第75話 共同生活の始まり

「……何言ってんだよ、姉貴!」

「そうだよ、お姉ちゃん。いきなり急すぎるって。五十鈴先輩にも、準備ってものがいるでしょ!」


 うん? 瑠璃の言っていることがおかしい気がする。それじゃあまるで、うちには何の問題もないようじゃないか。


「困った時は助け合いの精神です。美桜ちゃんは浩介君の部活仲間で、瑠璃ちゃんの先輩なわけでしょう? 手を差し伸べない理由はどこにありますか」

「それは大層立派な博愛精神だと思うが」


 偉そうにご高説を述べてくる姉貴の姿は、まるで大人びて背伸びをする子どもの姿に似ている。

 理論としては納得できないものではない。かといって、その結論は簡単に引き下がれるわけもなく。


 俺は当事者の顔に目を向けた。

 彼女は黙って俺たちの話を聞いたまま。そこには、やや困惑の色が浮かんでいる。


「あの、流石にそこまでお世話になるわけには……」

「でも一人だと色々と大変でしょう? 今日だって、お夕飯がお弁当……ダメとは言わないけど、そればっかりが続くのもね。それに、なにより危ないし」

「危ないって……」


 鼻を鳴らして、俺は眉を顰めた。いくらなんでも大袈裟だと思う。

 これがまあ姉貴なら、俺も心配するが。彼女の壊滅的な買いスキルでは、一日たりとも生き延びられまい。


「浩介君! こんなに美人な子が一人で住んでいるのよ。なにかよからぬことが起きても不思議じゃない」

「考え過ぎだって。法学部だからって」

「それは関係ありません」

 

 ぴしゃりと言ったが、どうも刑法分野辺りの知識が、姉貴の思考回路に影響を与えて居そうである。なにせ、専攻がばっちりそれなのだから。


 こうなると、姉貴が引き下がることはないだろう。正義感が強く、その上頑固。それは長所にもなれば、短所にもなる。


 五十鈴のことは気掛かりだが、家に泊めるまでは流石にやりすぎだと思う。第一、この女は別に助けてないわけで。いうなれば余計なお節介。こいつに必要のない気苦労を背負わせるだけ。


 正直言うと、いざそうなった時の俺へのダメージが甚大すぎる。クラスメイト、しかも女子と、暫く生活を共にするなんて、何が起こるか少しも想像できない。


「私はね、美桜ちゃん、あなたのことが本当に心配なの。ただでさえ、おばあちゃんが入院して心細いだろうし。それに、寂しいでしょ」

「寂しいってそんな。兎じゃあるまいし」

「お兄ちゃん、わかってないなぁ。大切な家族が病気なんだよ? どれだけ辛いと思ってるの!」


 ついに、妹からも怒られた。さっき思った通り、こいつは初めから姉貴側の人間だったわけだ。


 俺は再び五十鈴の方を見た。この姉妹は肝心なことを忘れている。いや、片方はさっきまで覚えていたのに。

 つまり、最も大事なのは彼女の意思なわけである。


「で、お前はどうしたいんだ」

「どうしたいって。やっぱり迷惑じゃ」

 逡巡するように、、その目が泳ぐ。

「それは気にしないでいいわ。そもそも、迷惑だと思ってたら初めからこんなこと言わないもの」


 安心させるためか、姉貴はとても優しそうな表情で強く頷いた。そこには、頼りになる菫姉の姿があった。最近では、すっかり影を潜めていたが。


「そうそう。それに、五十鈴先輩がうちに泊まるっていうの、何か楽しそうだし! ……ホントはちょっと複雑だけど」

「どっちなんだよ、お前は……」

「え? 今の聞こえてた? お兄ちゃん、サイテーだね」

 瑠璃はぐっと眉を顰めてみせた。


 わけがわからない。こいつが変なことを口走らなければよかっただけなのに。

 理不尽なところは姉貴にそっくりだ。それを言うと、また別の火種になることちがいない。


 とにもかくにも。この場は、どう考えても姉貴派が優勢。

 こうなってくると、俺もどっちだっていい気がする。なんとなく、五十鈴には放っておけない雰囲気があるのは確かだ。


「改めまして。五十鈴美桜さん、しばらくの間、根津家に泊まっていきなさいな。無理に、とは言わないけどね」


 年上らしい包容力を纏いながら、菫姉はそっと五十鈴に向かって手を差し伸べる。


 未だに、躊躇いがちな五十鈴だったが、ついにはその手をおずおずと握った。


「あの、それじゃあお世話になります」

「うんうん、そうこなくっちゃ。食べ終わったら、早速お泊りセット持ってこなきゃだね」

「……で、姉貴はどうして俺の方を見るんだ?」

「唯一の男の子なんだし、荷物運ぶの手伝ってあげなさい」

「頑張ってね、お兄ちゃん」


 こうして、短い間だろうが、根津家に新しい同居人が増えることになった。




        *




 五十鈴の家は、俺の家から徒歩十分程度のところにあった。以前からわかっていたが、本当に生活圏が被っていたんだな。改めて実感する。


「急いで準備してくるから、待ってて」

「別に急がなくても」


 返事をすることなく、彼女はちょっと年季の入った一軒家へと入っていく。その後ろ姿は、いつも通り颯爽としていた。


 この外観を見ると、姉貴の提案はあながち的外れでもなかった気がする。広そうな家に独りぼっち……ちょっと考えてみただけで、思わず顔が渋くなる。


 しかしあまりにも手持無沙汰。仕方ないので、塀に身体を持たれながらスマホを取り出す。適当なゲームアプリでもやることに。


「ニャーン」


 しばらくすると、猫の鳴き声が耳に届いてきた。

 素早く辺りに視線を巡らすものの、その主の姿は見当たらない。


 チリンチリン。鈴の音、それに混じって足音。さらにキャスターが地面を転がる音。

 塀から身体を離して、五十鈴邸の玄関口へ。

 案の定、そこにはあいつの姿があった。左手にキャリーバックを引きずり、右手には、謎のカゴ。入り口は格子状で、闇の中に何かが蠢いている。


「それはいったい」

「うちのネコちゃん。お姉さんに訊いたら、根津君のマンションってペット大丈夫だって」

「まあそうだが。そいつも連れてくのか?」

「うん。かわいそう」


 ……まあそうか。五十鈴がいなくなったら、そいつが正真正銘独りぼっちになるわけだし。可哀想かはともかく、エサの心配もあるだろう。


 だから家出る前、姉貴と何かを話し込んでいたのか。道理でちょっとあの女が嬉しそうにしてたわけだ。

 長年の夢が、妙な形で叶うわけだから。


「ちなみに名前は?」

「オーガイ」

「……それまた立派なお名前なこって。本名、林太郎とか言うじゃないだろうな」

「あら、よく知ってるのね」

「これでも文芸部なんで」


 実際には、この間のテスト勉強の時に、たまたま強く印象に残っていただけだが。

 いやぁ『舞姫』はなかなか厄介でしたな。


「ほかに荷物は?」

「ううん。これで必要なものは全部」

「俺、いらなかった節あるな」

「そうね。……せっかくだから、オーガイ持つ?」


 彼女はペットゲージを、そっと差し出してきた。

 何がせっかくかはわからないが、遠慮しておくことに。変な責任は負いたくない。


 ゆっくりと来た道を戻っていく。夜の暗闇の中、無言のままで。

 時折、オーガイが寝き声を発するので、完全な沈黙になることは少なかったが。


 果たして、隣の女はこの現状をどう思っているのだろう。断り切れずに、ただ受け入れてしまっただけではないのか。

 俺が困難を感じるのと同時に、五十鈴だってきっと同じものを感じているはず。いや、あいつの方が強いかもしれない。


 明日からの苦労を思いながら、何とか家に戻ってきた。それほど長い道中だったわけではないのに、なんだかぐっと疲れてしまった。


「ただいま」

「ただいまです」

「もうっ、お姉ちゃんはホント自分勝手!」


 玄関の扉を開けるなり、瑠璃の叫び声がリビングから聞こえてきた。

 どうやらもなにも、確実に揉めている。五十鈴がいるんだから、もうちょっと大人しくできないのか、あいつらは。何で短時間のうちに二度目が起こる?


 ちらりと客人の表情を窺うと、微笑ましそうな顔をしていた。彼女もまた、弟妹を持つ身。もしかすると、こうした喧嘩なんて日常茶飯事なのかも。


「ったく、あいつらは……」

「ふふ、楽しそうでいいじゃない」


 リビングに入ったところで、ようやく姉妹すみるりは俺たちに気が付いた。それで渋々言い争いは終結した。


「お、お帰りなさい」

 すみれちゃんは半べそをかいている。

「瑠璃、何話してたんだ?」

「五十鈴先輩が寝る場所」

「リビングでいいだろ、そんなもん」

 口にした瞬間、ほぼ同時に姉妹すみるりが蔑むような目を向けてきた。


「それはない。お兄ちゃん、デリカシー皆無すぎでしょ」

「うん、ほんと。お姉ちゃん、悲しい。どこで育て方を間違ったんだろ」

「育ててもらったのは、親父と母さんだってーの。でも実際、そこくらいしかないだろ?」


 俺の部屋は論外。姉貴や瑠璃に至っては、そもそもが相部屋。となると、もう部屋は残されていない。


「そうよ。だからね、瑠璃ちゃんには悪いけど、瑠璃ちゃんがリビングかなって」

「なんでよ、お姉ちゃんが言い出しっぺなんだから、お姉ちゃんここで寝てよ」

「……よくわかったよ、揉めてた原因が」


 どちらかと言えば、瑠璃の味方をしたい。最終的には納得したものの、提案したからには初めから考えとけよと言いたい。


「あの、別に私はここで……」

 五十鈴が少し申し訳なさそうな顔で申し出た。

「ダメダメ、美桜ちゃんはお客さんなんだから。そんなことしたら、根津家の沽券にかかわります」

「言ってることだけは一人前だな。いっそのこと、じゃんけんでもしろよ」

「……お兄ちゃん、他人事だと思って。ねえ、あたし今思ったんだけど」


 そういう瑠璃の表情は、とても悪戯っ子めいている。全くいい予感がしない。

 今すぐ部屋に戻るべきだと、頭の中で警報が鳴っている。


「お兄ちゃんがここで、空いたところにあたしでよくない?」

「お前、馬鹿なこと言ってんじゃ――」

「それいいね、瑠璃ちゃん。流石、自慢の妹! お姉ちゃんも鼻が高いわ」

「ふざけたこと抜かしてんじゃねーぞ、馬鹿女!」


 こうして、姉妹喧嘩は、姉弟喧嘩へと発展を遂げるのだった。

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