第76話 猫と彼女
ニャオン。
耳慣れない音で目を覚ます。瞼を開けると、胸の上に黒猫様が鎮座していた。
愛くるしい顔立ち、艶のある毛並み、オーガイくん、その猫である。長い尻尾をユラユラさせてるのが、またなんとも可愛い。
「……なんでこいつはここにいるんだ?」
身体を起こそうとすると、オーガイは床に飛び降りた。軽やかな身のこなしだ。どんくさい飼い主とは大違い。
着替えの最中、彼はつぶらな瞳で見上げてくる。愛おしくってたまらない。昨夜、遅くまで
部屋を出ようとしたところ、扉が僅かに空いていることに気が付いた。どうやら、オーガイはここから侵入してきたらしい。
ただ、疑問は残る。眠る前、確かに扉はぴたりと閉じていたはず。
足音を殺して、リビングへ。ソファには不自然な膨らみが一つ。じゃんけんで負けたのは、姉貴だ。奴に与えられたのは、ブランケットのみ。
多少もの音を立てたところで、あの女が目覚めることはないだろう。あまり気にせず、朝食の準備を始める。
四人分か、ちょっと考えてみてもあまり大変ではない気がする。
「なんだ、お前。腹でも減ったか?」
「にゃあん」
「そうか。よくわかんねえな」
いつまでも足にまとわりついてくるオーガイ。果たしてどうしたものか。
早いところ飼い主が起きてこないだろうか。だが、期待するだけ無駄というもの。あいつもまた朝は弱い。
結局、猫のことは放っておいて、米を研ぎ始める。味噌汁はインスタントで、あと主菜に何か適当なものを。
「……誰も起きてこない」
朝ごはんの用意が済み、時刻はもう八時近い。夏休みモードだからと言って、根津家の朝が遅くなることはないのだ。
ソファの怪物と、二段ベッドのコンビ、どちらから片したものか。すっかり大人しくなったオーガイを眺めながら、一つため息をつく。
思案していると、ドアが開く音がした。
「おはようございます」
「五十鈴か。ああ、おはよう」
ゆったりとした足取りで、姿を見せる。どこか眠たそうに。キッチンの入口に立つあいつは、なぜか制服を着ていた。
家に来た時からそうだったが、荷物を取りに帰った時に、私服は持ってこなかったのだろうか。あるいは、そもそも持ってない……なんてことはあり得ないか。
昨夜は早々に部屋に引き上げたため、寝る直前のことまではわからない。さすがに制服で寝たわけではないだろうが。
もはや、五十鈴についてはなんとも言えない。
それにしても変な感じだ。この女がうちにいるなんて。一晩たった今も、一向に慣れない。
「あなたがやっぱり朝食当番なのね」
「ああ。瑠璃の奴、ぐっすり寝てたろ」
「うん」
控えめに、五十鈴は頷いた。
「困った奴め……」
腰に手を当てて、盛大にため息をつく。姉貴共々平常運転過ぎる。
足元にいたオーガイはのろのろと飼い主の方に近づいていった。それに合わせて、飼い主も腰をかがめる。愛おしそうに、その首元を擦り始めた。
「オーガイ、ここにいたのね。起きたらいないからびっくりしたわ」
「そいつ、俺の部屋に……胸の上に乗っかってきたんだが」
「そうなの? 懐かれてるのね、根津君」
猫をかわいがりながら、五十鈴は話しかけてくる。その声はいつもの数倍ましで弾んでいた。表情もかなり柔らかい。
初めて見る姿に、ついドキッとしてしまう。相手はあの五十鈴美桜、俺の天敵のはずなのに。
目を逸らして、煙が立ち上るフライパンの方を眺める。こいつが起きてきたということは、もう朝食の時間にするべきだろう。
「何か手伝うことはない?」
「いいから座ってろ。……と、言いたいところだが、ソファは塞がってるもんな。叩き起こしていいぞ、菫」
「いいの、お姉さんにそんなぞんざいな口を利いて」
「お前が黙ってれば問題ない」
「それもそうね」
ふふっ、と五十鈴の方から笑みがこぼれた。ちらりと見ると、オーガイを胸に抱え穏やかな表情をしている。
「叩き、はともかくとして、本当に姉貴を起こしてくれると助かるよ。俺は、皿とか用意するから」
「うん、わかった」
そそくさと、五十鈴は姉貴の方へと近づいていく。
寝起きの悪さを知っている俺としてはちょっと気の毒になりながら、素知らぬ顔で盛り付けを始めるのだった。
*
瑠璃が部活に向かうのを見送ってリビングに戻る。
