疲れただろ」

 ちらっと深町の方を見ながら言う。

「まね~」


 瑠璃の返答は全く気の入ってないものだった。

 関心事は他にあるようだ。さっきから、ちらちらと横目で直属の先輩を見ている。終いには、肘で小突き始めた。

 我が妹ながら、なんと礼儀がなっていない。そこに関しては、俺の隣にいる無愛想女を見習ってもらいたいものだ。


 さて、後輩から妙な合図を受けている深町はといえば、その顔が見る見るうちに固くんwってしまった。目線を下げ、唇を噛み、次第に顔が赤らみつつある。

 もじもじと、俺のことを見てはまた俯く。その繰り返し。初めて話した時も、こんな挙動不審だった気がする。


 なんか怖がらせるようなことをしただろうか。あるいは、俺のどこかに目に見えた異常があるのかもしれない。それを指摘するのが、憚られる、とか。


 やや困惑していると、意を決したように深町は顔を上げた。もはや耳まで真っ赤。それでも、力強く見つめてくる。


「あの、その、根津君がもしよかったら、ですけど」

「どうした、何か頼み事か?」

 言いにくそうに言葉を切ったので、柔らかく続きを問うた。

「あたしともどこか遊びに行っていただけませんかっ!」


 お願いします、と言わんばかりに勢いよく頭を下げる深町さん。精一杯さがひしひしと伝わってくる。

 うん、素晴らしい角度。全国お辞儀コンテストで、表彰台に登れることだろう。……そんなものがあるかは知らないが。


「ええと、はい……?」


 あまりにも突拍子がなさすぎて、理解と衝撃は同時に遅れてやってくるのだった。

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