第77話 悲しみに暮れる夜
ペンの走りはさっきまでよかったが、完全に詰まった。
放り投げて、ベッドにダイブ。布団の柔らかな感触が気持ちいい。このまま目を瞑ってしまうと眠れるんじゃないか、というくらいの疲労感。
「にゃあ」
「……またお前か、オーガイ。ご主人様に遊んでもらえよ」
うつ伏せのまま顔だけ横に向けて、枕元にやってきた黒猫を撫でる。最近は、こいつにとって心地よい撫で方というのがわかってきた。
五十鈴と黒猫が来てもう五日ほど。その間、たくさんの困難があったが、ようやく落ち着いてきた。
オーガイはどうやら、俺の部屋を自分のだと思っている節がある。今みたく平気でベッドに乗ってくるし、好き勝手に出入りし、闊歩もする。
おかげで、彼の痕跡があちこちに残ってしょうがない。コロコロをする回数が増えた。俺も奇麗好きになった、というわけだ。
ともかく、彼のお陰でより眠さに拍車がかかる。ぽかぽかとした心地、瞼が重力にに負け、呼吸が穏やかに。
だが――
ピピピ。
アラームが鳴った。先ほどセットしたものだ。ほんの一時間前のこと。
あまりのタイミングのよさに苦笑しながら、オーガイを抱っこして立ち上がる。我がことながら、ほとんど予想通りだったな。
まあ、普段の癖で準備したのだが。テスト前など、複数科目を勉強する時は一時間で区切りをつける。それが集中力の限界。
机上のコピー用紙は半分ほど埋まった。原稿を書く前のアイディア出し。今日はそれなりに進んでいる。
下地にしたのは、昨日友成たちと遊んだ時のこと。ちょうど麻雀をやらないかと誘われたので、ほいほい出向いた。
勝負の結果については、決して思い出したくない。
「とりあえず風呂、入るか」
一度手を止めたところで、行き詰ったものがなんとかなるわけもなく。アラームを切ってスマホをベッドに放ってから、机のそばを立ち去った。
「瑠璃ちゃん、肘下がってる」
「……えっ、ほんと?」
何をしているのか、
ちらりとリビングの方に目をやると、灯りがついていた。きっと五十鈴の奴が根城にしているのだろう。
ともあれ。風呂場は空いているということだ。
腕の中の猫を解放してやると、彼はその場で丸くなってしまった。
脱衣所の扉に手を掛ける。鍵はかかっていない。
躊躇うことなく、俺は扉を開け放った――
「?」
「…………あっ」
思わず固まってしまった。
そこに、湯上り姿の女性がいた。
辺りには湯気が立ち込め、風呂場のドアは開いたまま。
こちらに正面を向けているが、ちゃんとバスタオルで隠している。切れ長の瞳は、ばっちりとこちらを捉えていて――
「わ、悪い、入ってると思わなくて!」
慌てて、すごい勢いで扉を閉めた。背中を向けて、全く言い訳にならないことを口にする。
「こっちこそ、ごめんなさい。鍵かけ忘れたの、私」
「いや、それでも……ってか、なんでそんな平気そうなんだよ」
「別に見られてないかなって」
「まあ、そうだけど……」
あの女、こんな時まで無表情チックとは……。普通、悲鳴の一つや二つ上げるところだろうに。いや、叫ばれたいわけではないが。
これが瑠璃だったら、大騒ぎして半殺しになっていたところだ。菫ちゃんだったら泣き出す。
あいつの言うよう、すぐに部屋を出てきたので、何も見ていない。それでも、未だ胸はドキドキしたまま。
どうして俺がこんな目に遭わないといけないんだろう……
「ちょっとうっさいんだけど!」
「なにしてるの、浩介君」
騒ぎを聞きつけた姉妹たちが、扉から顔を覗かせてきた。
「なんでもねーよ」
「お風呂? 今美桜ちゃんが使ってるはずだけど」
「もしかして、ノゾキ? うわー、やだ、サイッテー! 警察呼ぼ、警察!」
「誤解だ。ったく……」
今起きた事件を悟られないように、平然を装って扉のそばを離れた。
とりあえず、一度部屋に戻ろう。
そう思ったのだが。
「なんだよ」
「オーガイ君は見た、ってやつね」
姉貴が得意顔で言い出した。
「そんな大昔のドラマじゃあるまいし」
居候の猫が立ち塞がった。何か言いたそうな瞳で、じっとこちらを見上げてくる。
こういう時、言葉が通じないのは本当に不便だと思う。
そのまま睨みあっていたら、後ろで扉が開く音がした。
「根津君、急ぎよね」
「……別にそんなことは」
「そうなの?」
謎のやり取りに、ピンと来たのは瑠璃だった。
顎に手を当てていたかと思えば。その顔がいきなりハッとした。
「まさか、お兄ちゃん……知らずに入ってたんじゃ」
「そんなわけねえだろ。人聞きの悪いことを」
「うん。そうよ、瑠璃ちゃん。ちょっとびっくりした」
「驚きはしたんだな。そうは見えなかったけど……あっ」
途端、失言に気が付いた。下手に誤魔化そうとしたのが失敗だった。
姉妹の表情が一気に変わる。
妹の方は嫌悪感に満ち、姉貴は能面のように無表情。
「浩介。ちょっとリビング来なさい」
「姉貴、いや、菫姉! 違う、誤解だ。わざとじゃな――」
「言い訳は後で訊きます。場合によっては、お父さんとお母さんにももちろん連絡させていただきます」
そのぞっとするような声音を聞いたのは、本当にしばらくぶりのことだった。
無関係なはずの瑠璃ですら、その下で青い顔を見せていた。
*
風呂上り。気分がようやくすっきりした。
水を飲もうとキッチンに行くと、ソファの方で姉貴が誰かと電話しているのが見えた。つい顔が強張ってしまう。
「うん、わかった。おばあちゃんには言っとく。じゃあね」
「母さん?」
「そう。お墓参りの話」
カレンダーを見ると、盆はすでに数日後に迫っていた。親戚の集まりは土日両日。片や親父の方、もう一方は母さんの方。両親ともに、この街に実家があると必然こうなる。
いつのまにそんな夏休みを消費したのか。まったくもって、不安でしょうがない。なにしろ、その自覚がまるでないのだから。
「二人とも、帰ってこられないて」
「そんなに忙しいのか、親父?」
「みたい。お母さんだけでも、って思ったんだけど、お父さん放っておいたら死ぬからって」
「……誰かさんみたいだな」
「瑠璃ちゃんのこと?」
本人に心当たりがないのが、本当に性質が悪い。そもそも、瑠璃は今でもかなり自立したところがあるだろう。
コップになみなみと麦茶を注いで、俺もソファへ。軽くテレビを観て、寛ぐ心づもりだった。
姉貴がちょっと退いてくれた。そこに腰を下ろす。
「五十鈴は?」
「部屋で瑠璃ちゃんの宿題見てくれてる。ちゃんと所在を確認して、えらい、えらい」
「そんなつもりはない」
「まあ一応釘刺しておくけど、次はないからね。ちゃんと気を付けないとダメ!」
「もうそれは百回は聞いた」
苦い顔で言葉を返すと、姉貴は得意げな顔で何度か頷いた。
ようやく満足が行ったらしい。
ともかく、五十鈴がここにいなくてよかった。さっきの今で、どうにも顔を合わせにくくて仕方がない。
姉貴に窘められ謝罪した時も、とてもじゃないが、その顔をまっすぐ見られなかった。
テレビはバラエティ番組を流している。ぼんやりと、そこに視線を固定する。
姉貴は熱心にスマホを弄っていた。彼女にしては、珍しいことだ。
「あー、疲れた。……うわっ、ヘンタイだ」
そのままのんびりしていると、根津家の次女が姿を見せた。顔を曇らせて、びしっと指を突きつけてくる。
「瑠璃、偉大なる兄のことをそんな風に呼ぶんじゃない」
「ふつうさ、堂々とノゾキにいきますかね?」
「だから違うって言ってるだろ!」
最後に蔑むような眼差しを残してから、瑠璃は冷蔵庫の中を漁り始める。
その奥から、五十鈴ものっそりと姿を現した。
気まずくて、つい顔を逸らす。
「美桜さんも何か食べます?」
「いえ、私は」
「遠慮しないでいいんだよ。あ、たかそーなプリンあるじゃん」
「待ってそれ、わたしの!」
「なるほど。さっすが、おねえちゃん。センスいいわ。えっと、美桜さんの分は……」
「だから、待ちなさいってば!」
姉貴は、らしくない俊敏な動きで二人の方に飛び出していった。普段は、かなり鈍いくせに、こんな時だけ。
ともかく、突如広くなったソファ。ここぞとばかりに俺は寝そべることに。
かなりの寝心地の良さだ。頭に敷いた枕代わりのクッションは、かなり柔らかくて気持ちいい。
そんな安らかな時間は、すぐに終わりを迎えた。
「座りたいのか?」
こちらを見下ろしてくる五十鈴に、仕方なく焦点を合わせる。
「別に」
「しょうがねえな」
「だから、別にって」
身体を起こして、さっきまで足を載せていた方へと動いた。
空いた場所に、五十鈴は遠慮しながら座る。冷蔵庫の前では、まだ馬鹿二人が揉めていた。
「ほんと悪かったな、さっきの」
「もう気にしないで。何かされたわけでもない」
「そうか」
五十鈴はどこまでも平然としたご様子。どこから取り出したのか、涼しい顔で読書を始めている。
恥じらい、という感情はないんだろうか。
そのゆったりとした部屋着姿と、漂ってくる甘い香りに、ついどぎまぎとしてしまう。思い出したくないのに、さっきの一幕が脳裏を過った。
気まずさに耐えかねていると、後ろから肩を叩かれた。
「おにいちゃん、アイス買ってきて」
「なんだよ、いきなり」
振り返ると、小生意気な顔した妹。
「だって、おねえちゃん、プリン譲ってくれないし」
「そりゃそうだよ。わたしのだもん」
「ねっ、宿題頑張ったゴホウビに!」
「そんなこと言ってたら、毎日買ってくる羽目になるだろうが!」
毎日が記念日、みたいな。第一、宿題は俺でも頑張っている。何も特別なことじゃない。
あえて語気を強めたのに、瑠璃は一向に怯まない。むしろ、不敵に笑い始めた。不気味ではなく、ただただ面白い。
「いいのかなぁ。さっきの話、のぞや翠先輩に広めてもいいんだよ」
「喜んで買わせていただきます」
すくっと立ち上がった。そして、五十鈴に目を向ける。
「ということで、お前は何がいい?」
「えっ、私はいらない」
「アイス嫌いだったら、他の物でもいいけど」
「いいんだよ、美桜ちゃん。遠慮しなくて。好きなもの言って」
なぜそれをお前が言うのか。突如戻ってきた姉貴の顔を強く睨む。
しかし、彼女もまたまるで相手にしてくれない。
「そうそう、あたしの宿題見てくれたお礼!」
「それは、お前が個人的にしろよ……」
「じゃああの、抹茶味」
「へいへい、わかりやした」
そのままリビングを出て自室へ。ごそごそと部屋の中を漁る。
風呂上がりだというのに、なぜ俺は出かけないといけないんだろう。もう夜もいい時間なのに。
財布を持って、サンダルを履く。ゆっくりと扉を開けた。
「じゃあ行ってきます」
「あの、お姉ちゃんの分は……」
何か聞こえた気がしたが、俺はそのまま家を出た。財布の膨らみがまた減ることに、多大な悲しみを覚えながら。
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