五十鈴はソファに座って、オーガイを膝に乗せたまま本を読んでいた。
姉貴も出かけて、俺はこいつと二人きり。自分の家だというのに、息が詰まる思いがしてしまう。
「コーヒーでも淹れようか」
「ううん。気を遣わないでくれて、大丈夫よ」
「そうか」
とりあえず、食卓の方に着く。
……落ち着かない。ついあいつの方が気になってしまう。
どうしてこんな時に、姉貴も瑠璃もさっさと出かけて行ってしまうのか。
「そろそろ俺たちも部室行くか?」
「私、おばあちゃんのお見舞い行かなきゃだから。」
「……あ、そうか。悪い、気づかなくて」
「気にしないで。私の方こそ、言ってなくてごめんなさい」
ぺこりと、五十鈴は頭を下げた。
なんだか申し訳なくなってしまう。
気まずい沈黙が広がってしまいそうなのを察知して、俺は慌てて口を開いた。
「制服着てるから、てっきり今日は行くのかと思ってたよ」
「ああ、そういうこと。こっちの方が楽だから」
「いや、わからんでもないけど」
無頓着というか、大雑把というか。きっと周りがこいつに抱くイメージとは、かけ離れているだろう。
傍目から見ている分には、物静かな文学少女。学年でもトップクラスに美人な――これは、俺の意見じゃあないが。
静かに時が進んでいく。ぺらぺらとページを捲る五十鈴の姿は、このリビングにはひどく不釣り合い。
俺にとってこの場所はとても賑やかで騒がしい場所だ。
「何読んでるんだ?」
「ミステリーじゃないことは確かよ。あと、あなたが最近よく読んでる作家のでもない」
そう言いながら、彼女は立ち上がった。こちらに近づいてくると、ブックカバーを外して文庫本を見せてくる。
全く見覚えのない作品、そして作者。タイトルからその中身の想像もつかない。
「興味あるなら貸すけれど。バッグに入ってるから」
「あの大荷物、全部本とか言うんじゃないだろうな、お前」
俺は彼女が持ってきた、大きめのキャリーバッグを思い浮かべた。
「いいえ。着替えとかちゃんと入ってるわ。……馬鹿にしてるの?」
「からかってみたんだ」
そう言うと、五十鈴は少し顔を顰める。ため息をついて、ゆっくりとソファの方に戻っていった。
「にゃあ、にゃあ」
「お前のご主人様はあっちだろ」
オーガイはこちらに残ったが。
足元にまとわりついてくる。つい愛くるしくて、俺は彼のそばにしゃがみ込んだ。そーっとその身体を撫でてみる。
彼は嫌がる素振りを見せない。
「オーガイ、あなたには大人しいのね」
「姉貴と瑠璃が構いすぎただけだろ、あれは。何か悪かったな」
昨晩、そして今朝含め。我が姉妹は、やたらとオーガイに触りたがる。やりすぎたせいか、最後にはオーガイは二人を避けるようになってしまった。
かなり凹んでいるように見えたが、自業自得だ。特に姉貴の方は。ここぞとばかりに、愛を爆発させすぎ。
「気にしなくていいわ。オーガイもびっくりしただけだと思うし」
「そうだといいがな」
「菫さんも瑠璃さんもいい人だから、大丈夫」
「なんだそれ」
あまりにも意味不明過ぎて、つい笑ってしまう。
釣られたのか、五十鈴もまた頬を緩めた。
「そういや訊きたかったんだが、こいつは瞬間移動でもできるのか?」
オーガイの頭を撫でつけながら問う。
「……また揶揄ってるの?」
「いや、さっきも言ったろ。目が覚めたら、こいつ部屋にいたんだ。扉は締めてあったはずなのに」
「ああ、そのこと」
何でもないという風に、五十鈴は頷きを繰り返した。そして軽く微笑む。
再びこちらに近づいてくると、自分の飼い猫を持ちあげた。ついてこい、というように顔を動かして合図を送って、扉の方へ。
「見てて。――はい、オーガイ。どうぞ」
「にゃっ!」
短く鳴くと、彼女の腕からオーガイが脱出する。
扉に近づいたかと思うと、跳び上がって器用にドアノブを下げた。仕上げにキック。
「すごいでしょ」
「……ああ、驚いた」
確かにオーガイのアクロバットは驚きだ。
だがそれよりも、俺は五十鈴が子どものようなあどけない笑顔を浮かべたことに衝撃を受けていた。
こいつもそんな顔ができるんだ、と。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます